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スズメバチ  作者: 宇原芭
7/21

陰妖術


――

―――

――――


 夕食を終えて、片付けが済む。すっかり綺麗になったガラステーブルに、玲華は手帳を広げ、ペンを持った。玲華の対面でソファに坐る怜乃が言う。

「先ずは基礎的な知識の確認からだ」

「宜しくお願いします」と玲華。

「最初に現実とは何なのか確認しておく。この世界に()いて、現実とは精神の知覚する観念だ」

「はい」

「質問しろ」

「現実が精神の知覚する観念であるなら、精神が単数でない以上、(すべか)らく複数の現実が在るのではないでしょうか。例えば私の現実、兄様の現実というように。確かにそういう面も無いではありませんが、実際には私たちの現実は多くの面で共有されています。これはどういう事でしょう」

「正しい質問だ。答えの鍵は感官にある。感官の観念は想像の観念より強い。この事は、僕らの精神より強く、観念を生起し改変する力を持ったものが在る事を暗に示している」

怜乃は玲華が手帳に書き記すのを待ってから続ける。

「このより強い精神が何であるかの解釈は人に依るが、これを天道、つまり神と解するが、陰妖術士の間では一般的だ」

「陰妖術士の間では、と但しを付しておくあたり、八三では異なる解釈をしているのでしょうか」

「ああ。八三で一般的な解釈は、自然法を規定している基底の現実があって、それに並行して無限に不確定の弱い現実現象が在るというものだ。精神はこの無限の不確定な現実から一つを抽象して、現象として確定し、基底の現実に上書きする力を持っていると考えられている」

「どちらが正しいのでしょうか」

「さあな。確かめようが無い。だから都合の良い方を、暫定的な真実としておくだけだ」

玲華は書き記す。

「話を進めるぞ。神でも基底現実でも何でも良いが、とにかくこの世界は一定の自然法則によって、秩序を保ちつつ運行している。そうであればこそ、僕たちは己の為すところを計画し、或いは世界に明日を期待し、法則を学び取って己の力に利用する事が出来る。生活していけるんだ。ところがどういう訳か、この世界には神が観ていない部分もあるらしい。そういう部分を、陰妖術士は現が弛んでいるとか張っているとか呼び、八三では現実度が下がったとか上がったとか呼んでいる。こういった場所では自然法が通常に働かなかったり、僕たちの想念が現実を改変してしまう。そして特に、何か強い想念が凝り固まって、自然法に反して生まれた存在を妖と呼び、陰妖術士で言うところの現の弛み、八三で言うところの現実度の低下から生まれた妖を陰妖と呼ぶ。陰妖は誕生の契機となった想念の性質に従い、周囲の現実を改変する。しかもより強い改変にはより強い意志が必要であるから、より多くの人間を巻き込んで、自身の存在と影響をより強めようとする。一人の人間が怪物の存在を信じるより、千人の人間がそれを信じた方が、説得力も真実味も、影響力も増すからな」

「では、陰妖を弱体化させるには、その存在を一般から秘匿する必要がある、という事ですね」

「その通りだ。その為に、陰妖術士はこの国で千年以上も前から秘密裏に陰妖を退治する一方で、その事実の隠蔽にも努めてきた。その点に掛けては八三も同じか、体制で言えばより徹底している。警視庁公安部公安第八課なんて名乗っているが、どこをどう探ってもそんな名称の組織は見付からないし、僕たち下っ端は八三の組織構成も、同僚の人数も把握していない」

「けしからぬ事です、古来より(みかど)に、この国に仕えてきた我ら陰妖術士を差し置き、そのような連中が我が物顔で巷間(こうかん)を跳梁跋扈しているとは。兄様はどうして八三なんかに入ったんですか!」

バンバン、と玲華が机を叩く。

「言うな。次に進むぞ。先に述べたような故に、陰妖は倒さねばならない。しかし相手は超常の存在。尋常の手段で争ったところで、歯牙にも掛からない。そこで陰妖を倒すに当たって特殊な手段が求められるのだが、これには二つある」

「二つ?」

「一つは陰妖術、もう一つは聖銀だ」

「聖銀、ですか……?」

「ああ。陰妖術は陰妖術士が主に用い、聖銀は主に八三で用いられている。先に陰妖術から説明する。陰妖術は読んで字の如く、陰妖の力を、即ち現実改変能力を扱う術だ」

「毒を以って毒を制す、ですね」

「現実改変自体はそう難しい事ではない。陰妖の存在自体が自然法に逆らうもの、故に、それ自体で周囲の現実度を引き下げる能力を持っている。その性質を利用して、術士は陰妖の体の一部などを身に着け現を弛め、想念によって現実を改変するんだ」

「それでは、術式は何の為に在るのでしょうか」

「戦う為だ。陰妖術で陰妖を倒すという事は、敵の陰妖がする現実改変よりも強い現実改変をして、敵に死んだという認識を植え付ける事であり、言い換えればこちらの現実であちらの現実を圧し潰すという事だ。より強力な現実を押し付けるには、それなりに詳細な想念や、相手が思わず見たまま感じたままの現実を信じるような、説得力なり真実味なり納得感なり、意志を拉ぐような迫力が必要になる。しかし、咄嗟の事態や戦闘という非日常に於いて、平生の思考を保つのは難しい。だから或る特定の状況認識や動作に対して、或る特定の想念が浮かぶように訓練しておく。この想起の条件付けの総体が陰妖術の体系であり、想起の条件に当たるものが術式と呼ばれる訳だ。例えば、或る特定の紋様が描かれた札が放り投げられた時、狼の出現を想起するなら、或る特定の紋様が描かれた札が放り投げられた時という状況が、術式に相当する」

「では陰妖術士とは、術式の体系を運用する能力を持った者、と定義されるのでしょうか」

「……まあ、そう言って差し支えは無いだろう」

「兄様、質問です」

「どうぞ」

「現実改変そのものには術式は必要ないのですよね」

「そうだ」

「そして、術式の内容は恣意的(しいてき)なのですよね。例えば、斯く斯くの想起を生む然々の条件は、文字でも、音でも、動作でも、何でも構わないし、その内容にも制限は無い」

「ああ。表すものと表されるものの関係には、一切の必然性が無い」

「それでは、なぜ体系が編み出されたのでしょうか。個々人で遣り易いように、各々の術式を考えた方が良いのではありませんか」

「理由が有る。術式を共有しておけば、例えば現実改変能力を宿した道具を作った際に、それを共用する事が出来る。或いは術式そのものが、一般人には意味の解らない、暗号としての機能を果たす事もある。他にも、共に戦う者と同じ理解や認識を得る事で、当の現実を強化する事も出来る。つまり現実改変の力を強める事が出来る。後は、予備動作から仲間が何をしようとしているのか察知して、連携が円滑になるとかも考えられるな。不利点も有るが、組織的に陰妖術士を育成し運用しようと思うなら、採択されて然るべきだ」

「成程」

「ところでこの陰妖術の体系だが、お前も知っての通り流派がある。概して四つだ。御三家と称される名門三派に、外様が一派。その四派を主流に、それなりの数の傍流が存在している。流派毎に術式は異なるが、特に御三家の間では互換性の有る術式も少なくない。お前の学ぶ流派は泉流(せんりゅう)。御三家の一つで、冷泉家が宗家、つまりお前の家の司る流派だ」

「兄様の家でもあります」

「どうかな」

玲華は如何にも不服そうな顔をする。それを見て、怜乃は慌てて話を続けた。

「そろそろ聖銀の話もしておこう。聖銀は言葉通り、銀に似た鉱物だ。しかし鋼のような硬さと靭性(じんせい)を持っている。特筆すべきはその性質で、どういう訳かこの金属は、現実度を既定値に近付ける力を有している。陰妖術士らしく言えば、現を鎮めるとか、安定させるとかか」

「それは、つまり、現実改変を無効化できるという事ですか」

「ああ。相手が陰妖の場合、元が自然法に反した存在だからな、聖銀の効果が高まれば高まる程、存在を維持できなくなって自壊する。陰妖への攻撃力という観点で言えば、陰妖術よりも圧倒的に優れた武器だ。陰妖術は周囲の現実度を下げるという都合上、陰妖を強くするし、周囲への影響も大きなものになる。聖銀にはそれらの欠点が無い」

「で、では、なぜ我々には陰妖術が有るのですか」

「単純な話だ。この国に聖銀の産出は皆無と言っていい。聖銀は西洋の大陸で、僅かに産出されるだけだ。だから古のこの国で陰妖に対抗するには、陰妖術しか無かった。そして陰妖術が発達した。それだけの話だ」

「成程。……しかし兄様、八三は聖銀を陰妖への対抗手段にしているのですよね?」

「ああ」

「希少な聖銀をどこから供給しているのでしょう」

「知る由も無い。だが推測なら有る」

「ご教示くださいませ」

「少し長くなるが……。そもそもこの国は、数百年に(わた)って陰妖寮が陰妖術士とその任務を統括してきた。しかし維新後に政治的な都合で陰妖寮が解体された。主流派の四家は既に構築されていた陰妖寮内の組織系統を流用し、政府から独立して陰妖退治を続けた。新政府もこれを容認し、形式的に陰妖退治は新政府から四家への外部委託となった。ところがそれも、大戦での敗北で途絶する。四家は総司令部の介入を恐れて陰妖退治を休業した。政府外の組織となっていた事が幸いしてか、四家のこの方針は当たって、陰妖術士が総司令部の介入を受ける事は無かった。そしてこの国の主権が回復してから、活動を再開した。ここまでは冷泉家所蔵の日記や歴史書で確認できる事で、ここからが完全な推測になる。総司令部は当然、その一部の人間にせよ陰妖の存在を認知していた筈だ。だからその為の部隊を組織して、これには当然、輸入した聖銀製の武器を持たせた筈だ。これが八三の前身になったのではないかと思う。全貌が明らかではないから断定できないが、いま公権力の後ろ盾を持っているのは八三だろう。少なくとも四家には無いし、公権力が陰妖に対抗する機構を持たないというのも考え難い」

「それでは結局、八三はどこから聖銀を? ひょっとして総司令部の後身たる、駐留軍から?」

「その可能性も有る。聖銀を供給し続けている上に、八三は秘匿性が極度に高い。総司令部が平和条約締結後も組織への影響力を保持したとしても不思議は無いし、保安庁への移管もされなかったのかも知れない。存外、八三の母体組織も、この国には無いかもな。まあ、何にせよ憶測の域を出ない以上、議論しても無駄だ。しっかりとこの国の組織である可能性だって有るんだからな」

「承知しました」

玲華が手帳に記し終えて、怜乃は続ける。

「次は大陰妖と陰妖憑(おんようつ)きを説明する。大陰妖とは、お前も知っての通り、国を滅ぼしかねない程の強大な力を有した陰妖だ。歴史的にも出現した例は稀だが、この義枉市には千年前の大陰妖が今も封印されている。これもお前の知っている通りだ。その力が故に、復活を目論む輩がうん十年に一人いるとかいないとか……、これ以上、特に言う必要も無いだろう。それより陰妖憑きだ。これは陰妖と一体化した人間を指す。一体化する理由は場合に依るが、その陰妖の起源たる想念と、憑かれる人間の欲望とが一致した際に一体化し易いらしい。通常の陰妖と比べて厄介なのは、奴らが生身の体を持っている事、そして通念を理解している事だ。通常の陰妖なら聖銀の特質自体が攻撃になるが、奴らは生身なので現実改変が使い難くなるだけ、通常の陰妖なら特定の想念に準拠した行動を取るだけだが、奴らは人間として普通に生活する事も、こちらの思惑を読んでくる事も有る」

 そこまで言ったところで、授業を中断させる学校の振鈴よろしく、電話機が鳴った。怜乃はそれに応じるべく、ソファから移動し、受話器を取った。

「……ああ。……そうか。……いや、今からそちらへ行く。時間は掛けない。……ああ、切るぞ」

受話器を置く。怜乃は玲華を見もしないで、

「今日はここまでだ。お前は先に寝ていろ」

と言って、外套掛けの外套へ手を伸ばすも、それが玲華の掛け布団になる事を思い返して手を止める。

「兄様? どちらへ……」

玲華が問う。

「野暮用だ」

怜乃は外套を置いたままにして部屋を出た。

 扉を開けて踏み出した怜乃の踏んだ床は、極前の居る事務所だった。後ろ手に扉を閉める怜乃は、事務机の極前へ目を遣る。極前は机に両肘を突いて、口元に手を遣り、机上に広げた地図を睨んでいた。

「それか?」

怜乃が問う。極前は紙面に視線を下げたまま、「うむ」と答えた。怜乃は極前と見る物を同じくする為に、その手前へ足を移した。而して、怜乃の目に映る義枉市の地図。所々に赤い印が付いていた。

「このバツ印が、穀堂の目撃された場所か」

「そうだ。要望通りに、ここ二ヶ月の間で報告された情報を纏めた。だがあまり確かな情報ではない。それよりも優先するべき事柄が有る故に、対応は留保していた」

「僕が対応しよう。目撃された場合はすぐに僕へ情報を回してくれ」

「検討しよう」

「手間を掛けた」

地図を取り掴もうと伸ばした怜乃の左手の首を、極前が取り掴む。

「何か問題でも?」

怜乃が言った。極前は怜乃を睨み据える。

「目的を言え。何の為に、その陰妖憑きを追う」

怜乃は小さく溜め息を吐く。その手から力が抜けたので、極前は手を離す。自由になった左手を、怜乃は親指だけズボンのポケットに容れて、右手は胸元を探って空振り。それに一瞬だけ忌々しい表情をした後、きっと何も入っていなかったズボンのポケットから、煙草の据え付けてある加熱式喫煙具を取り出して、口へ運んだ。一口、煙草を喫んで怜乃は言う。

「奴の通り名はご存知でしょうか」

「悪食、と呼ばれているそうだな。資料に有った」

「由来は?」

「いいや、陰妖術士の間でそう呼ばれているとだけ……」

「奴は陰妖を食う。陰妖を食って、その陰妖の力を得る。そういう能力の陰妖が奴に憑いている」

「放っておけば強くなり続けるという訳か」

「ええ」

「しかしな……」極前は体を背もたれに預ける。「奴の活動が八三で確認されたのは十年前。証言を得られた陰妖術士の情報に依れば、穀堂託氏が陰妖憑きになったのは三十年ほど前だという。今更お前が執着するような相手なのか」

「放置しろと?」

「放置はしない。だが特別扱いもしない。通常の手順に沿って対応するつもりだ」

「何を馬鹿な……」怜乃の眉間の皺が深くなる。「奴の目的はこの街に封印された大陰妖と、この街全体の現実度の低下に応じて参集した、陰妖術士と八三だ。陰妖術士も八三も野に放たれた兎で、奴は鷹だ。戦闘にはなり得ない。狩りが始まる」

「随分と詳しいらしいな」

「兎を見て鷹を放つという諺も在る。今からでも準備をしておいた方が良い」

「目には目を、歯には歯を、鷹には鷹を、とでも言うか? どうしろと?」

「僕が鷹だ」

「成程、それで情報を回せ、か。先にも言ったが検討はする。決して先走るなよ。お前の立場が微妙なものだという事を忘れるな」

「分かっている」

そう言った怜乃だが目角(めかど)は立てたままだった。

「もう行け」

極前は言う。怜乃は皺になりそうなくらい乱暴に地図を取って、極前へ背を向ける。極前は声を掛けた。

「それで、理由を言う気は無いのか」

怜乃は立ち止まった。

「恐怖だ」


――

―――

――――


 徒歩(かち)を使った怜乃が部屋に戻った時、灯りは消え、カーテンは閉まり、日々の闇が帰っていたように見えた。まるで玲華など元から居なかったかのように。しかし、怜乃の肩にも外套掛けにも無い愛用の衣が、それを反証していた。とぼとぼと暗い部屋を往き進んで怜乃は、地図をガラステーブルに置き、横へ腰を下ろす。その怜乃の肩の高さに、玲華は横たわっている。褥はソファで、掛け布団は黒の外套だ。外套が覆った体の、稜線が下がり、また上がる。寝返りを打った玲華の寝惚け眼が、怜乃を見た。

「兄様」

「早く寝ろ。明日は実地訓練だ」

「何をするのです」

「いいから寝ろ。一流の戦士は寝られる時には寝るものだ」

玲華は「はい」と唇を動かしたが、空気の抜けるような聞き取れない声を出しただけだ。そして完全に目を瞑る。

 怜乃は立てた片膝に、煙草を持った手の有る腕を掛け、静かに前を見ていた。端から見れば、地図を眺めているのか、闇を見詰めているのか、区別が付かない。若しかすると目を開けながら寝ているのかも知れなかった。怜乃がその体勢のまま、朝日は昇った。

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