月晧
――――
―――
――
―
怜乃は縁側に胡座をかいていた。その正面には冷泉邸の庭園を眺められる。庭園の風光る麗らかな風情は、雅趣を解する者ならば、心和まさずにおられないだろう。しかし一心不乱に書き物をする怜乃は果たしてどうか、知れたものではない。怜乃は硯に容れた赤黒い液体に毛筆を濡らし、長方形の和紙に文字のような紋様を描いている。
チリン、と鈴の音があった。怜乃の後ろにある障子、その隙間から、黒猫が頭を覗かせる。赤い首輪に金の小鈴をぶら下げて、猫は怜乃に擦り寄った。怜乃の脚を攀じ登り、胡座をかいた脚の内側で、すっぽり丸まる。黒猫はそのまま目を閉じた。猫の背を、筆を脇に置いた怜乃は、優しく撫でた。
その様子を、怜乃の後ろにある障子、その隙間から、覗き見ていたのは玲華。玲華は怜乃に近寄ると、頭や肩を怜乃に擦り当て、猫を追い遣り、怜乃の胡座をかいた脚の内側に、納まろうとした。しかし子供とはいえ猫の図体と比べるべくもない人の図体では、むべなるかな、横になった玲華は怜乃の膝から溢れた。
「降りろ」
怜乃が言う。
「みゃあん」
猫の真似。それに苛ついたか、怜乃は撫でる代わりに玲華の頭を軽く押さえた。玲華は嫌がり、怜乃の脚上で寝返りを打とうとする。
「痛、いてて、降りろ」
脚を子供の体重で押さえ付けられた怜乃は、痛みを訴え、致し方なく、玲華を自身の開いた脚の間に坐らせて、玲華が我が身を背もたれと為すに任せた。その体勢で、怜乃は自分の作業を再開する。赤黒い液体を含んだ筆の毛が、怜乃の持つ和紙の面を滑っていく。それを見て、玲華は自分もやりたいとばかりに、怜乃の手にある筆と紙を取り掴もうとする。無論、それを許す怜乃ではない。紙と筆を玲華から遠ざける。そして無論、それで諦める玲華ではない。筆と紙をあっちこっちへ追って暴れる。
「止めないか」と怜乃。「これはお前が扱って良い物ではない」
「玲華も、玲華もやりたいです」
「駄目だ。もうあっちへ行け」
「嫌です。玲華もー」
じたばたと暴れる玲華に、怜乃は愈々観念した。
「ほら、じっとしていろ。筆を掴め」
破顔して、玲華は怜乃の言う通りにする。筆を掴んだ玲華の手ごと、怜乃は筆を取って、筆先を紙面に走らせた。それは実際、怜乃の思うように動かしているのだが、玲華には取り敢えず満足らしかった。
描き終えて、怜乃は出来上がった札を庭の方へ放る。ひらひらと舞う札が地面に落ちるより早く、庭に立つ一匹の銀狼が現れていた。それに気付いた玲華は、犬と勘違いしたか、「わんわん!」と銀狼を指して叫んだ。
「月晧」怜乃が言う。「こいつをどこかへ遣ってくれ」
それを合図に、銀狼は玲華に飛び掛かり、襟首くわえて、家の中へと引き摺って行った。