皎牙
たくさんのぬいぐるみで飾られてしまった怜乃の部屋。その床に買って来た洋服が並べられる。一着一着を検めながら、玲華は嬉しそうだった。それは例えば、旅行や友人宅への招待を受けて、宿泊の準備をしているようだ。そんな玲華を、ソファに坐して、いつもの無愛想で眺めていた怜乃は、玲華の作業が一段落したのを見計らい、口を開いた。
「それで、いつ帰るんだ」
玲華は膝を怜乃へ向ける。
「まだ居させて下さい。父様から、兄様の行状を報せるように仰せつかって――」
「もういい、皆まで言うな」
怜乃は煙草を取る。玲華の表情が強張った。
「理由を言え」
「理由とは……?」
「惚けるな、家出娘」
怜乃は煙を吐き出す。玲華は静寂を飲み込む。
「黙るな。話が先に進まない」
「どうしてそう思われたのでしょうか」
「初めから怪しかった。手紙でも済むような古い情報を身一つで伝えに来るなぞ、裏があるとしか思えない。おまけに着替えまで買い込みやがった」
「こ、これは単なる私の趣味で……」
「下着まで買わないだろう」
玲華は慌てて、床に置かれた袋の一つを押さえる。
「な、何を見ているのですか!」
「お前が渡して来たんだ。見せたくもない物を人に渡すな」
怜乃は不機嫌に外方を向く。玲華は怜乃を睨んだ。
「助兵衛」
「その舌、引き千切るぞ。……お前の家出は叔父貴に確認を取ってある。母さんと喧嘩したらしいが、何を話したんだ」
玲華は舌を隠さんとて口を覆っていた手を、膝の上に置く。その握り締められた拳へ視線を落としながら、話し出す。
「私は陰妖術士になりたいのです。でも、母様が反対します。戦いは私のする事ではないとか、父様たちに迷惑を掛けるなとか、我儘を言うなとか、女の場所ではないとか……。どれも承服しかねる理由です。それで口論になりました。前々からそういう事はありましたが、今回に限って我慢が出来なくなって、それで家を出たのです」
怜乃は喫煙具に差す煙草を新しい物に取り換えながら言う。
「それで、どうしたらお前は帰るんだ」
「帰りません。帰ったって何も……」
「学校は」
「陰妖術士になれば必要ありません。……そうです! 兄様、兄様が私を陰妖術士にして下さい」
「いま思い付いたみたいに言うな。どうせ初めからあった魂胆だろう」
図星を突かれたか、玲華は何も言わなくなった。
「さっさと帰れ。ここにお前の居場所は無い」
「嫌です」
きっぱりと、玲華は言った。
「さっさと帰れと仰いますが、兄様、先ほど叔父様に連絡したとも仰いましたね」
「それが何だ」
「それが事実なら、叔父様の事ですから、私を宜しく頼むとか、何かそういう意味合いの事も仰ったのではありませんか。この冷泉玲華を、預けるような旨を」
図星を突かれて、怜乃は何も言えなくなる。
「ほら、やっぱり! 兄様は薄情です。頼まれておきながら私を追い出そうとするなんて、それでも人の兄ですか、ほっぽり出される私に憐みの一つも感じないのですか、家出してきた私に掛ける情けの一つも無いのですか。そもそも、行く先も告げずに家を出たのは、兄様が先ではありませんか、それでどうして人の事が言えますか、恥を知りなさい!」
何か助けを求めてでもいるかのように捲し立てた玲華は、息を切らして細かく喘いだ。その目は怒気に潤んでいる。
「私は絶対に帰りませんからね」
玲華は床に置いた洋服を纏め上げて、部屋の片隅に移すと、そのまま怜乃に背を向けて置き物のように坐り込む。時折に目元を手で擦っていた。
「駄々をこねても無駄だぞ」と怜乃。「陰妖術は教えないからな」
「なら勝手に陰妖退治をします」
「どうやって」
玲華は服のポケットからくしゃくしゃに丸めた紙切れを取り出すと、怜乃の方を見向きもしないで、怜乃の方へ放り投げた。紙屑が怜乃の頭に当たって跳ねて、ソファの背もたれの後ろへ落ちる。それを拾い上げようとして、怜乃がソファの後ろへ顔を向ける。
――白い狼が怜乃の顔へ飛び掛かった。――
怜乃は狼の縦に開いた口を、横にした掌で受け止める。狼の上顎を掴んで、ガラステーブルに叩き付けた。ガラステーブルに罅が入る。白狼は怜乃から離れて、玲華の背を守るように身構えた。低い唸り声を上げている。
「静まりなさい、皎牙」
玲華が声を掛けると、白狼は落ち着き払って、尻を床に付けた。
「どういう事だ」
怜乃が訊いた。
「私の式神です。見様見真似ですが術符を作っておいたのです。これがあれば、陰妖とだって戦えます」
「術式をお前に見せるとは、実家にも、とんだ阿呆が居たものだな。訓練も受けていないお前に戦える訳は無いだろう。行って出遭って死んで終わりだ。だから絶対に止めろ」
「嫌です。仮令この命を失おうとも、私は逃げたり致しません」
「実家から逃げてきた奴に言える台詞ではないぞ」
呀ッ、と一吠えした白狼が、また身構えて唸る。今にも怜乃へ飛び掛からんばかり。怜乃は埒が明かないとでも考えたのか、白狼へ向けて歩き出した。白狼は益々以って獰猛な身振りで吠え立てるが、怜乃には怯む気配も無い。
「弱い犬ほど良く吠えるし、能ある鷹ほど爪を隠すんだ」
玲華にそう言いながら、怜乃が狼の頭を押さえると、白狼は尻尾を萎れさせ、空気の抜けるような鳴き声を発し、空気の散るようにさっと消えた。そして、怜乃は玲華に問い掛ける。
「何故そうまでして陰妖術士になろうとする」
「それが冷泉の生業だからです。冷泉の誇りだからです」
「冷泉が正式に女の陰妖術士を輩出した記録は無い」
「ならば私が初めてになるだけです。そもそも陰妖術士にとって性別なぞ何の意味も持たない筈。世の習いに従って生まれた慣習が今も引き摺られているに過ぎません。故に、私が陰妖術士になるのを諦める理由には成り得ません」
「ならどうすれば諦めて実家に帰る」
その質問の返答は、答えを考える時間を挟んでからにあった。
「兄様が、家に帰って、跡目を継ぐと言うのであれば、私も家に帰りましょう」
「ふざけるな、何で僕が……」
「この件については父様も母様も賛成します。我儘を言っているのは兄様です。兄様は自分の我儘は押し通すのに、私の我儘は押し込めるのでしょうか」
「大人と子供を一緒にするな」
玲華は聞く耳持たない。怜乃には言う言葉も無く、後は根比べだった。
「教えよう」
その言葉に、玲華はちらりと、目を怜乃へ向ける。
「但し陰妖術士にする訳ではない。お前が力を濫用したり、誤った使い方をしたり、後は無茶な戦いに挑んだりしないよう、基本を教えるだけだ。それと言っておくが、僕がお前に稽古を付けるのは叔父貴への義理立てからだ。僕自身の意志ではないからな」
玲華は膝を怜乃に向けて、手を床に、深々頭を下げた。
「有り難く存じ上げます、兄様」
怜乃は煙草を吸う。溜め息交じりに煙を吹いた。