弓削告春
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「兄様」
玲華が怜乃を揺する。気絶して倒れでもしたかのように床で転がっていた怜乃が、朝日に目を細める。
「朝ですよ、起きて下さい」
そう玲華が言った。
「体中が痛む」
愚痴を零して、億劫そうに起き上がる怜乃。首やら肩やらを回す。その様子に玲華は言う。
「私が床でも良かったんですよ? 平気ですか」
「問題ない、治した」
「治し……? あっ、もう、また陰妖術を使いましたね。濫りに使って良いものではないでしょうに」
「限度は守っている」
「どうだか……。さあ、顔でも洗って来て下さい。その間に朝食を用意しますから。昨夜に急場凌ぎで揃えた品では不満も残るかも知れませんが、そこは自業自得ですからね」
「別に何でも気にしない」
怜乃は浴室に向かった。
シャワーを浴び終えた怜乃が居間に戻ると、ガラステーブルに朝食が並んでいた。焼いたベーコンに被さる目玉焼き、メカブと、缶詰を開けて器に盛ったミカンが、それぞれ二人分あった。食材も、皿も、更に調理器具までも、昨晩に購った代物だった。
「始めから材料なり道具なり揃っていれば、もっとしっかりした朝食を作れたんですからね」
ソファで隣に坐った怜乃に、玲華は遺憾の意を示す。とは言え怜乃が大人しく食卓に着いたからか、声はやや弾んだ。
「いただきます」
「ごちそうさま」
二人分の食器と箸を洗いながら、玲華は、ソファに腰掛けて本を読んでいる怜乃へ、声を掛ける。
「兄様、今日はお外へ連れて行ってくれるという約束、お忘れではありませんよね」
訊かれた怜乃は、目を本に向けたまま答える。
「約束をした覚えは無い。だが買い物くらい付き合ってやる」
「本当ですか? 約束ですからね」
「ああ」
怜乃は本の項を捲った。
正午を過ぎてすぐ、怜乃と玲華は街へ出掛けた。怜乃には街での用事など無かったので、行く先は玲華に任せた。すると二時間程で、怜乃の両手には少なくない量の買い物袋が提げられる事と相成り、玲華は空手で元気に道行きを指差しながら、
「兄様、次はあそこにしましょう」
とぞ宣う。
「人の金をまだ使い足りないのか」
「仕方が無いでしょう。このような機会は滅多に無いのに、お小遣いは雀の涙なのですから。ちゃんと将来かえしますから、もう少しお願いします、兄様」
玲華は手を合わせて頭を下げる。怜乃は玲華から手に提げた買い物袋へ目を移す。中身は、全て衣料品だ。
「次で最後だ」
「はいっ。ありがとうございます」
斯くして、買い物袋がもう一つ増えた。
帰宅がてらに街をふらつく。街はまだ日を天に掲げ、玲華の昂りを抑え切れるものではなかった。故に、玲華にとって物珍しい、音と光の刺激が、彼女を引き寄せてしまうのは、半ば必然だった。道脇の施設へ視線を釘付けにしながら歩く玲華を見かねて、後ろから怜乃が声を掛ける。
「前を見て歩け」
「兄様、あの建物は何でしょう」
五階建てのビルには『GAME』と描かれた大きな看板が掲げられている。建物正面の出入り口は両引き戸のガラス製で、建物の内部が見易い。通行人や客が戸に近付く度、自動で開いて、賑やかな音を往来に零していた。その向こうにはクレーンゲームの筐体を窺う事が出来る。何の建物であるかはほぼ一目瞭然なので、玲華の問いは迂遠な言い回し、形式的なものだった。
「ゲームセンター。……行きたいのか」
怜乃は玲華の問いに答える。
「いえ、そんな事は……」
立ち止まる玲華は、怜乃の手にある大量の買い物袋に目を向けた。
「これの事なら気にするな。そこにコインロッカーがある」
怜乃はゲームセンターの隣を通る小道を示す。ゲームセンターの外壁に沿って、一台のコインロッカーが設置されていた。
「わあ。こんな所にまでコインロッカーがあるなんて、都会は流石ですね」
玲華は驚嘆する。行き過ぎる人々も、
「こんな所にコインロッカーなんてあったか?」
「さあ?」
と言って驚いていた。
玲華をゲームセンターへ遣って、怜乃は荷物をコインロッカーに叩き込む。それから道を引き返して、道端の電話ボックスに入った。電話を掛ける。
「もしもし、こちらは怜乃だ。そちらは叔父貴か」
「応、お前から連絡してくるなんて珍しいな。どうした」
「僕の居場所は貴方にしか伝えていないんだ」
「ああ、それで?」
「玲華に僕の居場所を教えたな」
「あー……、成程。という事は、玲華は今そっちに居るんだな」
「その口振りから察するに、どうも予想が当たったらしい。親父たちは何をしたんだ」
「事の発端は華乃さんとの口論だ。それ自体はいつもの事だったんだがな……。方々手を尽くして探し回って見付からず、華乃さんが参っているよ。兄貴は、まあ、良く分からんが、占術や式を使って探してはいるようだ。それで見付からないのは、多分お前の所為だろう」
「僕の?」
「張ってんだろう、結界。式避け術避け」
「ああ、まあ……」
「兄貴の平静は、その辺りの事情を察してなのかもな。結構な大事だのに」
「他人事みたいに言わないでくれ。大事になったのは、貴方が僕の居場所を漏らしたからじゃないのか」
「ハハハ、まあそう言うな。それを言うなら、親に居場所も連絡先も教えておかないお前も同罪だぞ」
「僕は出奔した身だ。親子の縁も切っている。教える義理も何もあるものか」
「そう簡単に切れる糸ではないぞ。どうせ今だって、玲華の面倒を見ているんだろう」
怜乃は言葉に詰まった。萱寺が言葉を継ぐ。
「取り敢えず兄貴たちには適当に伝えておくから、そっちは暫く宜しく頼む」
「暫くって? あっ、おい! ……くそッ」
怜乃は受話器を置いた。
ゲームセンターに入る。ゲームセンターは階層毎にジャンルの異なるゲームが設けてあり、一つの階層自体はさほど広くないので、虱潰しに回れば、玲華を見付けるのは容易かろう事だった。そして実際、一階のクレーンゲームに興じる玲華を見付ける。怜乃は玲華に近寄らず、喫煙所を目指して階を上った。
ビデオゲーム機の立ち並ぶ空間は、外部からの光も天井の照明も断たれて、けれどもゲーム画面や筐体の赤や青の電飾が、けばけばしい灯の様相を呈し、むしろ眩しい。そこにゲームから流れてくる音楽、効果音などが合わさって、猥雑な印象を強める。そんな光景を怜乃は、アクリルの壁で仕切られた四畳の空間から眺めていた。空間には少しだけ橙色掛かった光が、外側との隔絶を表現するように降り注いでいる。中央に円筒型の灰皿があるけれども、加熱式の煙草という事もあって、怜乃は使っていなかった。
ふと、怜乃の目が見覚えのある顔を捉える。怜乃は喫煙所を出た。
彼はシューティングゲームに熱中していた。銃型のコントローラーを握り締め、眼前の画面から目を離さない。画面から出る、矢継ぎ早に色の切り替わる光が、彼の面に当たっていた。その横顔を見た怜乃は、彼の背後へ回る。彼の見る画面には、土煙の舞う戦場が描かれていた。その場景を目掛けて彼が銃型コントローラーの引き金を引くと、画面の中で発砲の演出が為されて、人の図象が次々と倒れていく。耳には喧しく銃声の効果音が届いていた。怜乃が「おい」と言っても、彼には聞こえていない。
怜乃は自分の着ている外套の前身頃を退けるようにして、自身の腰に手を伸ばす。そこから引き抜いたのは、装弾数十七発の自動拳銃だ。それを目の前の画面に向けて撃った。一際に大きな銃声が鳴り、穴の空いた画面が暗くなる。画面は戦景の代替に、鳩が豆鉄砲を喰ったような若者の顔と、その背後で銃を構えた怜乃の姿を、反射して映した。
「聞こえるか」
怜乃が言った。若者は人の存在に気付いた野良猫のようにびくりと振り返り、銃型コントローラーを置き口に差し、通路側へ後退りする。
「な、何の用です」
「僕の事を憶えているか」
「ええと、はい。先日の校庭で竜の陰妖を倒していましたね」
「いや、正確に言えば、竜を倒したのは校庭ではないんだが……、まあ、そこはどうでもいい。八三として警告しておく。この街を出ろ。陰妖退治なら他所でやれ」
唐突な事に、若者は口が利けないでいるようだった。だが、怜乃が返事を待ったので、若者は僅少ながら落ち着きを取り戻す。
「本当に八三なんてやってるんですね。この間は返答を貰えなかったけど、貴方、泉流の惣領息子でしょう?」
「違うな」
「誤魔化さないで下さい。巨大な銀狼の式神式、聖銀を手にして尚も術を行使する尋常でない妖力。間違えようがないでしょう」
「何一つ嘘は言っていない」
「あ、あー! そうだ、思い出した。こういう噂を聞いた事ありますよ、稀代の天才、曠世の麒麟児、不世出の陰妖術士、開祖の再来とまで謳われた、さる宗家の術士が出奔したって。あれは貴方の事だったんだ」
「いい加減にしろ。僕は警告と言った。下らない世間話で時間を費やしに来た訳じゃない。次にこの街でお前を見た時、陰妖術を使っていたら、八三の規定に則って処理するからな」
怜乃の言に、若者は笑みを引き攣らせた。
「勘弁して下さい。代わりに情報を提供しますから」
「言ってみろ」
「悪食と呼ばれる陰妖憑きをご存知ですか。或いは、ええと、確か……」
「穀堂託氏」
「そう、そいつですよ。そいつを最近この街で見掛けたっていう知り合いが居るんです。俺がこの街に来たのもそれが理由で……」
「尚更この街を離れるべきだな」
怜乃は一歩、若者に近付く。若者は気圧されたように後退る。
「無策じゃありませんよ。敵の視認できない範囲から、一方的に矢を射掛けるんです……」
若者は早口で語るが、怜乃は全く興味なさげに、取り出だす硬貨を、先ほど若者が遊んでいたシューティングゲームの硬貨投入口へ入れる。すると、ゲーム画面が点灯して、ゲームの開始場面が表示された。画面にあった筈の弾痕は消えている。
「邪魔をした」
怜乃はそう言って、足早に場を去ろうとする。その背に向かって、若者は言った。
「俺は弓削告春と言います。どうぞ宜しく」
階段を降りきった所で、怜乃に声が掛かる。
「兄様」
玲華はすまなそうに、怜乃を上目に見た。
「ごめんなさい、つい……」
その腕いっぱいに、大量のぬいぐるみが抱えられていた。