冷泉玲華
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目を開けると朝だった。窓ガラスを透過した朝日が入っていても、まだ少し季節は肌寒い。だから、温い布団に包まって居続ける誘惑は強かった。それより強いものと言えば、起床を指図する母親の声だ。
「玲華、朝ですよ、起きなさい」
玲華の母親は玲華の枕元に膝を付け、玲華の稚い体を揺する。玲華は寸時の抵抗を表すが、効験の有り得べくもなかった。
母親に起こされた玲華は、子供部屋の隣に在る洗面所へ連れられ、歯を磨かされ、顔を洗わされ、部屋に戻って、寝巻きから着物に着替えさせられる。それが冷泉家邸内での普段着だった。装い改めた玲華は母と朝餉に向かう。十六畳程の居間に、四足膳が二つ用意されていた。玲華と母親、隣り合って食事を始める。半ば平らげた辺りで、玲華は母に尋ねた。
「母さま、兄さまは?」
「兄様は朝からお稽古です。貴女もご飯の後はお勉強ですよ」
「はい」
玲華は玉子焼きを、不器用に口へ運んだ。
勉強が終わってから昼餉までの自由時間、玲華は歩き回っていた。本当は外に出たかった。だがそれは許されていなかった。邸内を探索して好奇心を刺激するものが在れば良し、無ければ、それはもう地獄染みた退屈に胸を焼き焦がす他なかった。
玲華は退屈から逃げ惑って、邸内の道場へ赴く。道場の戸の前には男が立っていた。男は冷泉萱寺という名で、玲華の叔父に当たる。萱寺は道場の戸を塞ぐように寄り掛かって、腕を組み、瞼を閉じている。その眉間には皺が寄って、瞑想しているようにも、居眠りの顔が険しいだけのようにも見える。どちらにせよ、玲華には関係も無く、道場の戸を開けようとする。だが、萱寺の体が戸を押さえ付けて、童子の筋力では如何ともし難い。躍起になる玲華の頭上から声が降る。
「どうしたんだ」
萱寺だ。
「入りたいです」
「それは駄目だ」
玲華の要請を即否して、萱寺は玲華を抱え上げた。
「今この道場に入れるのは、陰妖術士と見習いだけなんだ。分かるか?」
「なら玲華もなります」
むずかりながらそう言う玲華に、萱寺は呵々と笑った。
「どうしてそんなに道場が良いんだ?」
「兄さま」
「兄様か、そうか、ハハハ」
萱寺は玲華を地面に下ろす。
「もう直に稽古も一段落する。少し待っていなさい」
萱寺はそう教えたが、望み通り兄に会えないとなって、頗る機嫌を悪くした玲華は、当て付けのようにその場から走り去った。
玲華は暫し邸内を彷徨う。而してこの日、玲華の胸をときめかせるものは無かった。魔が差して、表門に足が向いたのもむべなるかな。危うく家を抜け出すところで足が止まったのは、門前を幼稚園バスが通ったからだった。玲華はバスを見た。その中の、自分と同年代の幼子を見た。自分とは違う自分と同じ子供。なぜ彼らとの交流が玲華から絶たれねばならなかったか、玲華は満足に理解できていなかった。陰妖術士の家系に生まれたが故、事故的にでも陰妖の存在を世に知らしめる事の無きよう、最低限度の自制心が認められるまでは世俗との交わりを絶つ。説明は聞いていた。理屈は分からなかった。だから玲華は、幼子の納得を得る為に大人が編み出した方便に縋る事でしか、安穏を得られなかった。
――冷泉の家に生まれた貴女は特別な存在だから。
玲華は優越感を抱いて、優越感に浸って、疎外感から目を背け、不安感を誤魔化した。しかしながら、そんな弄策も、現実の片鱗が垣間見えただけで、殆ど瓦解してしまった。曝された孤独感に堪りかねた玲華は、逃げるように邸内へ引き戻った。
午前の稽古を終えて、道場から出てくる道着姿の少年たちは、冷泉一門の子弟だ。その白黒の行列に出くわした玲華は、行列の中から或る一人を見付けると、駆け寄って、抱き付いた。
「兄さま」
少年は勢い良く抱き付いた玲華に、体勢が崩れそうになるのを堪えた。周囲の少年たちはその光景を尻目にしながら行き過ぎていく。それが些か恥ずかしかったか、抱き付かれた少年は玲華を引き剥がそうとする。
「おい、何なんだ、離れろ、いったん離れろ」
しかし玲華は離れず、しかも少年に埋めた顔は、段々と涙で濡れてくる。事ここに至って少年は、呆れたように溜め息を吐いて、膝を折り、目線を玲華に近付けた。既に周囲は二人きり。少年は玲華を抱き締めながら、慈しみ染み染みと玲華の頭を撫でた。
「どうしたんだ」
「玲華も一緒にお稽古します」
「駄目だ、危険だ」
玲華は黙る。少年は撫で続けている。暫しして再度、玲華は口を開いた。
「お外が良いです」
「外? 外に行きたいのか」
「はい、連れてって下さい」
「ああ、いつかな。約束しよう」
少年は単調に頭を撫で続けながら言った。玲華は頭の感触を心地好く思いながら、もっと強く少年にしがみ付いた。