冷泉怜乃(2/2)
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空気に棘や針が混じる如きの緊張感に、細川と太山は直立不動の姿勢を崩せない。相対するは、二人の報告書を通覧する夏長極前。相変わらずの厳めしい表情で、読んでいた書類を机の上に置いた。
「事情は分かった」
極前のその一言に、太山は相好を崩す。それとは無関係に極前の言葉は続く。
「それで、お前たちはどう思う、冷泉怜乃という男を」
「え? ええと……」
想定していない質問に、太山は口ごもった。
「知れたものでは有りませんね」と細川。
「いや、おい……」
「だってそうだろうが。俺たちはあいつが何をしたのか確認してねえ。そんな状態で、まともに判断できる事があるかよ」
「まあ、そうだけどよ……」
「しかし、まあ、その点を含めて地区長の質問に答えれば、早急に監視を付けるべきでしょう。私はそう思います」
「監視か」と極前。
「あ、そういう事でしたら」太山が細川の意見に付け足す。「並の人間じゃあいつの監視は無理でしょうから、何かしら特殊な者を選ぶ必要が有ります。少なくとも、俺には無理だ」
「そうか」
極前は椅子を回して、二人から視線を外す。二人には、大きな背もたれと、極前の後頭部が見える。
「冷泉の相方の件と合わせて考慮しておく。お前たちは行っていいぞ」
細川と太山は頭を下げて、退室した。室内には、独り残った極前の嘆息が聴こえた。
そうした遣り取りとほぼ同時刻、義枉市内に在るゲームセンターの、シューティングゲームの筐体の前に、二人の若者が居た。二人は銃型のコントーラーを取って、眼前の画面に表示される図象を目掛けて、引き金を絞っていた。画面内では、不穏な雰囲気の街中に、所謂ゾンビが溢れかえっており、人を襲ったり、撃たれて倒れたりしていた。
「あの……」遠慮がちに、告春が声を掛ける。
「何だ」と怜乃。
「下手すぎません?」
「うるさい」
怜乃は素早く、連続で引き金を引く。「これくらい……」照準は滅茶苦茶で、命中するのは五発に一発という程度。「慣れれば……」瞬く間に画面内の敵が掃討される。怜乃が横目に見るが、告春は事も無げだった。
その後、建物内部に在る、休憩の出来る小区画に二人は移った。自動販売機の横にベンチが置いてある。告春はそこに坐ったが、怜乃は坐らなかった。
「……それで、勝負で勝った時の報酬ですけど」と告春。「どうすれば貴方のように強く成れるのか、教えて下さい」
「お前は僕に勝ったじゃないか」
壁に凭れたまま怜乃が言う。
「茶化さないで下さい」と告春。「俺がもっとちゃんと強ければ、玲華さんを危険に曝す事も無かった。だから……」
「先程、気にするなと言った」
「そう言われても、易々納得できませんよ。それに、強い事は、悪い事ではないでしょう?」
その問いに、怜乃は易々と答えなかった。告春にとっては不自然に感じられる程の間を取ってから、重々しく口を開く。
「確かにそうだ。強い事は悪い事ではない。だが、強さを求める事が善い事とは限らない」
「そうでしょうか? 強さが悪じゃないなら、強さを求める事も悪じゃないんじゃないですか」
怜乃はまた、容易に口を開かなかった。
「結局は、心根次第なのかもな」
怜乃は凭れていた壁から離れる。
「自分が何者で、何をする人間なのか、それを心しておけ、恐怖で我を失ったりしないよう、勇気を持ちながらな。そうすれば、自ずと望む道も開けるだろう」
「それが、強く成る方法なんですか?」
「多分な」
怜乃は歩き出す。
「行くんですか」と告春。
「うん」と怜乃。「お前は街を出ろ。もう用も無いだろう」
「はい」告春は俯く。「……その、玲華に宜しく言っておいて下さい」
顔を上げた時、ちょうど怜乃は立ち止まった。
「お前に言っておきたい事が有る」
「何でしょう?」
「妹に何か術式を渡したな」
「はい。所有者に向けられた殺意を感知して盾を展開する術式です。かなり強力な物だったんですけど、悪食には通用しなかったようです」
「それはそうだ」
「と言うと?」
怜乃はむつかしい顔をした。
「あまり言いたくはない。だがともかく、あれは役に立った」
「そうですか?」
「ああ。妹が生きているのは、間違いなくお前のお陰だ。弓削告春、改めて礼を言わせてくれ」
怜乃は告春に対して頭を下げた。
「感謝している」
「そんな」告春は慌ててベンチから立ち上がる。「俺なんか、何も……。いや、その、えっと、ええ、そうですね、はい。どう致しまして。さ、頭を上げて下さい」
怜乃は頭を上げた。
「それではな」
「はい。また御縁が有れば」
怜乃はその場を立ち去った。
自室に戻り、怜乃は玄関で靴を脱ぐ。
「戻ったぞ」
という声が、静かな室内にしくと染み透った。
怜乃は居間に入って、外套を外套掛けに、腕に絡み付けてあった鎖と共に掛ける。それからソファで横になっている玲華を素通りして、ソファ側方の壁へ押し付けるようにして置いてある本棚の前に行く。棚に収納されている文庫本の背を中指で、左から真一文字に撫ぜていく。
「兄様」
と背後から声が掛かって、指は止まった。
「何処へ行っていたのです」
「挨拶回りだ。弓削がお前に宜しくと言っていた」
「そうですか」
玲華は胸元で、白鞘の脇差を握り締める。
「それはお前に遣るそうだ」
「え?」
玲華は怜乃を見る。怜乃は相変わらず背を向けている。
「兄様は、それで良いと仰るのでしょうか」
ややの沈黙を置いて、怜乃は答える。
「そうだな」
その言葉を聞き、玲華は嬉しそうに脇差を抱き込んで、顔を綻ばせた。
「有り難く存じます」
「それとこれは、そのついでのような物だ」
怜乃は完全には振り向かないまま、一枚の切符を、玲華に手渡す。それを受け取って、玲華が「これは?」と呟く。
「見ての通り、新幹線の切符だ。少し休んだら、家に帰れ」
途端、玲華の顔には不満が滲む。だが、それをぐっと堪えるような声で、玲華は尋ねた。
「理由をお尋ねしても……?」
「外傷は無いようだが、どんな呪いを掛けられているとも限らない。一度は詳しく診ておくべきだ。そして、その手の事について僕は得意ではない。必要な診断を受けるには、家に戻る必要が有る」
残念そうに、玲華は表情を曇らせる。
「分かりました。でも、戻ってきますからね」
「戻ってくるな」
一瞬、言葉を詰まらせた玲華だが、繰り返して言う。
「戻ります」
「戻るな」
玲華は泣きそうな顔をする。
「私が、役に立たなかったからですか。結局、助けられてしまったから……」
「何の話だ」
「戦士としての器は認めても、兄様の側には相応しくないと、そう仰るのですか」
「だから何の話だ」
「どうして兄様のお側に居てはならないのですか」
「お前、若しかして……」
怜乃は振り返った。玲華は渡すまいとするかのように、脇差を抱き締めている。
「下らない理由で陰妖術士になるなどと言い出したのではないだろうな」
「下らなくなどありません」それは、言い訳をする子供のような語気だった。「下らなくは……」
怜乃は殆ど睨むような目付きで玲華のそんな様子を見ていたが、そのうち怜乃の方が耐え切れなくなったように、視線を逸らして、また本棚の方に向いた。
重たい静けさが、室内に沈殿する。息苦しくすらあった。
「僕は」怜乃が口を開く。「お前の期待に応えられるような、人間ではない。だから諦めろ」
「例えば、それでも追い掛けると言ったら?」
「お前は僕に殺される」
「兄様に殺められるなら悪い気はしません」
「僕の飯が不味くなる」
「私、料理は得意です」
「違う、そういう事ではない」
怜乃は溜め息を吐いた。また沈黙は始まる。湖水のように、静かで深い沈黙。怜乃は、水に沈んだ者が必死に岸辺へ泳ぐような気持ちになりながら、再度、玲華に話し掛けた。
「最初に家へ帰れと言った時は、辟易するくらいに抵抗したのに、今は大して咬み付いてこないんだな」
「だって、兄様、本気で帰れって言っているから……」
「前も本気だった」
「私には分かります。前はちょっと面倒臭いくらいにしか思っていませんでした。でも今は、真剣に言っています。だから……」
「何で分かる」
「兄様は顔に出易いので……」
「今はお前には顔が見えていないだろう」
「はい。見られないように隠しているんですよね?」
そんなつもりはない、と言おうとして、怜乃は止めた。顔を背ける理由は別にあったが、玲華の言うようにしておけば、そちらは悟られないと思ったからだ。怜乃は、玲華をどういう風に見て、どう接すれば良いのか、全く分からなくなっていた。ただ、罪悪感と羞恥心が、玲華を遠ざけようとする。
「若しも」と怜乃。「若しも、僕が……、若しも僕が少しは立派な、人間に、成れたら、お前のところへ帰りもするよ」
「兄様は既に十分、御立派ですよ」
嬉しそうな声で、すかさず言う玲華。それに対し、怜乃は自嘲して歪な笑みを浮かべた。
「或る意味ではそうだな。十分、立派な……」
溜め息を吐くと、怜乃はソファへ坐り込んだ。玲華は積極的に退かなかったので、怜乃の居場所は狭い。それに文句の一つは付けておこうとした怜乃だったが、言う前に止めた。
玲華が怜乃に抱き付く。
「私は知っていますとも。兄様は立派な」玲華が言う。「人間です」
「何を、馬鹿な……」
玲華が掛けてくる体重に倒れそうになりながら、怜乃は、玲華が去った後の事を考えていた。取り敢えず、まともな食事から始めるつもりだった。
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満月の夜。住宅街の道路を独り歩く青年が在った。黒い背広に、黒い皮革の外套、黒く細長い袋を背負い、右手には黒く細長い鎖が巻き付いている。彼は歩きながら、星の見えない黒い空を見上げた。
やがて、彼の行く手には、街灯に照らされた、血溜まりに伏す老人の姿が見えてくる。その傍らで、彼は歩みを止めた。
「おい、お前」彼が言う。「こんな所で寝たら風邪を引くぞ」
老人は、呻き声を上げて、上半身を起こした。少しの間は呆けて怜乃を見上げていたが、急に何かに気付いたように、自分の身体を触り、辺りを見回す。
「あ、は、刃物が、血が……」老人は怯えた様子で、何かを言おうとする。
「夢だろう。こんな所で寝るから悪夢を見たんだ」
「へ? いや、ぁ……」
老人はとにかく周辺を見回したが、血の一滴も見当たらないし――血溜まりは消えていた――、老人の身体に傷も無い。それに納得しないながらも、老人は言う。
「どうも、御迷惑をお掛けして――、あれ?」
彼は居なくなっていた。
その上空に、舞い飛ぶ数頭のトカゲが居た。トカゲとは言うが、大きさは馬ほど有って、腕から胴を繋ぐ翼膜が有る。俗に飛竜と呼ばれる、伝説の生き物だった。その怪物の背に乗るのは、彼だ。左手には、灰色に輝く濶剣を提げている。飛竜は彼を振り下ろそうと錐揉みに回転しさえするが、磁石でぴったりくっ付いているかのように離れない。業を煮やしたらしい仲間の飛竜たちが、屍に群がる肉食鳥のように彼へ群がり襲う。
その最中、上空から巨影が迫ったかと思うと、何もかも焼き尽くすような火焔が噴き出て、飛竜たちを消し炭にした。火焔の主たる竜は、その後、悠々と天を周回する。しかし、背中の違和感に気付いた。
彼は喫煙具に煙草を差し込み、一服する。そしてそれを懐にしまうと、手に有る剣を一層、強く握り締め、竜の背を歩く。竜は先程の飛竜同様に暴れ狂い、あまつさえ己の噴いた炎の奔流に飛び込みさえしたが、彼の歩みは止められない。そして、時刻を遵守して行われる死刑執行のように、彼の剣が竜の首を刎ねた。
彼は竜の首と共に墜ちていく。その下は校庭。校庭には、手に鉈を備えた怪人が犇めき合っている。彼は、それが、自分の行き着く所と悟ってでもいるかのように、自若としていた。そして修羅の巷が彼を迎える。
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その存在は陰妖と呼び習わされていた。恐るべきはその現実改変能力。現実改変能力、それは読んで字の如く、現実を作り変えてしまう力。陰妖の能力は、現実という認識を現実に置き換える。誰かがこれは本当だ、と思ったら、それを本当にしてしまえる。その能力の範囲には、陰妖の個体によって差があるものの、脅威とならない陰妖は、かつて一度も確認された例はない。
それ故に、陰妖の存在は否定せねばならない。それ故に、陰妖の存在は秘匿せねばならない。けれども、出現してしまった陰妖の対処もせねばならない。それ故に、警視庁公安部公安第八課がある。
第八課、というものが実在するのか、はっきりと知る者はいない。そこに所属する者ですら、仕事上の相棒と、同じ所属を名乗る幾許人しか知らず、それ以外のことは詳しく知らない。組織の沿革など知る由もない。だが彼らは確かに指令を受けて、陰妖に対処する。
八三、と彼らは言う。警視庁公安部公安第八課という文字列に、八が三つあるからだ。所属の自称は、それを知る者によっていつしか他称へと変わり、彼らを示す代名詞となる。八三、奴らは八三。
この物語は、とどのつまりはそれだけの物語。八三の一員である冷泉怜乃が、陰妖を倒すだけの物語。或いは、その始まりの物語。いずれにもせよ、それより他の救いはないし、望むべくものもない。




