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スズメバチ  作者: 宇原芭
2/21

 朝、義枉市の一隅、雑居ビルが林立する地域、怜乃は、それらビルのうち、何の看板も掲げられていない一棟へ入っていく。玄関を抜けると先に小型のエレベーターがあり、それに乗り込む。エレベーターは静かに、怜乃を地下へと運んでいく。停止したエレベーターは、慇懃なドアマンの仕草のように滑らかく扉を開ける。暗い一本道の廊下が怜乃の前に姿を見せる。怜乃は廊下を歩み進み、奥の扉を開けた。

 黒い革張りのソファとガラスのテーブル、その奥に大きめの事務机があるだけの部屋だ。隅角に観葉植物が置かれてもいるが、葉の先が枯れて茶色になっている。この簡素を過ぎて閑散とさえ来訪者に感じさせる部屋には、いま入って来た怜乃の他に、もう一人の男が居た。背広姿で、事務机に向かい、何かの文書を(したた)めているその男は、面構えの(いか)めしい、壮年を過ぎようかという年頃の偉丈夫で、名を夏長(なつなが)極前(ごくぜん)といった。

 極前は筆を置くと、怜乃を見た。

「貴様が八三に来て二ヶ月になる。少しは馴れたか」

極前の語気に惰弱さは無い。実直の気風に怜乃は飄々たる態度を返す。

「世間話に呼んだのでしょうか、地区長殿」

怜乃は懐から煙草を取り出す。慇懃無礼な口振りと合わせて、怜乃の機嫌を示していた。だがさして、極前がそれを気にする素振りも無い。

「世間話も目的の一つだ。部下の状態を把握しておくに()くはない。特に一匹狼のそれについてはな」

「好きで一人な訳でもない」

煙草を咥える怜乃。

「貴様の相方については追々処理を済ませる。陰妖術士という肩書きに対する風当たりの強さは、俺にも如何(いかん)ともし難いからな。だがそもそも、俺たち八三と陰妖術士は目的を同じくする以上、相容(あいい)れぬ存在ではないし、共闘した事例も少なくはない。改めて言うが、貴様の役目は八三の中で陰妖術士の評価を高める事だと心得ろ」

「理解している」

「ではこれは何だ」

極前は抽斗(ひきだし)から書類を取り出し、机の上に放った。怜乃は書類を取り上げて、目を通す。書類は昨夜の事件についての、細川の報告書だった。

「貴様が陰妖術士を手助けして、細川を投げ飛ばしたとある」

「陰妖術士の手助けをしたつもりは無い。投げ飛ばしたのは事実だが、危なっかしくて置いておけなかっただけだ」

怜乃の釈明を睨み付けるようだ、極前の顔は。それでも怜乃は平然として、書類を机の上に戻す。極前は書類を取って、抽斗に戻した。

「細川は過去、陰妖術士と交戦した事がある。その戦闘で当時の相方を失った。直接の理由は自然発生した陰妖だが、そうなった原因は陰妖術にあると、あいつはそう考えている。あいつは顕著な例だが、似たような経験や考えを持っている者は八三に珍しくない。それは心に留めておけ」

「ええ」

「今日はもういいぞ」

怜乃は浅く頭を下げる。退室しようと背を見せた怜乃だったが、極前が声を上げる。

「待て、一つ忘れていた」

顧みる怜乃へ、極前が投げ渡すペットボトル。捕って怪訝な顔する怜乃。

「緑茶?」

茶カテキン2倍。

「太山が置いていった。昨夜の礼だと言ってな」

怜乃は嬉しそうな顔も嫌そうな顔もしないで、そのまま退室した。

 帰宅して、共同住宅の自室。玄関で靴を脱ぐ。靴を揃えようとして、土間の壁に立て掛けてあった、細長い布の袋に腕が当たる。袋は倒れて、中身の剣が音を立てた。音は静かな室内にしくと染み透った。

 怜乃は居間に入って、外套を外套掛けに、腕に絡み付けてあった鎖と共に掛ける。それからガラステーブルに緑茶の入ったペットボトルを置きつつ、ソファ側方の壁へ押し付けるようにして置いてある本棚の前に行く。棚に収納されている文庫本の背を中指で、左から真一文字に撫ぜていく。指はとある一冊の箇所で止まった。その一冊を抜き取って、ソファへ動いて、腰を下ろし、肘掛けを枕に、仰向けになって、寝転がる。そうして、ぱらぱらと本の項を捲った。


――存在するとは知覚されることである

――精神・・すなわち知覚するもののほかにはいかなる実体もない

――精神は一つの単純で分割されない能動的な存在者である。精神が観念を知覚するとき、精神は知性・・と呼ばれ、観念を産み或いはそのほか観念に作用するとき、意志・・と呼ばれる

――感官の観念は想像の観念より強く、生気に富み、判明である。(中略)私たちのうちに感官の観念を喚起する不動の規則ないし確立された次序は、自然法・・・と呼ばれる

【ジョージ・バークリー『人知原理論』】


 間延びした電子音が鳴り渡って、いつしか(つむ)っていた怜乃の目を開かせる。体を起こすと、部屋を(おとな)う斜陽が右半身に差した。その熱を感じていると、再び間延びした電子音が部屋に響く。音は呼び鈴だった。音の催促を受けて、怜乃はのっそりと立ち上がり、てくてく歩いて行って、玄関の扉を開けた。

 扉の前に立っていたのは、一人の少女だ。小柄の小顔に、涼やかな目がり付けられた、十代後半の容色。癖の無い黒く艶めいた髪は、耳やうなじを隠す程度に伸び、整然たる立ち居姿と合わさって、一個の梱包物のように纏まった印象を怜乃に与えた。怜乃は表情こそ変えないものの、広がった瞳孔が多少の驚きを露呈している。

「兄様、お久しう御座います」

彼女の唇から紡がれたそれが挨拶。次いで深く頭を下げた。それに対応しかねて、彼女が頭を上げるまでの数秒、怜乃は黙りこくっていた。頭を上げて少女は、じっと怜乃の面を見詰める。まるで怜乃に言葉を促しているようだ。

「久し振りだな」怜乃が言った。「何か用か」

「何か用か、とは……、妹に再会して言う言葉がそれですか、情けない。冷泉家惣領として、いえそれ以前に私の兄として、相手を労う言葉や親交を温める言葉の一つも出ないのでしょうかね。恥を知りなさいな」

「……遠路はるばる小言を言いに来る元気があって何よりだ。用が済んだなら早く帰れ。最近は何かと物騒だ」

「用が済むも何も、用件を言う以前の問題なのです。だから恥を知れと言うのですよ、分かっていますか」

「分かったよ、僕が悪かった。それで、何の用で来たんだ」

「ここでは言い難い事です。中に入れて下さい」

頼まれて、扉をより大きく開け、身を引いた。一瞬でも考える素振りをせずに少女の入室を促したのは、そうなる思案をしていたからだ。思案の発端が、妹を歓待してやろうという気持ちと、面倒事を済ませようという心持ちの、そのどちらにあったかは言わぬが花。そういう兄の心裡に対する抗議のように、少女は部屋に入り際、肩を頭を怜乃に当て擦る。怜乃は無反応で通した。

 少女をソファに坐らせて、怜乃はガラステーブルに置いてあった緑茶を、少女に渡す。少女の対面に座席が無いので、怜乃は隣に腰を下ろした。

「いただきます」

少女が緑茶を飲む。その手が止まると、怜乃は言った。

「それで、何の用で来たんだ」

問われ、少女は体を怜乃に向けて、居住まいを正す。

「重大な事柄を伝えに来ました。心して聞いて下さい」

「勿体付けるな。言ってくれ」

「言わずもがな、この街に封印されている大陰妖(だいおんよう)についてはご存知ですね」

「ああ。むしろお前が知っている事の方が意外だ」

「その大陰妖の封印に干渉したような影響が、本家他複数の拠点で観測されました。原因や犯人は分かっていません」

「それで?」

「何者かが大陰妖を狙っています。目的は混沌か、はたまたその力か、いずれにせよ重大事です。冷泉家次期当主として、為すべき事が有るでしょう」

 聞き終えて、怜乃は自分の胸元を探ろうとして空振る。空振った手先を見た目が、視線を外套掛けへ移す。そして足も外套掛けへ移して、掛かっている外套から取り出す加熱式喫煙具と煙草。煙草を喫煙具に差し込んで、一服した。

「そんな事……」怜乃が言う。「封印を管理している人間が対応していない筈は無い」

「管理者には入念な調査が命じられましたが、得られたものは皆無です」

「なら何も無かったんだろう」

「そんな筈は有りません。数百年も堅固で在り続けた封印です。何の作為も無しに揺らいだりするものですか」

「数百年も()ったんだ。仮令(たとえ)あした壊れても、驚くには価しない」

「管理者が目を光らせています。そんな事には為り得ません。だからこそ、異常事態なのです。それに聞けば、今この街全体で現が不安定だとか。ここは冷泉の後嗣(こうし)としての――」

「そもそも」怜乃が口を挟んだ。「僕は出奔した身だ。当主にはなれないしならない。冷泉の事に関りも無い。興味も無い。大陰妖の封印がどうなろうが、それ自体は僕の関知する要も無い事だ」

突き放すような怜乃の物言い、それに少女は押し黙った。少女は口元を引き結び、拳を結んで、俯いた。その姿に、怜乃は自らの無愛想に険を増す。

「いつだ」

苛立ち混じりに怜乃が言う。

「封印に異常が観測されたのはいつの事だ」

質問を受けてから、ゆっくりと少女が開口する。

「二ヶ月、前の事です」

「だろうと思った」

 怜乃は煙草を咥え、それから煙を吐き出す。煙が霧散する時間を、静寂が占めた。いつまでも静寂に占領されている訳にもいかないと、そういう態度を中途半端に表しながら、怜乃は言う。

「今日は遅いから泊めてやるが、明日には帰れよ」

「嫌です」

それは怜乃にとって、存外はっきりとした声だった。

「せっかく都会へ出てきたのに、何もせず帰れません。街を案内して下さい」

「ふざけているのかお前」

「真面目ですよ。お願いします兄様」

二人は睨み合った。先に目を逸らしたのは怜乃だった。怜乃は煙草の後始末をして、ガラステーブルに置いたままになっていた文庫本を棚に戻す。それから玄関へ向かった。その背に少女が問い掛ける。

「何処へ行かれます」

生憎(あいにく)、この家には布団を置いていない。悪いがソファで寝てくれ。僕は外で時間を潰す」

「待って下さい。勝手が分かりませんし、それに……」

少女は腹を擦った。

「お腹が空きました」

その乞いは怜乃を寸考させる。

「付いてこい、仕方ない」

「あ、いえ、まるっきりお世話になるのも申し訳ありません。私が何か作りましょう。食材は何が有りますか」

「作らなくていい、行くぞ」

「作ります。心配しないで下さい。いつも家でやっている事ですから」

少女は強くそう言う。怜乃に拒否されて、少し意固地になったらしかった。その場から立ち上がり、部屋をきょろきょろと見回す。

「冷蔵庫は……?」

「無い」

冷蔵庫を有しない部屋に、少女は気付き、怜乃を押し退け台所に立つ。

「調理器具は……?」

「無い」

「食器は……?」

「無い」

「外食ばかりしているのですか」

「しない」

台所には、使われた形跡がまるで無かった、引っ越す直前か、空室の状態が保存されているかのように。そんな台所から怜乃を振り見た少女が咎めるような語調で言った。

「最後に食べ物を口にしたのはいつですか」

怜乃は閉口する。しかし少女はそれを許さず、詰問する。

「答えなさい。嘘を言ったら承知しませんよ。――まったく、こんな事を言わせないで下さい」

「五年以上前だ、最後に物を食ったのは」

「五年以上……!? それは、()しかして、家を出てから、一度も何も食べていないなんて事は無いでしょうね」

「お前には関係が無いだろう。もう行くぞ」

「待ちなさい! 関係あろうが無かろうが、そんな事は関係ありません。食事は人間生活の根幹です。健康に気を遣った材料や料理を選ぶ事で配慮を涵養(かんよう)し、暴飲暴食や好き嫌いを戒める事で節制を養い、親しい者と食卓を囲んでは情操を育む。それが出来ないなぞ、人として言語道断です!」

「言い過ぎだ」

「言い過ぎなものですか。決めました。何としても兄様を家庭の食卓に着かせます」

「それは結構だが、今から材料や器具や食器を揃えるつもりか。腹も減っているんだろう」

「それは……」

少女は呻いて言葉に詰まる。それを怜乃が押し切った。

「早く行くぞ。今日のところは外食で十分だ」

 本意無くも、少女は怜乃に付いて行く。当て所ない怜乃が辿り着いた定食屋で、少女は親子丼を食す。それは玉子がふうわりとして、それなりに美味だった。

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