弓削秋沙
告春は怜乃と別れてから、公園へ赴いた。公園内に設置されたベンチの中央に腰を落とす。視線も地面に落としている。項垂れて、何かを見るようで何も見ていない。
時を経るにつれ、義枉市を訪ねていた夜闇は帰路に就いて、朝まだき。朝日の気配が差し始める。その頃になって漸く、告春は顔を上げた。だが表情は相変わらず沈鬱として、胸の痛みを堪えているかのようだ。そんな告春を見ているのは、公園の隅に立つ自動販売機。白色の照明が暁の公園に目立っている。告春はその自販機から、コーラを購い、ベンチに戻った。
日は昇って、朝になる。疎らだが通行人も道路に現れるし、鳥の声も聴こえてくる。そして告春は公園のベンチに坐っていた。開いた膝の間に、未開封の飲料缶を持っている。そのプルタブを人差し指で引っ掻いて弾いて、カッ、カッ、という音を鳴らしている。そこにどのような意味が有るのかは、告春しか、或いは告春すら知らなかった。
「弓削さん」
呼び掛けられて、告春は見上げた。眼前に玲華が立っている。
「お待たせしました」
「いえ……、いま来たところですよ」
「今日も宜しくお願い致しますね」
「お兄さんは?」
「え?」
「貴方のお兄さんは……、お兄さんには、ちゃんと挨拶してきましたか」
「はい。朝御飯も食べてきましたよ」
「そうですか、結構です」
告春は玲華から視線を下げたが、単に筋肉を平常の位置へ戻しただけで、何処を見るともない。そんな告春の様子に、やや当惑して、僅かに憤り、少し心配した玲華は、告春の隣に坐った。体が少なからず接触して、告春は端へ身を詰める。
「何かありましたか」と玲華は訊いた。
玲華を見る事もなく、告春が語り始める。
「昨夜はヘマをしました。貴方のお兄さんに助けてもらった」
「そうですか、それは、それは……」
玲華は告春の胸裏を察し得ず、具体的な言及を為し得なかった。とは言え、その胸中が穏やかならざる事くらいは想像に難くなく、身内自慢を声高にする事も出来ない。その個人的な感情は、愛想笑いに混じった微笑と、あまり同情的でない声色とに表された。
告春は自分のズボンのポケットから、一枚の紙きれを取り出して、玲華に見せる。その皺くちゃの紙には、簡単な線と建物の名称で表された義枉市の地図が描かれてあり、幾つかの地点に丸印が付してあった。
「これは、俺が追っている陰妖憑きが目撃されたという場所を記した物です。この標的を、貴方のお兄さんも追っている。この意味がお分りでしょう」
「強敵、という事ですよね」
「ええ。でも俺は、あの人より、貴方のお兄さんよりも弱い。その陰妖憑きを倒すには、相当の苦労をするでしょう。或いは失敗するかも知れない。俺は陰妖憑きを追うついでとして貴方に稽古を付けていましたが、昨日の昼と夜とで痛感しました、俺では貴方を守れない。だから、どうか陰妖術の稽古は、貴方のお兄さんとやって下さい」
「そんな!」
玲華は即座に説得の言葉を考えねばならなかった。
「私は守ってもらおうなどとは考えておりません。戦いに身を置く者としての覚悟は出来ています。だからこそ、兄様も私を弓削さんに預けて下さったのです。仮令、私が死んだとて、その責を弓削さんに求めは致しません」
「覚悟と事実は別です。どんなに覚悟を決めたところで、その時が来れば後悔をするものなんですよ。間違ってはいないと頭では分かっていても、心はそう思ってくれない、思いたくない。事実だけが、現実に残るんです。どれほど現実を改変しようとも、改変したという事実が覆せないように、過ちを無かった事には出来ない。だから過ちを犯す前に、ここで止めにしたい。俺にはこれ以上、誰かの命を背負う何て出来ない。稽古を付けるという約束は忘れて下さい」
「分かりました。では稽古は終わりにしましょう」
その返答に、告春は視線を動かした。玲華は白鞘の脇差を握り締め、告春を強く見詰める。
「これからは実戦です。お互いの持てる全てを用いて、陰妖を殲滅しましょう、件の陰妖憑きも含めて」
「何を馬鹿な……」
告春はつい苦笑してしまう。頭を振った。
「自殺志願者ですか、貴方は。それとも、自分の才能に傲っているんですか」
「後が無いのです。どうしても陰妖術士たると証せねばならないのです。このまま弓削さんの指導を受けられなくなったとしても、私は独りで戦います」
「お兄さんのところへ行けば良いでしょう。その方がずっと良い」
「兄様が弓削さんに師事するよう指示したのです。兄様に師事するなら、やはり弓削さんに師事する事になります」
「なんで、あの人が、俺に……?」
「それはもう、弓削さんの能力を信頼しているからでは?」
「いや、多分……」
陰妖憑きの、穀堂託氏の捜索を邪魔されたくないから……、告春にも、玲華にも。告春はそういう内容の事を考えた。
「ともかくも、俺では……。いえ、分かりました、では一つ、昔話をしましょう。話を聞いてから、どうするか判断して下さい」
告春の申し出に、稽古続行の望みが持てて、玲華は喜色ばむ。そんな玲華に対してか、はたまたこれから語る事柄に対してか、告春は胸の暗澹を気色ばむ。
「俺には妹が居ました。あいつも俺と同じく天馬祝流の陰妖術士で、兄の俺よりもずっと優秀でした」
ペキョ、と音がする。告春が飲料缶のプルタブを引いて、開封した音だった。
「天馬祝流自体、それなりに由緒の有る家でしたので――まあ当然、御三家とは比べるべくも有りませんが――、陰妖術士に成る為の教育を十分に受けた俺は、実戦でも他の陰妖術士に引けを取らない程度に活躍しました。俺より優秀な妹は俺よりも遥かに活躍して、両親も大喜びでした」
「あの――」玲華が口を挟む。「妹さんは、普通に陰妖術士に成れたのですか? 親の反対も無く?」
「ええ。御三家の一門と比べて、祝流は上下関係とか緩いですから、実力さえ有れば……、何なら、実力が無くたって陰妖術士に成れます。まあ、そういうところが、御三家に嫌われる要因でしょうけど。話を戻しますが、要するに、俺の家、俺の流派は比較的に安定した、それなりの組織でした。そして或る時、五年くらい前ですが、天馬祝流一門を挙げて、強力な陰妖の討伐を計画したんです。俺と妹も戦闘に参加しました。結果は惨敗、両親が命と引き換えに俺と妹を救ってくれましたが、一門は壊滅しました」
告春はコーラを呷った。微かに手が震えている。小さくおくびを出した。
「その時に俺は、安心しました。生き残って、ただそれだけが、俺にとっての全てでした。でも妹にとっては違った。全てを奪われた妹は、一門復興の為にもと、一門を壊滅させた陰妖への復讐を誓いました。最初、俺は敵う訳が無いと反対しましたが、妹は厳しい修業をして、信じられない程に強く成りました。ひょっとしたらあの陰妖も倒せるのではないかと思わせられた俺は、途中から妹に協力するようになりました。そうして、二年前です。妹と俺は、一門を壊滅させた陰妖に挑みました。結果を言えば勝ったんですけどね、圧勝ではあったんですけど、戦闘の過程で、現が弛み過ぎました。もう、ちょっとした雑念が現実に反映されるくらいの環境になってしまって……。その場には八三も居ました。強力な陰妖がそこに居る訳ですから、八三が動いていても何ら不思議は有りませんね。彼らは陰妖との戦闘後、妹を攻撃しました。陰妖との戦闘中、妹は心に抱いた殺意の影響を受けて、ちょっと変身していたんです。出来るだけ相手を小間切れに出来るように、一片の肉片もこの世に残さないように、本人の意図と言うよりも感情に依って、およそ人間的ではない形に成っていました。八三の彼らが、妹を陰妖と同列のものと見做したのも無理ありません」
「ひょっとして、妹さんは、八三に……」
「いいえ、妹を殺したのは俺です」
玲華は押し黙った。太陽が眩しかった。
「仕方が無かった。妹は変身を解くのではなく、八三を攻撃し出したんです。明らかに殺すつもりでした。手加減なんて無かった。俺はあいつに止めろと言ったけど、聞く耳を持たなかった。陰妖術士の間には、陰妖術を悪用する者は仮借なく滅ぼすべしという掟が有ります。俺はその掟に従って、殺され掛けた八三を助ける為に、後ろから、妹へ弓を引きました。俺は間違った事はしていないんです。でも、でも……」
告春は飲料缶を握り潰した。そして玲華を見遣る。玲華はびくりと、背筋を伸ばした。
「重ねて言いますが、妹は優秀でした。それでも陰妖術に飲み込まれて、命を落とした。陰妖退治で難しいのは、敵を倒す事もそうですが、強く成り過ぎない事、強く成ろうとしない事です。際限なく力を求めれば、人間ではなくなってしまう。そうなったら、陰妖と同じです。しかし、強力な陰妖を倒す為には、強い力を求めなければならない。誰かを守りながら戦うのも同じ事です。さあ、今の話を聞いて、それでも俺に師事しますか、陰妖術士を諦めませんか。場合に依っては、俺が貴方を殺す事も、貴方のお兄さんが貴方を殺す事も、貴方が俺やお兄さんを殺す事も、或いは八三に殺される事も、そして単に陰妖に殺される事も、どれもあり得る話ですよ」
玲華は暫く黙りこくって居たが、意を決したように唇を開けた。
「私は陰妖術士に成ります。何も問題は有りません。殺す覚悟も殺される覚悟も出来ています。仮に私が妹さんの立場だったら、きっと貴方に有り難うと言っているでしょう。優秀な陰妖術士だったと言うのなら尚更です。況してや愛する兄に過ちを止めて貰って、感謝はすれど恨みなどするものですか。逆の立場でもそうです。若し兄様が過ちを犯してしまったとして、それで兄様の命を絶たねばならなかったとして、その役目を私以外の誰に遣らせられますか。後悔する理由など有りません」
「それは理屈の話です。実際の話じゃない。自覚して下さい。貴方はどうしたって経験不足だ。そして俺だって、一流と胸を張れる程の実力じゃない。半人前と半人前を合わせたって、一流には成れないんです。犬死にするだけだ」
「だったら何故、陰妖憑きに挑もうとしているのですか。それが強敵だと分かっているのに。半人前であるという自覚で私に諦めろと言うのなら、弓削さんだってそれを諦めるべきです」
「俺はそれをやらなければならないんです。一門の復興は秋沙の悲願だった。それだけの為に厳しい修業に耐えて、それの為に死んだんです。俺が手を下した。そしてもう一門に属する術士は俺以外に居ない。だから、どんなに無茶でも、俺がやらないと駄目なんです」
「それこそ理屈の話ではありませんか。生き残りとしての責任感以外に、何が貴方の無茶を支えていると言うのですか。本当に理屈と実際が乖離するなら、弓削さんは一門を復興させる悲願など忘れて、一介の陰妖術士として、気軽に暮らせば良いでしょう。でも貴方は理屈に縛られている。斯く為すべしと倫理に従っている。私もそれと同じです。私には私の倫理が有り、道徳が有り、つまり格率が有ります。それに従おうとする気持ちは、弓削さんが一門を復興させようとする気持ちと、形は違えど同質です。私を貴方の戦いから遠ざけるのであれば、貴方も戦いから遠ざからねば、筋が通りません」
思わぬ玲華の強弁に、告春は口舌をまごつかせた。
「責任が持てない」
「持つ必要は無いと先ほど述べました」
「覚悟したと思っても、実際に気持ちがどうなるか……」
「一致しますよ。覚悟とはそういうものです」
「危険です」
「承知の上です」
玲華の間髪容れない切り返しに、再び言葉を詰まらせた告春は、終には溜め息を吐いた。
「参りました、降参です。もう知ったこっちゃない」
「では――」
「いいえ、稽古は付けません。どうやら俺と貴方は同質らしいですから。そして両者とも半人前らしいですから。対等の相手として、協力して仕事をします。それで良いでしょう?」
「ええ、ええ!」
玲華は目を煌めかせて、大きく頷く。
「これから宜しくお願い致しますね、弓削さん」
「弓削でいい。言い難ければ名前でも、渾名でも、どちらでも……。それじゃ行こうか、冷泉――はお兄さんと被るか、玲華と呼んでも?」
「はい、構いませんよ、告春」
二人は微笑み合って、ベンチから立ち上がった。その足で公園の外に歩き出す。
「これで私たち、友達ですね」
と玲華が言って、
「まあ、そうかな」
と告春が言った。
「こんなつもりじゃなかったけど……」
「旅は道連れ、世は情けですよ。――これからどうします?」
「さっき渡した紙に有る地点を回っていきます、陰妖憑き――悪食という通り名を持つ男を探す為に」
「悪食?」
「陰妖を食うという能力に由来するそうです。本名は確か、ええと、穀堂託氏、だったかな」
「穀堂……?」
玲華は立ち止まった。それに対し、告春は特に何も言わず、合わせて立ち止まり、玲華の顔を見詰めた。玲華は、懐から、告春から渡された物とは別の、もう一枚の紙切れを取り出した。




