チェーンソーマン
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怜乃はゆっくりと目を開けていた。そうしようという意識は働いていなかった。
暗い自室の天井が見えている。染み一つも無い象牙色の天井が、夜の色彩に塗り込められている。それを意識して漸く、怜乃は自分が眠りから覚めた事に気が付いた。
上体を起せば、ソファに在る自身の脚が見える。そして、じっとりと、衣服が湿り気を帯びている触感に不愉快を感じた。
横を向くと、ガラステーブルの向こう側に、まだ見慣れない布団が敷かれている。布団に入っているのは玲華だ。玲華は熟睡の様子だ。
部屋の壁に掛かった時計は、二時を示している。
聴こえていたのは、心臓の音。耳の奥で鼓動が響いている。
詰まっていた息を吐き出して、殆ど息をしていなかったのではないかと思う程、息苦しかった事に気付く。
怜乃は大きく息を吸い、吐き出す。そうして、散逸していた意識を取り纏めると、自分の状況を理解した。ここが何処で、今がいつで、自分が何をしていたのか。
怜乃はソファを降り、浴室へ向かう。扉を開ければ、突き当りに洗濯機の在る短通路。脱衣して洗濯籠に服を放り込む。次いで己が身を浴室へ投げ込んだ。蛇口を捻れば、シャワーからの飛沫が怜乃の体を浚う。
怜乃は、自分が浴室の電気を点け忘れていた事に気付いた。しかし、そのままにした。浴室に放置した体は、動く事を、水に曝されるより優先しなかった。
体が冷えると、怜乃は水を止めて、浴室を出、体を拭き、着替え、外套を羽織り、半球形の黒い石が付いた黒鎖を右手に巻き付け、濶剣の入った背嚢を背負い、深更の義枉市へと乗り込んでいった。
――告春が住宅街の道路を走っている。弓に矢を番えているので、弦を引いていないとは雖も、見た目には走り難そうだ。だがその程度の事は、陰妖術士にとっては空気抵抗ほどにも邪魔にならないらしく、移動距離に移動時間を除算した値からして、告春の疾駆は自動車を追い抜くにも苦労しなかったろう。そうだと言うのに、告春は執拗に追い回され、そして逃げ惑っていた。告春を駆り出しているのは、身の丈八尺ほどの、筋骨隆々とした体躯に、穴の空いた紙袋を被る怪人だ。その両の手首から先は残酷な移植手術を施されでもしたように鎖鋸となっている。凶暴なエンジン音と、刃の回転する音が、告春の耳朶を打つ。告春は縷々として振り向かずにはおられない。見れば、髪を振り乱す如くに鎖鋸を振り回す怪人が、一心不乱に告春を追っているのだ。情動的で幻想的で狂気的な夜に違いなかった。
告春は天へ届けと矢を放つ。こんな物は要らぬと地に投げ返される矢。矢は告春の術を受け本数を増し増して、驟雨の如く降りしきる。雨曝しになった怪人は、俄雨が過ぎ去ると、身震い一つで滴を落とした。傘も差さずにずぶ濡れて、風邪の一つも引きそうにない怪人に、告春は苦笑いする。
喊声よろしくエンジン音を上げ、鎖鋸の怪人が突撃を再開する。怪人は両手の鋸をアスファルトの地面に当てて突っ走る。アスファルトを割って生じる二つの筋の力感に、告春は気圧された。矢を連射するものの、怪人を射止められない。致し方なくして、告春は上空へ退避しようと後ろへ跳ねた。怪人はそれを許さず、瞬く間も無く告春の眼前で、二本の鋸を振り下ろす。告春はつい腕でそれを防いでしまい、油断したと思ったのは、腕を破壊される衝撃と重みで地面に激突してからだった。
回転する鎖刃が告春のうなじを求める。慌てて寝返り打った告春は、握り締めていた弓でそれを迎えた。尋常であればたちまち分断されるであろう弓は、伐採の際に悲鳴を上げる樹木よりも良く痛みを耐え、告春の命を繋いだ。しかしながらそれは戦闘の最中の一瞬の駆け引きのうえでの事に過ぎない。正常な時間にすれば一秒にも満たない間に、もう一本の鎖鋸が告春を襲った。告春は腹筋をもっと頑丈に鍛えておけば良かったと思ったし、この極めて物理的な恐怖に下腹部が収縮するような薄ら寒い感じを覚えた。一秒、二秒、或いはもう少し長く、その状態が続いてからだった、助太刀が入ったのは。
怪人の背に短刀が突き刺さる。柄は黒、刃は灰、聖銀製の短刀。それを握るのは太山だった。太山は短刀を引き抜いて刺し、引き抜いて刺す。その痛撃に、怪人は下手糞なファゴット吹奏のような呻きを上げた。告春の伐採を中断し、鎖鋸を背後へ振り向ける。鎖鋸が衣服を絡み取る間一髪で、太山は自身の後ろへ避けていた。
怪人は告春を捨て置き、太山と向き合う。太山は神妙な面持ちで対峙した。振り上げられて振り下ろされる鎖鋸を、機敏な動きで回避する。その間に、一筋、二筋、怪人の表皮を切創が走る。しかし決定的な一撃を加えるには至らず、半ば躓くように危なげに、太山は怪人から距離を取り、何処かへ叫んだ。
「おい、手伝えって!」
その声に応じて、歩み寄る人影。地面にへたり込んでいる告春の後ろに立った。
「こんな奴は放っておけば良かったんだよ。自業自得だ」
細川は、告春を睨め付けて言った。
「いま危ないのは俺だ!」と太山。
細川は気難しそうな表情で、怪人へ足を運ぶ。その手には既に抜き身の短刀が有る。煌めく刃は、怪人の血でおどろおどろしさを増した。
挟み撃ちに遭った怪人は、めったやたらに、その禍々しい両手を使って、不調法な踊りを踊る。太山と細川はそんな踊りに付き合いきれない。手を拱いていたらば、矢が怪人の頭部を貫いて、頭を飾った。
細川は告春を非難がましい目で睨む。告春は以前のような生意気に当て付ける素振りも無く、ひたすら怪人へ意を向けていた。その表情は、端的に言って、余裕が無かった。
頭の飾りを気に入ったのか、怪人の踊りは徐々に勢いを強め始める。
「一度ひいて態勢を立て直そう」と太山。
「同意する」と細川。「ほら、お前も来い」
細川が地面と仲良くしていた告春の腕を取って引っ張り上げる。告春は細川の手を振り解き、自分で立った。
「放せッ」
と、が鳴りながら。
告春は再び弓を構えた。
「おい止せッ」
細川の掣肘に従う筈は無い。
「けふといへば みそぎを須羽の 海つらに 祓やすらん 風の祝子」
呪文を唱えて射放った矢は、怪人の心臓を穿った。怪人は動きを止めて、両手を下げて、立ち尽くす。静寂が生まれる。細川と太山は緊張して、怪人を静観する。一方の告春は弛緩して、怪人を眺めた。
目にも止まらぬ速さで、二振りの鎖鋸が地面に叩き付けられた。エンジンが絶叫する。アスファルトは削り砕かれ、怪人の発する左右へ震えるような雄叫びが三人の脳を揺さぶる。周辺の現実度が一挙に低下した為に、怪人は自己の存在をより強く現実現象へ捻じ込めたのだ。因ってその体表から傷は失せ、膂力は漲り、鎖鋸の切れ味は抜群だ。そも、アスファルトを砕き斬る威力は鎖鋸の範疇ではない。
怪人は突進した。アスファルトを斬り砕き突き進む二振りの鎖鋸の標的は、片や細川、片や告春。とは言え、それぞれの対処の違いを見せ付けるには、両者とも判断が遅れた。二人の意識は、曲がり角から急に車両が飛び出して来た際の、あの一瞬の硬直を味わっていた。無様に身を強張らせる本能的な対処は、現実に即せばそれなりに理の有る行動なのかも知れないが、如何せん理を窮極せんとする知恵の生み出す道具を使う理外の相手。理に従えば、無惨な結末は必然だった。
故に、その窮地を救うのもまた、理外の人物でなければならなかった。
細川を襲う怪人の手は、灰色の剣に因って切り落とされた。
告春を狙う怪人の手は、足で無造作に踏み付けにされ、攻めを中断させられた。
逃れようとする怪人は、残った鎖鋸の手が踏み付けられて動けない。その紙袋を被った頭では、表情など知り得べくもない。けれどもその焦燥は、きっと誰にも伝わった。
怜乃は拳銃を抜き放って、立て続けに発砲した。
小型の爆弾でも埋め込まれていたように、怪人の肉体が爆ぜて、爆ぜて、爆ぜて……。肉塊になった時、怜乃の拳銃は弾切れを起こした。
武器をしまうと、怜乃は三人に一瞥もくれず背を向ける。
「あ、おい」
太山の呼び掛けにも応じない。
「待て!」
細川の呼び掛けには言うまでもない。
「待って下さい」
告春は怜乃の手を掴もうと手を伸ばしたが、怜乃の体は光のように通り抜け、距離も無いのに触れる事さえ叶わない。怜乃を止める事など叶わない。
暫し茫然とした告春だったが、怜乃の背中が闇へ消え入るその前に、一言、投げ掛け出来た。
「どうすれば、それくらい強くなれますか」
怜乃の背中は闇に消えた。




