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スズメバチ  作者: 宇原芭
1/21

怪人鉈男

 部屋の灯りは点いていない。それでも薄っすらと、ソファや、ガラステーブルや、テレビ等の家具が、橙色(とうしょく)の光に当たっている。灯光は浴室から漏れていた。シャワーの繁吹(しぶ)く音も共に零れている。ふと、水音を掻き消すように、淡泊な電子音が部屋に満ちる。音の源は、浴室に続く短通路の扉の、その横の台に置かれた、固定電話機だ。暗い部屋に居て、話者を呼んでいる。その叫びに応じて、しかし元々無関係にそうするつもりだったかのように、焦りや慌てる気配も無く、蛇口を閉める音が浴室に鳴り、シャワーの水音が止む。そして浴室の戸が開いた。

 出てきた男の年頃は二十前半で、黒く癖の無い髪は、耳やうなじを隠さない程度の長さに、雫を滴らせている。それをバスタオルで拭い取りながら、電話機の呼び声へ足を向ける。開け放された扉の、すぐ隣の電話機、拡声器の図柄が描かれた釦を押した。

「もしもし」電話機からの声が響く。壮年の男の、低い声だ。「冷泉(れいぜい)か」

「ああ」

電話越しの問いに、部屋の男は、淡泊にそう答えた。答えを受けて、電話の相手は続ける。

「喫緊の任務だ。陰妖(おんよう)が逃走している。既に調査員二名が対応しているが、お前も援護に向かえ。位置は西小学校付近との事だが、対象がどの程度の速さや範囲で移動できるのかは未知数だ。それと、最近は陰妖術士も少なからず出張(でば)って来ているからな、陰妖を追って()()う事も予想される。元同業者だからと言って容赦するな。以上だ。質問はあるか」

「無い」

冷泉、と呼ばれた男は、電話機の(ぼたん)を押す。すると通話が切れた。それからバスタオルを洗濯籠に放り込むと、下着を、シャツを、そして黒い背広を着込んで、その上から、光沢のある黒い皮革(ひかく)外套(がいとう)を羽織った。更に、ガラステーブルに無造作な置かれ方をしていた、黒く細い鎖を取り掴む。鎖には、半球形の、五芒星の意匠が彫り込まれた、これも黒い、石が括られていた。鎖を右手から前腕に掛けて巻き付けると、その石が丁度、掌の位置に当たる。

 男は消し忘れたのか敢えて点けておいたのか曖昧な浴室の灯りを消し、玄関扉に向かう。土間の壁には三尺の細長い布の袋が、中に何か入った状態で立て掛けられていた。布地はやはりと言おうか黒で、男は靴を履くと、袋の帯を取って肩に担いで、部屋を出た。


――――

―――

――


 義枉(ぎおう)市には都市伝説がある。大した内容ではない。満月の晩に、両手が(なた)になった怪人が現れるという、大雑把に言ってそれだけの話である。無論、都市伝説には恐怖を煽って人を驚かす一面があるので、その怪人の羽織るフード付きの灰色い合羽は血で汚れているし、フードに覆われた顔はぽっかりと空いた真っ黒な穴になっているし、仮に出くわしたとすれば、その両手の鉈でぶつ切りにされる。勿論、そんな怪物は実在しない限り、分別ある大人には何ら恐ろしくはない。実在していない限り。

 黒い背広姿の壮年男性二人組が、住宅街の道路を走っている。一人は太い体形で、もう一人は細い。更けた夜の道々をひたすらに駆ける二人の体力は十分らしく、速度は落ちない。灯りの点いている家もまだあるが、道標は街灯から投げられる白い光だ。パツン、パツン、と不穏な音を立てて、道先の街灯が点滅する。その下に(たたず)む、灰色の合羽(かっぱ)を羽織った何者かの後ろ姿。両手が鉈になっている。

「見付けた」

走っていた細身の男が呟く。彼は握っていた黒鞘から、刃を抜いた。短刀である。街灯の光を反射して、灰色に輝いた。その切っ先を、街灯の下で佇む、両手が鉈になった何者かに向ける。しかしその者は、向けられた敵意に見向きもせず、足元に倒れた老人を見下ろしている。老人を中心に血溜まりが出来ていた。血溜まりに小さな波紋が出来る。鉈から垂れた血の滴が原因だった。

「遅かったか」

言ったのは、太身の男だ。彼もまた、短刀を抜き放った。

 両手鉈の怪人は、いよいよ二人の男に顔を向ける。フードの中に、ぽっかりと空いた穴は真っ黒で、中に何も見えない。

「都市伝説通りの見た目だな。特徴も一致しているだろう」

細身の男が言った。

「怪談だと、百メートルを九秒台で走るんだったか」

太身の男が返す。

「中途半端に現実的なのが一番こまるんだよな」

太身の男がそう言った時だった、怪人が二人に躍り掛かる。鉈が大振りに、左右から弧を描く。その軌道から、二人は後退(あとずさ)って逃れる。そのすぐさまに地面を踏み込む。拍子を合わせて、二振りの短刀が怪人の胸を突いた。怪人の口――に思えなくもない穴――から、悲鳴のように、金属を擦り合わせたような音が長く聴こえてくる。苦痛を堪えかねたように、怪人は鉈を出鱈目に振り回す。二人がそれを避けて、結果、距離が取れると、怪人はなりふり構わぬ体で逃げ出した。

「こりゃ余裕だな」

「追うぞ」

太身の男に細身の男がそう言って、二人は追走した。

 正面に見えてくるのは夜の校舎だ。怪人は閉ざされた校舎の門扉(もんぴ)をすり抜けて、校庭の方へ消えていく。それを目睹(もくと)した二人は、躊躇なく門扉をよじ登って、怪人に続いた。しかしその走りは校庭の手前で止まる。二人の足を止めたのは、校庭で(ひし)めき()う無数の怪人が居る景色だ。怪人は一様の姿で、個体毎の特徴は無い。禍々しい鉈が両手に成り代わった、血に薄汚れた合羽の姿だ。それがそれぞれに思い思いに動き回っていたのが、太身と細身の男、二人の気配へ、一斉に体を向けた。

「怪人ってたくさん居る事になってたか」と太身の男。

「そういう都市伝説ではなかったと思うが……」

「なら、怪談を信じた少年少女の想念の、一つ一つが形になったってところか?」

「有り得る話だ、この街の現状を鑑みればな」

そうこう話をしている間に、校庭の怪人たちは、二人に近付いている。

「逃げるか?」と太身の男。

「馬鹿、気圧されるな。増援は要請しておいた。増援が着くまでで構わん、やるぞ」

 斯くして、二人は怪人の集いへ切り込んでいった。だが……。


――

―――

――――


 何体の怪人を切り伏せたか、数える余裕などありはしない。我武者羅に、入れ代わり立ち代わりする敵を切り倒していく。次第にこちらの傷は増え、手数は減り、形勢に逆転の兆しは見られない。それでも尚、不撓不屈の精神で、怪人と戦う二人の男にあるのは、或いはただ、生存への執着と死への恐怖だったかも知れない。そうであれば、遥かから飛来した矢の一閃に、安堵の表情を浮かべたのも無理は無い。

「ようやっとお出ましか」

太身の男が、怪人の喉元から、短刀を引き抜いて言う。直後、その周囲に群がっていた怪人が続々と射貫かれる。強力な援護に太身の男は士気を高めて、肉体の疲労をものともせずに、力いっぱいの斬撃を、怪人に浴びせていく。以って大きくなった男の隙を埋めるように、細身の男は、鋭い刺突を怪人たちに喰らわせていく。その連携から漏れた怪人には、上方から矢が飛び付いていく。しかしながら、途中で細身の男は、不愉快そうに声を荒らげた。

「糞が!」

「なんだ、どうした」

「馬鹿か、気付かないのか? 八三(はちさん)に弓矢を使う奴なんぞ居るか」

「それもそうだな。……てことは」

陰妖術士(おんようじゅつし)だ。――おい、降りてこい!」

細身の男は、校舎の屋上に向かって吠えた。その声に反応して、それまで何の姿も無かった屋上の柵の上に、人の姿が、霧が晴れるように立ち現れてくる。その人物は、満月を背景にして柵の上に立ち、弓矢を携えていた。だが服装は変哲の無いシャツにズボンと、そこいらの若者といった風情だ。若者は柵の上で跳躍する。すると、夢でしか有り得ないような、尋常とは比べ物にならない距離を越えて、細身の男から数歩はなれた所に着地した。着地の衝撃は、その気配すら無い。

 三人は怪人と戦いながら、互いの様子を窺い合う。主張の機会を探っていた。最初にそれを得たのは、若者だった。

「何なんでしょうかね」若者が言う。「特に降りる必要なかったと思うんですけど……」

「馬鹿が! この糞餓鬼が……」細身の男が言う。「テメエのその現実改変で、辺りの現実度が下がってんだろうが! 道理で敵が減らねえ訳だよ」

細身の男は、力任せに怪人の腹を蹴った。その様子に、若者は眉を顰める。

「手を貸してるのに、そんな文句を言われましてもね……。第一、現実改変じゃなくて陰妖術ですし、うつつの弛みだって、この街の異状が原因でしょう」

「ごちゃごちゃ言い訳すんな! 陰妖術も現実改変も同じだ。義枉市の異状が陰妖発生の――、糞ッ」細身の男は怪人を突き倒す。「――義枉市の異状が陰妖発生の原因だったにしろ、それを悪化させてんのはテメエの技だ、このあんぽんたん!」

罵倒されて、若者は益々(ますます)表情を悪くする。(ほとん)ど何の前触れも無く、思い付いたように、(つが)えた矢を細身の男に向けて放った。矢は細身の男のうなじを掠めて怪人に当たる。掠められたうなじに触れて、細身の男は顔を怒気一色に染め上げた。

「正気か、この野郎! テメエから殺してやる!」

「待て待て、落ち着けって」

殺気を携えて若者の方へ歩みを向けた細身の男と、弓矢を構えて細身の男に向く若者の、二人の間に割って入る太身の男。

「せめて陰妖をどうにかしてからやってくれ」

そんな忠言に返されたのは舌打ちだった。鳴らした細身の男は、短刀を振り上げて、自身の背後へ刺突を繰り出す。怪人の腹に刃が入る。

「ただではおかんぞ」

細身の男は若者を睨む。睨まれた若者は外方を向いて、

「ご勝手にどうぞ」

と言った。

 怪人の数が目に見えて減ってくる。だがここにきて、壮年の二人も流石に息が切れてくる。一方で、若者に疲れた様子はまるで無い。それは若者の体力が並外れているにしても不自然な、超然とした様子だった。細身の男はそれが面白くない。

「おい、お前、体力まで改変していやがるだろう」

「あなた方の疲れも取り除きましょうか」

「ふざけるな。お陰様でいつまでも敵が居なくならねえ」

「確かに陰妖術は(うつつ)、あなた方の言葉で言うところの現実度に影響しますけど、これほどではありませんよ。ひょっとしたら別の所に大物でも居るんじゃないですか」

「成程」

若者の言葉に賛意を示したのは太身の男だ。

「有り得るんじゃないか。ここの現実度の低さなら、例えば竜なんか出てきても驚くに価しない」

「くそったれ、探しに行けないぞ、増援は何処で油を売ってんだ」

そう細身の男は言ったが、若者の手を借りれば、自分たちで居るかも知れない敵を探しに行く事も、或いは若者に探しに行って貰う事も可能だ。それをしないのは、彼らの所属する組織の方針と、方法から生じる確執が、個人の身にも染み付いていたからだ。

 状況が行き詰まりを感じさせたその時、校舎の中から、巨大な弦楽器を鋭く掻き鳴らしたような声がした。聞き慣れない大音声(だいおんじょう)に、始め、男たちはそれが、何か生き物の叫びだと気付かなかった。音が生類の――少なくとも生物を模した存在の――ものだったと分かったのは、校舎の向こう側から飛んできた大きな塊によってだった。

 岩石のような大きさのそれは、トカゲの頭に良く似て、しかしトカゲと呼ぶには仰々しい棘が目立つ。平たく言えばそれは、竜の頭部であった。吹っ飛んできたそれは、怪人たちを押し潰しながら転がって、男たちから十歩ほど離れた位置に止まった。

 男たちは呆気に取られていたが、次いで驚かされたのは、空から降って、竜の頭部に着地した男だった。その男は、細身の男や太身の男と同様の背広に、光沢のある黒い皮革の外套を羽織っていた。右手から肘に掛けては、黒く細い鎖が絡み付き、左手には灰色に輝く(ブロード)(ソード)を握り締めている。その剣は細身の男らの持つ短刀と同様に、柄は黒く、灰色の輝きも同色で、同質の材、乃至は作と思わせる。

 周囲を睥睨(へいげい)する男に対し、細身の男が言う。

「陰妖術士か!」

「増援の八三(はちさん)だ」

素っ気の無い返事をしながら、男は飛び掛かって来た怪人を、手に持つ剣で一刀に切り伏す。それを片手でやってのけて男は、空いた右手で自身の懐を探り、加熱式の喫煙具を取り出した。喫煙具には(あらかじ)め煙草が据え付けてあり、口に運ぶ以外の動作を要しなかった。そんな呑気な所作の間にも、怪人たちは新たな獲物に殺到する。しかし只の一体でさえ、振り下ろした鉈を男の体に触れさせる事も叶わないまま、灰色く煌めく刃に両断され、叩き飛ばされ、或いは蹴り飛ばされる。寄ってたかる怪人を一通り、虫を払い除けるかのように無碍に散らすと、男は竜の頭を降りて、細身の男と太身の男の居る方へ歩みを向けた。その間にも、殺意に突き動かされて迫る怪人だったが、男の剣に()(つらぬ)かれて捨てられる。

 自分たちも怪人に襲われながら、細身の男は、太身の男は、若者は、増援に来た男の一挙手一投足から、良く目を離せないでいた。彼らの内に渦巻く、単一の言葉では言い表し得ない、混合物のような感情が、男から注意を逸らさせなかった。窮地に訪れた強者が味方を名乗る、だから安堵した。明らかな強敵を退けてここに立ったらしい、だから口惜しかった。自分よりも強い者が力を振るっている、だから畏ろしかった。戦闘の最中とは思えない程に悠然としている、だから不気味だった、そして腹立たしかった。

「怪我をしているのか」

男が言った。その呼び掛けに反応したのは、太身の男だった。

「ああ。もう、ぼろぼろだ。俺も、こいつも――」太身の男は、顎でしゃくって、細身の男を指す。「怪我だらけだぜ。見りゃわかんだろ」

彼らの衣服は、所々が切り裂かれて、血も滲んでいた。

「傷は治した。服も直した。何処か遠くで休め」

「え?」

太身の男が自身を見る。服に破れは無い。体に傷も無い。(しか)(しこう)して痛みも疲労も消えている。それを内心、太身の男は喜んだが、細身の男の激昂に、心気を表する事は出来なかった。

「テメエ! 現実改変を……」

「必要だ」

「ふざけるな、これの所為で――」

「邪魔だ」

突っ掛かろうとした細身の男が、片手で軽々投げ飛ばされて、遥か校庭の縁を越えて、アスファルトの地面にまで転がる。すぐに起き上がって喚き出したので、怪我どころか痛みも無かったらしい。本人の意思はどうあれ相方が戦線を離脱したのを見て、太身の男もそちらへ向かった。

「後は任せた」

という言葉を残して。

 怪人の残りはあと三十も居ない。であれば、弓の若者だけでも、どうにかはなりそうなところだ。だが若者は、敢えて怪人を仕留める手を止めた。そして男に声を掛ける。

「陰妖術士のくせに八三に居るんですね」

「何か用か」

次々と怪人を斬って捨てる片手間に、男は言う。その姿に若者は眉を顰める。

「解せないんですよ。その剣は聖銀製でしょう――っと」襲い来る怪人の鉈を避けて、矢を射掛ける。「聖銀の武器と同時に陰妖術を使うなんて、冷房を使いながらカイロを体に貼るようなものじゃありませんか」

 男は紫煙と共に溜め息を吐いた。

「手間だな」

「え?」

男の呟きに、若者が聞き返す。だがその応えは得られなかったし、若者自身の頭からも、そんな遣り取りは抜け落ちた。頭の働きは、目前に、出し抜けに現れた、巨大な銀狼によって、それへの注意に占められた。銀狼は頭部だけでも若者の身長に匹敵する程の大きさで、それが若者の目前に、皺を寄せた不穏な表情で居る。体高体長は言うまでもなく巨大で、恐竜のようだ。そんな怪物に直面して、危うく若者は腰を抜かすところだったが、その前に銀狼は、その巨体からは連想できない程の軽々とした動きで、若者の頭上を跳び越えた。着地した先の怪人を踏み潰し、その側の敵に咬み付き、振り回して吹っ飛ばし、怪人の群れに突進して蹴散らして、牙で、爪で、体躯によって、怪人たちを蹂躙していく。それを尻目に、銀狼の主人であろう男は、煙草を()む。そして歩いて、この場を離れていく。遊びに飽きて家路に就くような後ろ姿に、若者は声を張り上げた。

「銀狼ッ、巨大な銀狼の式神式! 貴方は冷泉家の惣領じゃないんですか、ひょっとして!」

男は、何の反応もしなかった。

 校庭から出るその縁の辺りで、細身の男と太身の男が、待ち構えていた。二人を一瞥すると、男は歩きながら「後始末は頼んだ」と言って、その場を去ろうとする。だが、細身の男が呼び止めた。

「待て、このもぐり野郎」

「おい止めとけ――」

「お前は黙ってろ。――おい、もぐり野郎、止まれ」

「……僕はもぐりじゃない。歴とした八三だ」

「ハッ、俺たちの立場に歴とした何て言えるほど確実なものなぞ無い。そんな中で、俺たちの共通了解は、現実を正しい形に守る事だ。現実を歪めて守る事じゃない。俺たちは聖銀を使って現実を在るべき姿に引き戻す。現実を改変して都合の良い形にするのは陰妖術士の……、いや、陰妖のやり方だ」

細身の男の握る抜き身の短刀が、外灯の光を受けて灰色に輝く。

「俺たちはお前を認めないぞ」

敵意を剥き出しにする細身の男と、その姿勢にたじろぐ太身の男。

「ああ、ところで―――」太身の男は何とか話題を転換しようと試みた。「あんた名前は何て言うんだよ。俺は太山(ふとやま)、こいつは細川(ほそかわ)

冷泉(れいぜい)怜乃(れいの)だ」

そう言って男は、振り返りもせず、真っ直ぐ夜の闇に去っていった。後に残された二人が振り返ると、校庭には、あの銀狼も、若者もいなくなっていて、全てこの場は事も無し。



 その存在は陰妖と呼び習わされていた。恐るべきはその現実改変能力。現実改変能力、それは読んで字の如く、現実を作り変えてしまう力。陰妖の能力は、現実という認識を現実に置き換える。誰かがこれは本当だ、と思ったら、それを本当にしてしまえる。その能力の範囲には、陰妖の個体によって差があるものの、脅威とならない陰妖は、かつて一度も確認された(ためし)はない。

 それ故に、陰妖の存在は否定せねばならない。それ故に、陰妖の存在は秘匿せねばならない。けれども、出現してしまった陰妖の対処もせねばならない。それ故に、警視庁公安部公安第八課がある。

 第八課、というものが実在するのか、はっきりと知る者はいない。そこに所属する者ですら、仕事上の相棒と、同じ所属を名乗る幾許人しか知らず、それ以外のことは詳しく知らない。組織の沿革など知る由もない。だが彼らは確かに指令を受けて、陰妖に対処する。

 八三、と彼らは言う。警視庁公安部公安第八課という文字列に、八が三つあるからだ。所属の自称は、それを知る者によっていつしか他称へと変わり、彼らを示す代名詞となる。八三、奴らは八三。

 この物語は、とどのつまりはそれだけの物語。八三の一員である冷泉怜乃が、陰妖を倒すだけの物語。それより他の救いはないし、望むべくものもない。


――『スズメバチ』――



――

―――

――――


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