お祖母ちゃんからのお年玉
過去作。
――九十度だ。
十年ぶりの再会だというのに、祖母の姿を見て思ったのはそんな失礼な事だった。横から見た祖母の姿。きっかり腰が九十度に曲がっている。そういえば、昔から祖母は竹を割ったような性格だった。きっと背中も、潔く直角に曲がったのだろう。数秒間でそんな下らない結論付けをしてしまい、私は余計、笑いを堪えられなくなった。
「開いたよ」
部屋の鍵を開け終えた祖母が怪訝そうに私を一瞥してくる。シワだらけで、シミだらけで、干し芋みたいな顔。十年前はもうちょっとマシだった気がする。はっきりとは思い出せないけど。その時私は小六だったと思う。
「なにニヤついてんだ? 気持ち悪い」
声は、しゃがれているのに必要以上に大きい。多分、祖母は自分の声が聞こえづらいのだろう。だから怒鳴るようにしゃべるのだ。補聴器でもつければいいのにと、さりげなく見た祖母の耳たぶは、やっぱりシミだらけだった。
「ひどいなあ。会えて嬉しいなって思ってるのに。……十年ぶりだよ?」
私もできるだけ大声を出した。歯が浮く台詞も軽々しく言えてしまう。なんせ十万がかかっているのだ。祖母の機嫌を損ねるわけにはいかない。私がリップサービスをすると、祖母の口元が柔らかく綻び、笑窪まで出来た。こっちまでちょっと嬉しくなる。やっぱり孫の私は可愛いんだろう。
「そんな社交辞令言ってる時間はないんだよ。さっさとやって欲しいんだ」
すぐに厳しい顔つきになって、私を部屋の中に促した。
「報酬はあとで渡すから、片付けが終ったらばあちゃんの部屋に来な」
祖母に背中を押され玄関の中に足を踏み入れた。途端、何かにけつまずき、危うく転びそうになる。咄嗟に爪先に力を込め止まる。
「何なのよ……!」
少しイラッとしながら、壁にある電灯のスイッチを押した。すぐに電気がつき、視界が鮮明になる。
さっき足にぶつかったのは、私のウエストの高さまで積み重なっている、新聞とチラシの山だった。その周りには暗い色のロングブーツ四、五足と暖色系のミュールが数足、所狭しと並んでいる。
「ちょっと、おばあちゃん。この部屋玄関から酷い……」
文句を言おうとして、途中でやめる。後ろを振り向いた時、祖母の姿はもうなかった。
「私に全部やれって?」
……まあ、あんなに腰が曲がってるんじゃ、掃除もままならないだろうけど。それにしても。今日中に片付けるなんて、絶対に無理だ。腕時計を見てため息が出た。すでに五時を過ぎている。
靴を踏んづけないように爪先立って歩き、部屋へと辿り着く。メインの部屋は玄関以上に散らかっていて、足の踏み場が全然ない。
「ここ……女の子の部屋だよね……?」
独り言が、なんだか詰まって聞こえる。物が多すぎて声が通らないのかもしれない。私の部屋も決して綺麗だとは言えないけど、ここまで汚くした事はない。ここまで汚れる前に、母に片付けろと怒られるからかもしれないけど。
洗濯機の周りには、服の山。その中に使用済みの下着が埋もれている。その隣には雑誌の山が連なり、山脈レベルに達している。少し視線を遠くに転じると、茶色い段ボールの上に、絶妙なバランスでアイロン台が載っていて、その上には滑り台を降りている途中のようにアイロンが置かれている。ちょっとした振動で、着地ししてしまいそうだ。でも着地すべき床が見えないわけで。ふと、足元に目をやると、テレビのリモコンが転がっていて、電池カバーのなかから電池がはみ出ているのが見えた。酷すぎる、この部屋。
埃のかぶったテレビの周りには、スナック菓子の残骸が散らばっている。テレビに密着した壁には大きな窓がある。とりあえず換気をしようと、窓に近づくのだけど、これも一苦労。一メートルぐらいしか距離がないのにプラスティックのゴミに邪魔されて、思い通りに歩けない。プリンタ、卓上ライト、ハロゲンヒーターに扇風機。積み重なっている。見ているだけで疲れてしまう。とりあえず休もう。何もしてないけど……。
私は足で雑誌の山を蹴飛ばして、自分が座れるスペースを作った。すると、突然冷蔵庫が大きく唸り出した。
「冷蔵庫の中か……怖くて見れない……」
どうしよう。十万円につられて来ちゃったけど、こんなに汚れた部屋絶対に片付けられない。絶対に無理だ。
祖母の思惑が分からなくなる。この部屋を片付ければ十万やるよ、と言われて軽くOKしてしまったけど、これは、私の手に負える代物じゃない。祖母が十万円渡す相手は、私じゃなくてプロの掃除屋だ。
祖母から電話がかかってきたのは、今日の朝だった。「おばあちゃんだけど」と、電話口で突然言われ、思いっきり間抜けな声で「は?」と聞き返し、間違い電話かと思って受話器を置こうとさえした。だって、十年前に両親が別居してからずっと、祖母とは一度も会っていない。父と祖母に会うことを、母から禁じられていたのだ。私が母と暮らすのを選んだ時から。別居の理由はありがち。嫁姑の不仲、だった。
「ずっと会いたいと思ってた」とか、「大きくなったんだろうね」といった、心温まる前置きは一切なく、単刀直入に「部屋の片付け頼めないかね?」と祖母が言ってきた。私は即断ろうとしたのに、「綺麗にしてくれたらお小遣いあげるから。十万円でいいかい?」
その言葉で、快諾してしまったのだ。十万円あれば、ずっと行きたかったエステで、全身脱毛の施術を受けることが出来る! 掃除は大嫌いだけど、全身脱毛の為だったら……と。後悔。こんな汚部屋にいる位だったら、ムダ毛ぼうぼうの方がマシ。
祖母の説明によるとこうだ。
祖母が大家を勤めているこのアパートのこの部屋の住人が、家賃一ヶ月分を滞納したまま、行方不明。祖母が心配して不法侵入した所、高レベルの汚部屋発覚。住人が帰ってきても来なくても、部屋をこのままにしておいては、火事になる危険性も出てくる。なんせこの散らかり様。で、私に片づけを頼んできたというわけだ。何で私? とは思う。他に頼める人がいなかったのだろうか。
喉が痒くなってきた。埃が充満しているんだろう。白い壁は、タバコの煙で黄ばんでいる。おっかなびっくりに、窓に向かって平らな部分を選びながら歩く。プラスチックの尖がりは怖い。と、むにゅっと柔らかい感触がした。靴下越しにだから、曖昧なのだけど。
「なんだろ」
屈み込んで、プラスチックの山をそっと崩そうとした時、バターンと、背後でドアの閉まる音が聞こえた。
咄嗟に振り返ると、玄関と部屋の段差あたりに、OLっぽい服装をした女性が佇んでいるのが見えた。私と同じぐらいの年齢かもしれない。ミニスカートから覗く足は弾力性がありそうだ。
「あなた……何やってんの?」
私が女だからか。怖がっている感じはしない。呆然とはしているようだけど。
「人の留守に勝手に入って……泥棒?」
あ、もしかしたら、本当に泥棒に入られたのかもしれない、この部屋。だからこんなに汚れているのかも。
「いや、違うんですよ。あの……私の祖母が、このアパートの大家で」
大家、と私が口にした瞬間、部屋の住人が眉間にシワを寄せて、吼えた。
「まーた、あのババア、余計な事しやがって!」
ピンク色のジッポで火をつけ、美味しそうにタバコ吸いながら、汚部屋女が口を開く。
「ゴキブリ、見つけちゃってさ……部屋にいるのが嫌になっちゃって、彼氏の家で寝泊りしてたの」
あっけらかんと、実に下らない理由を話し出す。
汚部屋女は、あの、微妙なバランスを保っているアイロン台に腰を掛けている。女の片手にはタバコ、もう片方にはアイロン。変な格好。座る場所がないから仕方ない。でも、タバコを落としたら即刻火事になるな、と思うと、気が気じゃなくなる。祖母の気持ちが分かる気がした。
「ここまで汚れちゃうと、掃除する気なくなっちゃって。なんていうか、現実逃避?」
私に聞かれても困る……でも、現実逃避したくなる気持ちは分かる。この部屋にいると気が滅入っておかしくなりそうだから。
汚部屋女の身なりはとても綺麗で、洗練されていて、とてもこんな部屋の住人とは思えない。
「私もね、会社では整頓上手とか綺麗好きって言われてるんだけど。自分の部屋はどうしても掃除できないの。やっても三日坊主で」
「でも、このままじゃ」
「そうなのよねえ」
はあっと大きなため息をついて、汚部屋女が私にアイロンを手渡してきた。なんとなく私が受け取ると、汚部屋女が爆笑した。
「あなた、なんか面白いね。年齢も近いんじゃない? 私二十二」
「……私もです」
「何やってるの? 私はフツーのOL」
「私は大学生やってます」
「あ、だから、時間に自由がきいて、掃除の手伝いに駆り出されたの?」
「いや……そんな感じじゃないと思うんですけど。祖母とは十年間会ってなくて。いきなり手伝えって言われたんでびっくりしたんです」
「そうなんだ。単純に孫に会いたかっただけじゃないの? 大家さん強情な所あるしね。ストレートに会いたいなんて言えなかったんじゃない? ね、これも何かの縁だし、一緒に片付けてくれない?」
「いいですけど……」
これってラッキーなのかもしれない。だって、二人で片付けて、十万円もらえるって事になる。半分の労働で十万円。
「とりあえず、このゴミ、まとめて粗大ゴミに出そうかなって」
そう言って汚部屋女が、ハロゲンヒーターの首の部分をひょいと掴んだ。
「ほら、あんたも手伝って」
言われて、私は扇風機とその下に隠れていたタオルケットを手に取った。
「ん? なんだコレは」
卓上ライトとDVDレコーダーの下に、人の足のような物が見えたのだ。灰色の布地に黄土色の水玉模様がついた、くたびれたズボン。
「あの、これなんですか?」
タバコの火をハロゲンヒーターの平らな部分で消している汚部屋女の肩をつつく。
面倒くさそうに振り返った女の顔が凍りついた。
「ババアの服じゃん! ちょっとどいて!」
悲鳴のような声を出して、汚部屋女がDVDレコーダーと卓上ライトをなぎ払っていく。ババア? それって……。私は呆然と見ている事しかできない。祖母のわけがない。だって、私をこの部屋に放り込んで、祖母は自分の部屋に戻ったんだから。
「ああどうしよう、大家さんだ。……動かないよ、ねえ生きてるかな?」
突っ立っていた私の足にすがり付いてくる。指が小刻みに震えている。そんなバカな。祖母のわけがない。
「下敷きになったんだ。私、部屋を出る前は、このDVDとかライトとか、ちゃんとこのテーブルに置いといたのよ。積んどいたから、崩れちゃったんだと思うんだけど」
汚部屋女が、折りたたみテーブルの隅をバンバンと叩く。自分でも何を言ってるのか分かっていない様だ。そんな事言ってる場合じゃない。
一呼吸した後、私は水玉ズボンの足を引っ張った。上半身にはカーテンの布地が被さっている。それを退ける。
一瞬、息が止まった。
薄い半纏から覗く、シワだらけでシミだらけの首。その上には、さっき見た、祖母の顔があった。シワだらけの、シミだらけの、乾し芋みたいな顔……伸ばされた右手の先には、電話機が転がっていた。
それからは、勿論、部屋の掃除どころじゃなかった。救急車を呼んで、警察を呼んで。汚部屋女は詳しい事情を聞きたいと言われ、警察に赴く事になり、私は現場で質問はされたけど、すぐに解放された。
部屋から祖母の遺体が運び出された時、汚部屋女はわっと泣き出した。あっと言う間にばっちりメイクが溶け出して、黒い涙が頬を伝い落ちた。
「うるさいババアだって思ってたのに……もう会えないのかと思うと」
ひぃっひぃ嗚咽を零す汚部屋女を見ているうちに、こっちも涙ぐみそうになって、慌てて目の奥に力を入れた。だって、おかしい。なんで彼女が泣いているんだろう。私のおばあちゃんなのに。何で私より先に泣いている? 何で私がもらい泣き? 絶対間違ってる。
祖母の部屋に入ると、お線香のようなにおいがした。狭い狭い部屋。父は母と別居後、地方の支社に転勤になり、祖母とも別れて暮らしていた。皮肉なものだ。父は、母ではなく祖母と暮らす事を選んだというのに。
畳の四畳半に、とってつけたようなガスコンロ。トイレは年季の入った和式で、古臭いタイル張り。
部屋の真ん中にちゃぶ台があって、その上には茶封筒が置いてある。中を開けてみると、更に小さい袋が何枚も入っている。茶封筒を逆さまにして、全部出す。
「……ポチ袋?」
小さい袋は、全てポチ袋だった。
干支のイラスト付きポチ袋に、一万円ずつ入っている。それが十枚……十年分だ。
「報酬はあとで渡すから、片付けが終ったらばあちゃんの部屋に来な」
さっき、祖母はそう言って私と別れたんだ。必要以上に大きい声で、私の耳にちゃんと残っている。でも、そんなわけがない。だってその時祖母はもう……じゃあ、私が見たのは何だったんだろう?
電話してきたのは、朝の……八時ぐらいだったか。私が二度寝しないで、そのままアパートに行っていればお昼には着いていたはずだ。夕方になんかならなかった。
家に帰りつくと、すでに母が、祖母の死を知っているようで、慌ただしく部屋の中を歩き回っていた。
「おばあちゃんのお通夜、明日の夕方になったからね。あんた、美津子おばさんに連絡してくれない? お母さん、嫌われてるみたいだし。これに美津子おばさんの電話番号書いてあるから」
母は相変わらずだ。父の親族と話す気なんて、これっぽっちもない。
なんとなく、ポケットの中のポチ袋を取り出してみる。急に、胸に何かが込み上げてきた。
毎年用意してくれていたお年玉。なんで渡してくれなかったんだろう。郵送してくれればその都度感謝するのに。おばあちゃんの事、ちゃんと思い出したのに……電話ぐらい、かけただろうに……ううん、私は電話なんてしなかっただろう。一万円を手にした瞬間だけ嬉しくなって。そのお金で何を買ったのかも覚えてない、誰から貰ったお金なのかも忘れている。
祖母の死因は、脳溢血だったようで、私に電話をかた時から、症状は出ていたらしい。でも、救急車を呼んで欲しくなかったんだと思う。なんせ、あんな汚い部屋に埋もれているし、その部屋に住人の許可なく入っている状況なのだ。だから私を呼んだのだろう。
「単純に孫に会いたかっただけじゃないの?」
汚部屋女の言っていた言葉を思い出す。私は祖母の存在自体、忘れかけていたのに。なんて違いなんだろう。そう思うと、喉が詰まった。
母に反抗する気も起らなくて、私は言われたとおり、手渡された電話帳を見ながら美津子おばさんに電話をかけようとした。なのに、できない。目が霞んで、数字がはっきりと見えないのだ。鼻がツンそして、駄目だ駄目、そう思ってるのに、涙が頬にぼたぼたと落ちてくる。勝手に流れてきて、止まらない。
「ぼうっとしてないで早く……」
電話の前で固まった私に、母が少し苛立ったような声で近づいてくる。
「……あんた泣いてるの? おばあちゃんが死んでそんなに悲しいの?」
不可解なものでも見るような母の目、素っ頓狂な声。母にとっては憎たらしい姑だ。泣きたくなる気持ちなんて欠片も持ち合わせていないんだろう。私だって、泣くほど悲しくない。
「それほどおばあちゃんと会ってないじゃない」
母はつまらなそうな顔をして私を見つめている。母の姿が、なぜか遠く感じる。涙のせいなんかじゃなくて。
「十年間、しゃべりもしなかったじゃないの」
そうだよ。そうなんだけど。
止まらない。涙がどうしても止まらない。了