伊巻家はみんな帰りたい
彼の偉人――ナポレオン・ボナパルトは言いました。
『人生という試合で最も重要なのは、休憩時間の得点である』
まったくもってその通りだと俺は思う。学校の授業や仕事なんてもんははっきり言って無駄が多過ぎるんだ。授業中にゲームしたり弁当食ってるような奴はそこんとこちゃんとわかってらっしゃる。
休憩中こそ有意義。だったら人生ずっと休憩でいいじゃない。
真面目に先生の話を聞いたり板書したりしてる奴に問おう。――なにそれ意味あんの?
だいたい必要なことは教科書に書いてあるんだ。それをわざわざ黒板に書かれたものをノートに写すとか無駄な作業にも程がある。確かに要点はまとめられてるのかもしれない。教科書にはないトリビアを話されてテストに出されるかもしれない。
満点取りたい奴は頑張れ。
ほどほどでいいならガン無視で結構。
よって、今やってる授業の範囲を一週間前には教科書で学習していた俺がやることはただ一つ。
おやすみなさい。
無駄な現実は放り捨て、最も有意義に過ごせる幸せな世界へと旅立つことだ。グッバイリアル。ハロードリーム。
「コラ伊巻!? 授業中に寝るな!?」
バチコン! 数学教師のハゲ頭が丸めた教科書で俺の頭をしばきやがった。
「あと二十七分十三秒……」
「秒単位で授業の残り時間を言うな!?」
「帰りたい」
「ほ、ほう? 先生の授業はそんなにつまらんか? だったらこの問題を解いてみろ! そうすれば残り時間はお前の自由にするといい!」
先生が数学の教科書の最後の方から応用問題を引っ張り出してきた。普通に授業をやってちゃ絶対に辿り着けない部分だ。
それを、俺は――
「はい」
「馬鹿な……途中式まで完璧だと……?」
教科書から出題したことが間違いだったな。そうじゃなけりゃ少しは悩んだかもしれんのに。
「ぐぬぬ……」
お言葉に甘えてハッピードリームにログインする俺に、数学の先生は悔しそうに歯噛みしているな。こうして優秀さを見せつけてやれば文句は言えないだろ?
だが、ただ優秀さを演じているだけではダメだ。真面目な優等生なんてやって先生に気に入られでもしたら余計な仕事が鬼のように回ってくる。だから授業中だろうと堂々とおやすみなさいして先生の評価をプラマイちょっとマイナスにするあたりがベストなんだ。
俺は、いや、俺らは別に頭がいいわけじゃない。要領がいいだけだ。
「なんで……」
そう、サボるための努力は惜しまないという一点に関してだけ言えば!
「なんでお前ら『伊巻』はどいつもこいつもこうなんだぁあッ!?」
その日もいつも通り、授業中に先生の絶叫が学校中へと響くのだった。うるさい。
zzz
「帰りたい」
「帰りたい」
「帰りたい」
放課後の廊下に人類の最大欲求を一言で表した言葉が三つ呟かれた。
意味はない。六時間目終了のチャイムとほぼ同時に教室を出た俺と、同じく別々の教室から真っ先に出てきた男子二人が合流していつものように挨拶しただけだ。
高校一年。ゴールデンウィークを間近に控えた穏やかな春の昼下がりである。
自然と昇降口へと足を向ける俺を含めた三人は――
「お前ら帰ったらなにする?」
「オフトゥン」
「だよな」
どうでもいい話をどうでもいい顔をしながらだべり合い、三人並んで他人が呼び止めにくい空気を作り出しつつ真っ直ぐ帰路を歩く。
俺こと伊巻拓を真ん中に、教室側が割とイケメンだけどやる気なさそうな顔をした男子――伊巻彰。
窓側が緩い雰囲気を漂わせるやる気なさそうな顔をした男子――伊巻瑠衣。
苗字は同じだが家族ではなく、同年代の親戚たちだ。性格も似たり寄ったりで気が合うっちゃ合う。俺が言うのもなんだが、全員が伊巻一族によくある『帰りたい病』に罹患した普通の奴からすると残念な連中だ。
俺たちは基本的にいつもつるんでいるが、帰り道にゲーセンに寄ったりとかそういう青春はしない。だって誰もが一度は『寄り道せず真っ直ぐ帰れ』ってママに習うだろ? 習ったことを実践する俺たちはなんて優等生。
「そういえば二人とも、実力テストの結果どうだった?」
下駄箱で靴を履き替えていると、彰が次のどうでもいい話題を持ちかけてきた。
「お前から言えよ、彰」
「五教科で四九八点」
「は?」
「マジか、俺は四七五しか取れなかった」
「は?」
「まあ、拓も補習ラインは余裕で超えてるからいいじゃないか。確か平均未満は問答無用で補習だったよな。そんなの糞くらえだ」
「まーな。補習なんて帰りたくなるようなこと誰が受けるかっての」
「待って、そんな話聞いてない!?」
酷く焦った声が窓側からかけられた。
「「で、瑠衣は?」」
「……」
俺と彰の視線が青い顔をして冷や汗を大量に流している瑠衣に注がれる。『伊巻』たるもの障害なくお家に帰るためにテストでは高得点を取らねばならないからな。瑠衣の姉ちゃんなんか小学校から今まで一〇〇点以上しか取ったことがない奇才だし、俺の一個下にいる双子のシスターズなんて示し合わせたかのように同じ高得点を取るぞ。
だが、瑠衣は――
「………………………………二五六点です」
ものっすごく言いにくそうに視線を泳がせて答えた瑠衣に、俺と彰は顔を見合わせた。
「ねえ、拓、今回の実力テスト五教科の平均って」
「二六八点だな。瑠衣、まあ、補習がんばれ」
「お前らが平均上げたせいだろぉおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?」
悲痛な絶叫が昇降口に響き渡る。やめろよ目立つだろ。
そう、俺ら同年代の『伊巻親族』の中で瑠衣だけが普通にダメな子だった。
「瑠衣、お前本当に『伊巻』か?」
「いつも言ってるけどオフトゥンするための努力が足りてないんだよ」
「いーよ俺はどうせ不出来だよ!? どうせ『伊巻』の出来損ないだよ!? あーもう早く帰ってオフトゥンの中に埋もれたいッ!?」
帰りたい病にはしっかり罹患しているからこいつも間違いなく『伊巻』だな。
「ていうかどうやったらそんなに要領よくできるんだよ!? 教えてくれよ!? お前らなら今からでも補習回避できるだろ!?」
「「え? やだ。帰りたくなる」」
「二人揃ってコンチクショー!?」
いくら俺や彰でも決まってしまったものは覆せないぞ。そうなったらもう諦めていかに早く補習を終わらせるかを考えた方がいい。
「薄情者め!」
「なら瑠衣、例えば俺が補修になってお前に勉強教えてって頼んだらどうする?」
「帰る」
「な?」
「ていうか拓が瑠衣から勉強教わるって状況が想像できない」
そうやってくっちゃべってる間に校門を抜けた。
すると――ぶわっと。
殴られるような強風が俺たちの帰宅を阻むように吹きつけた。
「風強くね?」
風ってやつはどうしていつも向かい風なんだろうね。たまには追い風で俺の帰宅を手伝ってくれてもいいだろうに。
「なんか雲行きも怪しくなってきたな」
彰が遠くの空を見上げながら言う。確かに向こうの方はちょっと暗いな。もうすぐ一雨来そうだ。
「天気が悪いならもう早く帰るしかないよな」
俺たちの総意を代弁したくれた瑠衣だったが、そこでもう一つ強い風が吹いて飛んできた新聞紙が顔面を直撃していた。漫画みたいだ。笑える。
そこから先は――自然と、足が速くなる。一秒でも早く帰りたい。俺も瑠衣も彰も気持ちは同じで、さっきまでわいわい喋っていたのが嘘みたいに無言。それぞれの家の方向に別れた時だけ挨拶して、もはやダッシュにまで至った帰宅速度で我が家へ。
邪魔だ向かい風。そこをどけ。俺が帰る!
zzz
俺の家には母さんが定めた絶対的なルールが一つある。
両親共働きであるため、一番早く家に帰った者がその日の家事全般をやるっていうルールだ。帰りたい病を上手いこと利用した巧妙な策である。
家事全般は正直やりたくないが、だからと言って帰らない理由にはならない。帰れるのに帰らないって伊巻の名が廃るってもんですよ。いや別に廃りはしないか。寧ろ帰りまくってる方が世間様から見ると廃っているだろうね。
まあとりあえず、家事があろうがなかろうが帰りたい。なんなら家事を理由に帰ってもいいまである。
父さんは無能な奴にも容赦なく鬼のように仕事が回って来る会社に勤めているからまず遅くなる。それでも二十二時には必ず帰って来る辺り要領よくやってるんだろうね。俺は絶対そんな会社には入りません。
母さんはほとんど定時上がりだが、会社がちょっと離れているためだいたいいつも十九時頃だ。
だから必然的に俺か、一個下の妹たちが先に帰ることになるんだが……。
今日は、俺の方が早かったみたいだな。チッ。
専業主婦やってる瑠衣んちの母上様が羨ましいよ。家にいてくれる存在としても、将来なりたい職業としても。
「洗濯物取り込んで、掃除して、それから晩飯の準備か。だがその前に」
俺は二階にある自分の部屋にカバンを置き、制服から部屋着に着替え――とう!
いつもふかふか、あなたのお傍に佇むオフトゥン。
堪能させていただきます! オフトゥン(元素記号でOt)の摂取は家事をやる前に絶対必要なことです!
わーい、ふかふかだぁ。
うふふ、えへへ、このこのぅ♪
疲れが……剥がれるぅ!!
「さて、やるか」
まずは洗濯物の取り込みだ。
母さんが仕事に行く前に二階のベランダに干した諸々を片づける。母さんや妹たちもいるから女性物の下着なんてもんもあるが、そこは慣れたものだ。俺は身内に欲情するような難儀な性癖じゃないし、母さんも妹たちも俺に畳まれて気にする性格じゃない。寧ろ放置すれば俺のオフトゥンが一枚減る。マジ勘弁。
次に掃除だ。
物置から掃除機を引っ張り出してコードを出し、コンセントに挿してスイッチオン! 一階と二階の各部屋に溜まった塵芥を入念に吸い上げる。なお親と妹たちの部屋だけはやらない。自分の部屋は自分でやれがうちのルールだ。あ、絶対的ルール二つあった。
それから晩飯の支度。
パパッと済ませられる簡単な物でいいか――とできないのが母上の狡猾なところ。作るメニューが既にメモ書きされて冷蔵庫に貼ってやがるんだ。基本的に母さんが食べたいものになってるからホントずるい。
我が家の主導権は全て母さんに握られている。俺たち伊巻の帰りたい病患者は要領がいいはずなのに、それを易々と上回って巧みに操られ働かされる。父さんなんで結婚しちゃったの? 弱みでも握られてたの?
「肉じゃが……か」
今日は割と簡単なメニューで助かった。時々ローストビーフとか牛肉のパイ包みとか難易度高い料理を要求されるんだ。餃子とかも作業がめんどくさ過ぎて帰りたい。
おかげで女子力高くなっちまったよ。専業主夫は憧れですが、俺は結婚なんてしたくないから叶わぬ夢でござる。
伊巻の血に刻まれた帰りたいは俺の代で断ち切ってくれる!
なんて脳内でテキトーにカッコつけていると――
「ただいまー」
「やっと帰れたー。ホームルーム長引きすぎー」
玄関の方から二つの帰宅を告げる声が聞こえた。妹たちが帰ってきたようだな。ホームルームが長引いたなんてご愁傷様なことです。内容にもよるが、アレはいくら個人の要領がよくてもどうにもならない天災だ。俺だって諦める。
「やりぃ、兄貴先に帰ってる!」
「うらやまー。でもこれで心置きなくオフトゥンできるね! 兄貴ざまあ!」
ひょこりと台所を覗いたのは、二つの同じ顔。小柄でツインテールに中学の制服と、体格髪型服装まで完璧なまでに相似したこの双子が俺の妹たちだ。声も性格も似てるとなれば家族の俺ですら稀によく間違えてしまう。
見分けるわかりやすい特徴は――ない。
伊巻郷と伊巻静。
意図的に同じ姿になっているのには意味があるらしい。なんでも、片方が帰ってればもう片方も帰ってる気分になれるんだとか。もちろん両方帰りたいに決まってるんだろうが、どうしてもそれが無理な時に片方が残り片方が帰る。それでオフトゥンしたい欲求が満たされる。
しかもこいつらどういうわけか記憶も共有してんじゃねえかってくらい一致するんだよなぁ。影分身かよ。
「兄貴、今日のごはんは?」
「人参、玉ねぎ、ジャガイモにお肉……カレーかな?」
野菜を切ってる俺の手元を左右から挟んで覗き込むシスターズ。邪魔だな帰りたいなぁって思いつつ俺は冷蔵庫のメモ用紙を親指で示す。
「肉じゃがだってさ」
「うわ、材料切って煮込むだけって簡単うらやま! あたしらなんてこの前北京ダックだったんだけど!」
「ダックなんて近所のスーパーに売ってないって超帰りたかった!」
「あれホントよく作れたよな。お前らどこまで行ってきたんだよ」
「知ったら帰りたくなるよ?」
「じゃあ聞かねえ」
まったく北京ダック作れる中学生ってどんなだよ。まあ、俺も小学生の時にピザを生地から作らされたことあったけどな。父さんなんて日曜大工でそのピザ焼くための窯を庭に建てさせられてたっけ。思い出しただけで涙が出る。ピザ、美味しくできました。
過去の苦労を振り返っていると、いつの間にか妹たちが消えていた。
振り向けば「ソファー♪」「もふもふ♪」とリビングのソファーにダイブしていた。ソファーっていいよね。オフトゥン並みにふかふかしてるよね。でも君らせめて制服を着替えたらどうかね?
ああ、だらけ切った顔でゴロゴロしながらテレビのスイッチを入れてるよ。間違いなく俺の妹たちだ。伊巻の血筋だ。くっそ俺もぐーたらしたいです! 切に!
『大西洋北部で発生した季節外れのハリケーン・カッタリーナが突如進路を変え、アメリカ大陸を横断。勢力を拡大しながら日本列島へと接近しています。この異常事態に専門家は――』
テレビは天気予報……というかニュースをやっていた。
「ああ、だから今日風が強かったんだ」
「直撃して休校にならないかなー」
その程度の感想で妹たちはチャンネルを変え始めた。普通なら学校が休みになる可能性があるなら飛び跳ねて喜びそうなもんだが、俺たちみたいな熟練された帰りたい病患者はとっくに悟っているんだ。
「異常事態だろうが台風的なものが直撃するなんてありえん。あれはあたるあたる詐欺だからな。間違いなく直前で神回避しやがるんだ」
「だよねー」
「予想進路図とかあてにならないもんねー」
掠った程度の影響じゃ学校は休めない。どうせ今回も一晩寝たら青空が待ってるんでしょ? 俺知ってます。
まあ、期待はせずに肉じゃがをさっさと作ってしま――
「……あっ」
「ん? どうしたの兄貴?」
「Gでも出た?」
嫌な顔をする俺に妹たちが訊いてくる。残念ながら、黒光りするカサカサした虫けらごときが出たところで俺は無言でスリッパする。超巨大で大群で襲ってきたなら悲鳴上げるだろうけどね。そんなGがいてたまるか。
面倒な声を出した理由はこれだ。
「醤油がない……」
ペットボトルには数滴分しか残ってなかったんだ。これじゃ肉じゃがには足りんぞ。
「醤油なしの肉じゃがでいいか」
隠し味は醤油です、で通用しないかな?
「兄貴、お母さんに殺されたいの?」
「醤油抜き肉じゃがとかオフトゥンが三枚は減るよ?」
しないよね。ちくせう。
「買ってくるしかないか……」
外を見る。
オゥ、雨降ってきてるじゃなーい。風も窓がガッタガタするくらい強くなってますよ奥さん。近くのコンビニまで歩くのたりぃ。帰りたい。
「あ、兄貴、コンビニ行くならアイス買ってきて」
「あたしハーゲンダーツのストロベリー」
「あたしはハイパーカップのバニラ」
「ここぞとばかりに注文しやがって……」
俺も妹たちが買い出しに行く時は遠慮なく頼んでるから人のこと言えませんがね!
渋々と一旦火を止めて調理を中断。財布を持って玄関に行き、傘立てから自分の傘を抜く。ハリケーンさんもう神回避してくれてもいいんですよ?
「そだ、兄貴ちょっと」
玄関の扉を開けようとしたら、思い出したように妹たちが呼び止めてきた。
「追加注文か?」
「いや、なんか最近、夜に『鬼』が出るって噂だよ」
「クラスの子が見たって言ってた」
「『鬼』だぁ?」
なんじゃそら――と言いたいところだが、頭から否定できないのが『伊巻』の困ったところなんだ。
いや別に鬼とか妖怪とか今まで見たことありませんよ? でも『伊巻』の血族は……特に男に限って若い頃に不思議な体験をすることが多いらしい。
父さん曰く、戦国時代にタイムスリップして信長の腹心として桶狭間を勝利に導いたとか。
爺ちゃん曰く、日本の神々と北欧の神々が勃発させた第二次最終戦争に巻き込まれたとか。
別に信じてるわけじゃない。爺ちゃんとか帰る家を壊されて神々ぶん殴って戦争止めたとか言ってたから絶対嘘だ。ありえない。
だが、その与太話にはどういうわけか説得力があった。
少しでも真実が混じっているのなら、もしかすると『鬼』くらいいるんじゃないかって俺は思う。
「冗談か見間違いかと思うけど」
「一応気をつけてね、兄貴」
「やめろよフラグ建てんな!?」
もし出会ったら全力で帰ろう。
死んだふりはダメ。絶対。
zzz
『ハリケーン・カッタリーナについての続報です。勢力を増し、太平洋を横断していたハリケーン・カッタリーナですが……突如、軌道上から消失し、日本上空へと出現しました。まるでワープでもしたかのような移動に専門家も困惑し――』
やったら雨風が暴力的だと思ったら、近所の電気屋のテレビに映っていたニュースでそんなことを言っていた。
「ハリケーンがワープってどういうこと?」
実は俺ってば今、超自然現象を体験してるんじゃね? 風で傘の骨が呆気なくひん曲がるし、横殴りに撃ちつけてくる雨が痛いのなんの帰りたい。
もう醤油なくてよくね? これじゃ電車とか全面停止して母さんも父さんも帰れないだろ。ああ、父さんの絶望で真っ白に放心した顔が目に浮かぶよ。俺も学校に残ってたらたぶん死んでいた。
「でもコンビニ着いちまった。どうせならもっと早くワープしてくれよ、ハリケーンさんよ」
もう使い物にならなくなった傘を畳んで傘立てに挿――そうとしてボロボロになりすぎて挿さらなかった。しょうがないからコンビニの壁に立てかけておく。吹っ飛びそうだけど。
うわ、けっこうびしょ濡れだ。このまま店内に入るのは気が引けて帰りたくなります。
「さっさと醤油とアイスだけ買って帰るべ」
俺はげんなりしつつ調味料の棚に向か――
「……なんだあれ?」
雑誌コーナーの前に四人の男女が屯っていた。
別に他の客がいたところで普通は気になんてしないんだが、そいつらはちょっと変な格好をしてたんだ。神様っぽい白装束や天使っぽい翼や輪っかを装着している。コスプレってやつかな?
「いやいやいやぁ、あのバグ・ハリケーンちゃんやっぱりこぉーの街に来ちゃいましたねぇー♪ さ・す・が、我が弟子のヘロイアです。世界を移動する術を使っただけでバグって季節外れのハリケーンを生み出し、まさか我々の目的地に転移させてしまうとは♪ ギャハハハハ!」
頭に黒い茨のようなものを巻きつけた半裸の男が、窓から嵐に晒される外を眺めつつ愉快そうに爆笑した。
「酷いですお師匠サマ!? 私これでも頑張ったんですよ!?」
涙目で抗議するのは、『絶世』をつけてもいいくらいの美少女だな。長い黒髪に金色の瞳。背中には紫色の翼をつけて、頭の上には金の輪っかが浮かんでいる。なんのキャラかわからん。俺の知らないアニメかゲームだろうね。興味ないです。
「のう、アダムよ。お主の弟子どうなっとんの? いくら今時の新神がゆとりでアレとはいえ、移動するだけでこれはちょっと……ないんじゃない?」
一歩引いた位置からグラビア雑誌を開きつつそう言ったのは、燦然と輝く光の輪っかに白装束といった格好の老人だった。いや、あのサンタみたいな白い髭は付け髭で、老けて見えるのも手の込んだメイクかもしれん。
「ウラヌス先生も酷い!?」
愕然と神様っぽいジジイを見る黒髪天使ちゃんは涙目だった。すると、最後の一人――若葉色の髪をポニーテールに結った、やっぱり天使っぽい白い翼と輪っかをつけた少女がその黒髪天使ちゃんに呆れたような視線を向けた。こっちもハッとするほどの美少女だな。
「ヘロイア、どうでもいいけどこのハリケーン早くなんとかしなさいよ。あたしたちの目的に支障出まくりなのよ」
「ううぅ、ラグエラちゃんも厳しいですぅ」
なんだか風紀委員とかクラス委員みたいな雰囲気の緑髪天使ちゃんに怒られて、黒髪天使ちゃんはがっくりと肩を落としているな。
うん、なんだこいつら? まるでこのハリケーンが自分たちの仕業みたいに言ってるけど……そういうのはイベント会場でやってください。
「おやおやぁ、バグ修正をこのポンコツ・ザ・ヘロイアにやらせちゃう?」
「誰がポンコツですか!?」
「ウラヌス先生のお弟子さーん、あ・な・た、私の弟子を舐めてますね?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「ヘロイアさんや、お前ならハリケーンをどうやって消す?」
「ほえ? えーと、ハリケーンはなんかぐるぐると広大な範囲の大気が集まってるので、それを一気にこう……解放する?」
「それ大爆発するやつじゃないの!? もうアダム先生がなんとかしてくださいよ!?」
「こぉーんな面白い状況を私が直せと? オーケーオーケー、断りまーす! ていうか私じゃ無理でぇーす! ギャハハハ! こりゃ補佐官の任命が急務だねぇ♪」
「仕方ないの。風を司る儂が後でどうにかしておくわい。はぁ、仕事終わったら行きたい店があったのに……」
「お師匠サマ、私の補佐官の人間さんってもう決まってるんですよね?」
「アダム先生の性格だと嫌がられそうですね」
「おっと、それは困る。じゃあ生徒に人気のヘカテー先生っぽい感じに対応してだまくらかすとしますかね」
「お主がやっても胡散臭いだけだと思うがの」
……。
…………。
………………。
よし、帰ろう。
いろいろツッコミたいことはあるけれど、物陰からガッツリ聞き耳立てちゃってたけれど、だからこそ関わっちゃダメだと俺思うの。
醤油と、アイスと、ついでにポテチもゲット。
それらをレジに持っていって精算し、いつの間にか消えていたコスプレ四人組に首を傾げながらも俺は傘を回収して帰路につくのだった。
これ以上、ハリケーンがヤバイことになる前に帰ろう。
帰ったら風呂。そしてオフトゥンだ!
zzz
「うえっぷ!?」
暴風雨は止まるところを知らない。横殴りどころか、この雨もはや地面と水平に降ってませんか? 傘が使い物にならんから顔面直撃で超痛い帰りたい。ちょっと飲んだぁ……帰りたい。
コンビニから俺んちまで直線距離で約五百メートルなんだが、どっちの方向に歩いても向かい風っていう意味わからん嵐のせいで十倍は遠く感じるよ。
大きい通りはダメだ。多少遠回りになっても、密集した建物が風除けになってくれる裏路地を通って帰ろう。急がば回れってやつだな。
ほら見ろ、裏路地だと幾分かマシに――
グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
「え?」
どこからともなく、でもかなり近くから、獣のような咆哮が路地に響いた。
「雷……じゃないよな?」
俺は立ち止まって周囲を見回す。今のは明らかに生物の鳴き声だった。野良犬が喧嘩してるだけならまだいいが、犬が吠えたようにも聞こえない。
――いや、なんか最近、夜に『鬼』が出るって噂だよ。
――クラスの子が見たって言ってた。
妹たちの言葉が脳裏を過る。
いや、まさかな。流石にそんな、漫画みたいにフラグ回収されませんて旦那。
「やっぱり大通りから帰るか……?」
嫌な予感がヒシヒシとしてくる。このまま裏路地を進むと後戻りできないなにかが待っているような気がする。
そうなったら間違いなく――帰れない。
どころか、この世とさよならするまでありそうだ。オフトゥン大好きな俺でも永眠はしたくないよ。棺桶はオフトゥンに入りますか? いいえ入りません。
グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
「いっ!?」
ち、近いぞ。
やっぱり幻聴でも聞き間違いでもない。低く響く唸り。巨大ななにかすぐそこにいる。
たぶん、そこの角の向こうだ。
「……(ごくり)」
唾を飲む。今すぐ回れ右したい欲求があるのに、俺の足は角へと音を立てず歩いて行く。だって気になるだろ? ちょっと、ちょっと覗くだけだから! なんかいたら速攻で逃げるから!
俺は路地の角から少しだけ顔を出し――
「――ッ!?」
声まで出さなかったことは我ながらよく我慢したと褒めてやりたい。
そこにはドス黒い靄を纏った、全長が軽く三メートルは超える人型のナニカがいた。蹲っているようだが、なにをしてんのかここからじゃ暗くてよくわからん。
でも――ムシャ。ムシャ。
咀嚼してるような音が聞こえるんですけど。あと気のせいか、この辺り一帯がどうも鉄臭い。
怪物の足元にはどろっとした黒い液体が……
「……」
それ以上は、見ていられなかった。
明らかな非常識。疑いようのない非日常。
見間違いなんかじゃない。あるんじゃないか。あったらすごいな。――そんな風に思っていた世界の入口がそこに存在していた。
このままさっき見た黒髪天使ちゃんみたいな美少女が空から降って来て、怪物を一瞬で倒して、俺をそっちの世界に引きずり込むバトル漫画みたいな展開に憧れはある。
しかしだ。実際に目の当たりにすると憧れなんて消し飛んだね。そういうのはフィクションだから楽しめるんだってことを痛感したよ。
だから逃げる。
俺は帰る。
幸い、怪物が俺に気づいた様子はなく。
あの恐ろしい咆哮も、それから聞くことはなかった。
zzz
家に帰った俺は、びしょ濡れの体を拭いただけで風呂にも入らずベッドにダイブした。
「ないわ。アレはないわ」
見なかったことにしたのは正解だったな。アレ以上踏み込んでたら確実にもう二度とオフトゥンできない体にされちゃってたよ。
ああ、オフトゥンは癒し。
俺の心の癒し。
「兄貴ぃ、お母さんたちやっぱり帰れそうにないって」
「だからもうご飯食べよ? ていうか作りかけのまま止まってるんだけど」
ノックもせず部屋に入って来てゆっさゆっさ俺を揺さぶる空腹シスターズがいなければ。
「ええい! この嵐の中頑張ったお兄ちゃんをもっと労われ妹たちよ! 具体的にはあと三十分オフトゥンを補充させろ!」
こいつら、俺の気持ちを痛いほどわかってるくせに自分優先するところがやっぱり伊巻さんちのお子さんだよ。
「なにかあったの?」
「鬼でも出た?」
ただ妹たちは感も鋭い。俺がいつもと比べて様子が変だったことにも気づいたんだ。だからこうやって様子を見に来てくれたのかな? わざわざありがとう。
「アレが鬼なら危うく異能バトルの住人になってたよ」
フラグを建築したのもこいつらだったことを思い出しつつ、俺はオフトゥンから這い出て一つ伸びをした。
「兄貴、もしかしてそろそろタイムスリップとかするんじゃ?」
「神様の戦争に巻き込まれたりして」
冗談半分、不安半分で郷と静がそんなことを言ってくる。父さんや爺ちゃんみたいにってか? アレはどうせいろいろ話を盛ってるんだよ。
「んなことあってたまるか。もし異世界にでも飛ばされたら勇者になって無双してやるよ」
「絶対無理。どんなチート能力に目覚めても兄貴はどうせ帰りたい」
「ヒロインや仲間が苦労するストーリーしか見えない」
悔しいけど俺もそう思う。
「さて、肉じゃが作りますかね」
あり得ない話はそこまでにしよう。裏路地で見た怪物も、そういう世界があったとしても、俺には関係のないことだ。
「そうこなくっちゃ。もうお腹ペコペコ」
「ポテチだけじゃ足りないとこだった」
「ちょっと待ってそのポテチ俺の夜食!?」
「アイスと一緒に袋に入れたまま置いてた兄貴が悪い」
「どこにも名前書いてなかったから食べられても文句は言えないよ。私たち悪くない」
「くっそ、だからって勝手に食うなよ」
確かにあの時はポテチなんて気にしてる余裕はなかった。一刻も早くオフトゥンしたかったから仕方ないね。
「コンソメもいいけど次はのり塩をお願いします」
「九州しょうゆも捨てがたいです」
「お前ら肉じゃが肉抜きにすっぞオラァアッ!!」
拳を振り上げると妹たちはすたこらと部屋から逃げていった。踵を返すタイミングから足や手の動きまで完璧に同じだからホントどうなってんの?
Trrrrrn! Trrrrrn! Trrrrrn!
俺も部屋を出ようとしたところで携帯が着信のメロディを奏でた。まあ、メロディって言ってもなんにも設定してないから無機質な電話の音だけどな。
「瑠衣から? 珍しいな」
俺に電話をかけて来るとしたら身内だけだから不思議じゃないけど……なんか思ってて悲しくなってくるな。
「はいはい、もしもし俺ですが?」
『あっ! よかった、拓はちゃんと繋がった!』
なんだ? 瑠衣の声はどことなく慌ててるな。それに俺が出たことでちょっと安心もした感じだ。面倒事の予感がします。
「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためもう帰っていいですか?」
『そういう冗談はいいから! とにかく聞け!』
どうやらふざけている場合じゃないっぽいな。瑠衣は自分を落ち着かせるように短く呼吸をしてから、
『彰が、いなくなった!』
深刻な声で、そう告げた。
zzz
数分後、俺は再び嵐の中を走っていた。
正直、帰りたくて堪んねえんだけど、事は人命それも身内が関わっているとなると流石の俺ものんびり肉じゃがなんて作ってる場合じゃない。
なんでこんなことになったのか?
瑠衣との遣り取りをもう一度頭の中で確認する。
『彰がいなくなったって、どういうことだ?』
『詳しくは知らない。でもさっき、彰のお母さんから電話があったんだ。財布も携帯も靴も家にあるのに、彰の姿がどこにもないって』
『着の身着のまま外に出たとすると……やばいな。警察には?』
『連絡したけど、このハリケーンのせいで捜索は難しいって』
『瑠衣、今から出れるか? いつものコンビニで落ち合おう』
その後、俺んちにも彰の母さんから連絡があった。警察も動けない嵐の中を素人の俺らが捜索するなんて二次遭難を起こしそうだが、そうも言ってられないよな。
だって、俺は見たんだ。嵐なんかより確実に人の命を脅かす怪物の存在を。
あの時、あいつが食っていたものはもしかして……いや、考えるのはよそう。仮に怪物と遭遇していたとしても、彰なら上手く逃げるはずだ。
「なにやってんだよ、彰」
あの夜七時には就寝という羨ましい生活をしてる彰の奴が、普通こんな時間に出かけるわけがない。しかも外は非常識なハリケーンが絶賛大暴れ中なんだぞ。帰りたい病の俺たち『伊巻』がそんな中に靴も履かず飛び出すなんてよっぽどだ。
「これで実は家の中に隠れてましたってだけならぶん殴ってやる」
雨風に晒されることを気にしなければコンビニまで一瞬だった。
「拓!」
既に瑠衣は到着していた。あいつんちの方が近いからな。俺と同じく、傘もレインコートもなしで走ってきたんだろうね。びしょ濡れだ。
「コンビニには、いないよな」
「ああ、店員にも聞いたけど、彰らしき客は来てないって」
「実は俺もついさっき醤油を買いに来てたんだけど、彰はいなかったな。いたのは変なコスプレイヤーが四人だけだった」
怪しい連中だったが関係はないだろう。たとえ誘拐犯だったとしてもわざわざ家から攫うほど彰に価値はないぞ。あいつんち別に金持ちでもないしな。
「他に彰が行きそうな場所は……」
「自宅?」
「やばい、そこしか思いつかん」
ショッピングモールにある試用自由な布団専門店なら俺たちにとってプライスレスだが、わざわざ平日のこんな天候で行くもんじゃない。
と、瑠衣がなにか閃いた顔をする。
「学校は? 忘れ物を取りに行ったとか」
「この嵐の中、裸足で取りに戻らないといけないくらい大切なもんを俺たちが忘れると思うか?」
「…………そうだな。ないな」
サッと目を逸らした瑠衣にはそういう経験がありそうだったが、今は追及している場合じゃない。
「でも別の理由で学校に行った可能性はあるな。とりあえず行ってみるか」
このままコンビニの前で屯っていても見つかりはしない。だったら行くしかないだろ。早く見つけて安心して俺は帰りたいんだよ。
くそう、一回帰ったのにまた学校に戻るなんて……非常にストレスフルです。彰の野郎、どんなやんごとなき理由があろうと一発殴ってやる。
だが、彰をぶん殴る前に――俺たちがマズイことになりそうだった。
グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
あの咆哮が、聞こえちまったんだ。
「なん……だよ、アレ」
瑠衣にもしっかり見えてるらしいな。黒靄を纏った三メートル級の巨人が、俺たちの進路を阻むように大通りに仁王立ちしてやがる。
周囲に車通りも人通りもない。この暴力的な嵐だ。当たり前だろう。
いるのは俺たちと怪物だけ。
「『鬼』ってやつだ。たぶん」
「はは、なんだよそれ。拓の友達かなにか?」
「あんな帰らせてくれそうにないオトモダチはごめんだな」
嵐に怪物。非常識の連発だ。
なんなの? 世界の終わりなの?
グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
怪物がもう一度咆えると、その赤く不気味に輝く瞳を俺たちに向け――アスファルトを踏み砕く勢いの猛スピードで疾走してきた。
「ぎゃあ!? こっち来た!?」
「逃げるぞ瑠衣!? 捕まって食われたいなら残っていいけど!?」
「絶対嫌だよ!?」
俺と瑠衣も回れ右して全力でダッシュする。俺も瑠衣も運動神経は悪くない方だと思うが……ダメだな。怪物の方が速い。
当然だ。筋力はもちろん歩幅から違うんだからな。あっという間に追いつかれちまったよ。
振り上げられた拳を見るや、俺は叫んだ。
「横に飛べ!!」
爆音。
怪物が繰り出した巨腕の振り下ろしが、アスファルトの道路を陥没させたんだ。衝撃波に晒された俺たちは左右に吹っ飛んで壁に叩きつけられる。
痛ぇ……だが、紙一重だった。
あんなの、まともにくらったら一撃でミンチだぞ。
怪物が倒れたまま痛みに呻いている瑠衣の方へと歩いていく。
「冗談じゃない!」
俺はその辺に落ちていた石ころを拾って怪物の頭へと投擲した。グルルと唸って怪物は頭をさすり、首を捻って俺の方に目を向ける。
それでいい。俺はまだ動けるからな。
「こっちだデカブツ! 瑠衣、お前は今のうちに帰れ!」
背を向けて走る俺に、怪物も追従してくる。後ろから瑠衣の叫び声が聞こえたが、この方が二人とも助かる可能性は高いんだ。
だが嵐とはいえ、こんなに騒いでんのにどうして誰も出て来ないんだ?
まるでこの辺り一帯がゴーストタウンにでもなったかのように、俺たち以外の音が聞こえない。
やっぱり変な世界に迷い込んじまったのかな? あーくそ、帰りたい。
嘆きたいけどそんな余裕もなさそうだ。
「しつこいなチクショー!?」
掴みかかってきた掌を電話ボックスを盾にして回避する。わかってたけど簡単に握り潰しやがったよ。なんつー握力だ。
反撃は無理だ。逃げるしかない。
幸いにも相手はでかい。三メートルは優に超えてるからな。建物と建物の間の細い道に入れば追って来られないはずだ。
まあ、そう上手くはいかないわけで。
「はぁ!?」
怪物は巨体を黒い靄に変えて細道に侵入してきたんだ。
「そんなの有りかよ!?」
吸血鬼が自分自身を霧に変化させたりするって話は聞いたことあるが、それと同じような理屈なのか? いやどんな理屈だよ。ニンニクや十字架投げれば効くの?
グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
いや絶対効かねえよ! ニンニクや十字架で化け物を倒せるなら世の中の退魔師さんは苦労してねえって。退魔師さん、いるのか知らんけども。
いたら助けて帰らせて!
心の中で絶叫する俺に黒い靄が迫る。その一部が怪物の上半身に変化する。厳つい顔の鋭い牙の隙間から涎がポタポタと垂れてますよ。俺を超食うつもりだこいつ!?
さらに最悪なことに――行き止まりだ。
「やめとけって、な? 俺を食っても帰りたくなるだけだって!」
話なんて通じない。そんなことはわかっていても説得を試みようとするほど俺が追い詰められた――その時だった。
「ちょこまか動き回んじゃねえよ。クソ面倒だろうが」
どこからともなく響いた男の声と共に――パァン!! 平和な日本の街ならまず聞くことのない音が耳朶を打った。
すなわち、銃声。
「……は?」
俺を食おうとしていた怪物がピタリと静止する。その眉間に、穴が開いていた。
そこから黒い靄が血飛沫のように噴き出す。少し遅れてなにが起こったのか理解したらしい怪物が我武者羅に叫び狂う。
そして、俺の目の前で苦しげにもがき暴れていた怪物は――
グルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!
断末魔の叫びを残し、弾けるように霧散した。
「倒した……のか?」
誰が?
銃声一発で?
周りを見回すが、怪物を倒したと思われる声の主は見当たらなかった。人の気配すらない。もう帰ったのかな?
「どこの誰だか知らんけど、助かったよ」
聞こえてないだろうけれど、一応礼は言っておくことにした。
zzz
細い道を抜けて大通りに出る。
相変わらず酷い雨と風だな。でも怪物がいないだけ全然マシだ。
「彰の奴、どこでなにやってんのか知らねえけど無事なんだろうな?」
いやそもそも、あいつは本当に家を出たのか?
財布も携帯も置いて、靴も履いていない。
外はこんな大嵐。
そして、彰も厄介事に巻き込まれることに定評のある『伊巻』の男子だ。父さんや爺ちゃんが語ってた戯言が、全て本当だとしたら。
家にいたまま、どこか別の世界に飛ばされちまったんじゃないか?
だとすればいくら外を捜したところで意味はない。俺たちが干渉できるラインを越えちまっている以上、はっきり言ってどうしようもないぞ。
「一旦、帰ろう」
確信はない。
だけど、確信に似たなにかを俺は感じていた。
非日常ならもう見た。体験した。だからもうタイムスリップも神様の戦争も頭から否定できないな。
「ん? 雨と風が……」
気がつくと、さっきまであんなに俺のイタイケな体を面白おかしく嬲ってくれていた雨風が止んでいた。
空を見上げる。ハリケーン・なんとかによってできていた分厚い黒雲が、流れるように消えて行った。後には星々の瞬く夜空が浮かんでいるだけだ。
「……どういうこと?」
鬼が退治されたから異常気象も解決されたの? それともまたワープしちゃったの?
Trrrrrn! Trrrrrn! Trrrrrn!
電話……瑠衣からだ。
『やっと繋がった! 拓! 無事か!』
「まあ、なんとか。怪物も誰かが退治してくれたっぽい」
『今日はもう帰ろう? ハリケーンも急に消えたし、なんかヤバイって。彰ならきっとそのうち自分で帰ってくるだろ』
「そうだな。俺もそう考えてたところだ」
たとえ異世界に飛ばされていたとしても、彰なら上手くやるさ。父さんも爺ちゃんもいろんなご先祖様も、なんやかんやでちゃんと帰れてたわけだしな。
「じゃあ、また明日学校で」
『ああ、明日には彰もひょっこり顔出すかもね』
通話を切る。
今日ほど疲れた日はないな。いつもなら夜はオフトゥンの中で宿題やって漫画読んでゲームして寝るんだけど、今日はもうさっさとおやすみなさいするべ。
「帰ろう」
ドゴッ!!
鈍い音。
「へ?」
俺の視界がスロー再生で流れ始めた。
「なん……」
俺は、大通りに立っていた。
そう、気づかないうちに――大通りの、車道に。
さっきまで車一台も通ってなかったのに、嵐が止んだからか、大型トラックが猛スピードで突っ込んできていたんだ。
撥ねられたと理解した時には既に、俺の体は錐揉み回転しながら弾き飛んでいた。
不思議と痛みはない。これが即死ってやつなのだろうか?
でも実際こうして意識が客観的に物事を捉えているから、違うのかもしれん。
トラックは俺を撥ねたことに気づいているのかいないのか、そのままスピードを落とさず通り過ぎていった。オゥ、HIKINIGE。
ボロ屑のように歩道の隅に転がる俺。体がピクリとも動かない。
この意識も……だんだん……薄れて……
ふわり、と空から二人の人影が舞い降りてきた。
「あわわわわ!? ど、どうしましょうウラヌス師匠!? 無関係な人をバグで暴走しちゃったトラックで轢いてしまいました!?」
「……はぁ、お主も優等生に見えてゆとりでアレだったか。ハリケーンを消すのを手伝ってもらったら妙なバグを作りおってからに」
「わ、私が引き起こした事故です。どうか、この人間に慈悲を」
「天界には連れて行けぬぞ。この街から連れて行ける人間はヘロイアの新人補佐官である伊巻彰と、お主の新人補佐官になる琵久江耀の二名だけと決められておる」
「そこをなんとか!」
「しょうがない。儂が上に怒られるのも嫌だしの。こやつには彼の世界で例の書物を回収してもらうことにしよう。丁度、彼の世界は魂の均衡が崩れておったところだしの。儂のノルマもまだだしの」
「……なんか本音が聞こえましたが、やってくれるでしょうか?」
「なぁに、この世界の若者はちょっとチートな力を与えて異世界に放り投げればヒャッホーすると相場が決まっておる。儂に任せておけ」
「お、お願いします! ウラヌス師匠!」
なにやら慌ただしくしているようだが、俺には二人の会話は半分も聞き取れなかった。
耳がどんどん遠くなっていく。
目が霞んでもうほとんどなにも見えない。
嫌だなぁ。
死にたく、ねえなぁ……。
zzz
「――目覚めよ、勇者よ」
威厳に満ち満ちた年寄り臭い声に俺の意識は覚醒した。
「ハッ! 帰りたい!」
「え? 開口一番の台詞それでええの? ――じゃなくて、目覚めたようだな、勇者よ」
俺はどこまでも続く真っ白な世界で簡素な椅子に座らされていた。目の前には白装束を纏って頭の上に光輪を浮かべた爺さんが偉そうな椅子に座って偉そうにふんぞり返っている。
夢? じゃないな。
俺は……どうなったんだ?
「自分が死んだという記憶はあるか? お主にはこれから別の世界に転生してもらうことになるのだが」
「あ、そういうのいいんで元の世界に帰らせてください」
「へあ!?」
なんとなく理解した。これはアレだ。よくあるアレだ。よくあって堪るかだけども、ネットで小説を漁ればポコポコ出て来るタイプの展開だ。
これが現実だとすれば……なるほど、あーいう異世界転生物の起源って作者の妄想ってわけじゃなかったんだな。一回死んで、実際にこういう体験をしたから書けたノンフィクションだったんだ。
「いや、それはちょっと困るというか」
「あんたが困ろうが知ったことじゃないんで、とっとと元の世界に帰しやがれ馬鹿野郎」
「お主、儂こう見えても神なんだけど?」
俺の帰宅を阻むなら神だろうと殴りつけてやる所存です。
ん? 神? そういえば、こいつの格好と顔、どっかで見たような……
「あーっ! あんたあの時コンビニにいたコスプレジジイ!?」
「コスプ……違わい馬鹿者! 儂は本物だぞ! 本物の神だぞ! もっと敬わんかい!」
生憎と『伊巻』は無神教なもんで敬うべき神様なんていねえんだよ。寧ろ爺ちゃんの世代から神は敵だったまである。
「てかお前、俺が死ぬ直前にも現れてたよな? 彰の名前も聞こえたぞ。あいつになにしやがった?」
「ショウ? ああ、そうか、伊巻彰はお主の身内か。だったら安心せい。今頃は天界にて丁重に持て成されておる頃だ」
やっぱりこいつらが攫いやがったのか。どういう理由かは知らないが、神様って奴は迷惑なことしかしねえんだな。
「まあいい。それならそれであいつは自分で帰るだろ」
とにかく、彰が無事ならそれでいい。あいつは俺より優秀だからな。神隠しに遭ってもさくっと解決して勝手に帰るはずだ。
問題は、俺の方か。
「お主にも役目があっての。これからとある世界に行ってもらいたいのだ。無論、タダでとは言わん。お主に特別な力を授けよう」
神のジジイが持っていた杖の先端を俺に向ける。
と――
「うっ……なんだ、これ」
力、としか言い表せないなにかが俺の頭の中に入ってくる。
頭痛。頭が……割れる……なんだよ、これ? 〈解析〉の魔眼ってどういう……いや、その説明も頭に直接流れ込んできやがる。
「どんな力が手に入るかはランダムではあるが、どれも使いこなせばかなり役立つ能力のはずだぞ」
腹立つことに神のジジイがドヤ顔で俺を見下した。殴りたい、この笑顔。
「か、勝手に授けるな! 俺は帰るっつってんだろ!」
頭痛が弱まってきたから俺は椅子から立ち上がった。それから神のジジイに背を向けて歩き始める。
「待て待て待て!? どこへ行く気だ!?」
「なんかこっちの方に歩いて行けば帰れそうな気がする」
「いやいやいや帰れませんから!? ここは天界と他世界の狭間になるから!? 儂の転移術以外でどこかに行くことできないから!?」
「へぇ~、じゃあなんでそんなに慌ててるんだ?」
「あ、ああああ.慌ててなんておらんよ? 超平常心よ儂? 別にそっちにお主の世界に続く転移術がまだ残っておるとかそんなことはないぞ?」
「そうか」
「そうそう」
「わかった。よくわかった」
「う、うむ。わかってくれたか」
「ああ、でも異世界とやらに行く前に、ちょっとこの世界が珍しいから探検してきます」
「やめぇーーーーーーい!?」
歩みを止めない俺の腰にジジイが抱き着いてきた。やめろよ気持ち悪いな帰りたい!?
「おいこら放せよクソジジイ!? 俺は帰るんだ!? てめえの言いなりになって堪るかよ!?」
俺はジジイを振り払う。突き飛ばされたジジイは悔しそうに歯噛みしつつ、
「ぐぬぬ、こうなったら仕方あるまい」
杖の尻でコツンと床を小突いた。
すると、俺の足元に幾何学的な模様の円陣が広がった。魔法陣ってやつか。なんだ? 足が沈んで……
「あ、てめ、卑怯だぞそれでも神か!?」
「ハッハッハ! お主を異世界に飛ばしてしまえばこっちのもん――って、ちょい!? 儂の服掴むんじゃない!? 儂まで転移して、あ、あーーーーーッ!?」
死なば諸共。
こいつさえ道連れにしておけば、異世界に行っても帰れる手段になるからな。
勇者なんて面倒なことはごめんだ。
俺は、すぐに帰らせてもらうぞ。
[鬼は外、布団が内(伊巻瑠衣が主人公の作品)]
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作者:吾桜紫苑
[THE WORLD OF IF ~新神研修の相棒に選ばれてしまった俺は帰りたい~(伊巻彰が主人公の作品)]
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作者:模香 夜琲珈