3話:復活、町の名物温泉・1
◇
「や、やっと見えた」
ライアスは、衣服の至るところに小枝や葉っぱ、泥汚れを付けた姿でそう呟いた。あごの先から垂れ落ちる汗を、ぐいっと拭う。
彼の視線の先には、町の灯りがある。峠を越えた先の町の灯りが。
「ここまで来たら、さすがにもう追ってこないでしょ……」
妖魔の襲撃を受けてから日が沈み、一夜明け、今は朝日の昇る少し前の時間帯だ。
ライアスはあの後、夜を徹して峠道を走り続けた。
追い付かれたら今度こそおしまいだ、という恐怖が、彼の足を止めさせなかったのだ。
また、ウルスラが御守袋を光らせて(名付けてウルスライトですわ、と本人は言っていた)足元を照らしてくれたお陰で、ライアスは迷ったり道を踏み外したりせずにすんだ。
だからこそ、この時間にここまでたどり着けたのである。
ここまで来ればもう一息。
町まで逃げ込めば、さすがの妖魔もおいそれとは近寄ってこない。大きな町には瘴気祓いのできる巫女や神主が常駐していて、瘴気が濃くならないように定期的にお祓いをしてくれているので、濃い瘴気を好む妖魔たちは近寄りたがらないのだ。
「着く頃には町の人たちも起き出してるだろうから、町に入って、宿を借りて、とりあえず、……寝たい」
夜通し走ってここまで来たライアスは、とにかく早く安全なところで横になりたいと、疲れきった身体にムチを打って町を目指す。
気を抜くとその場に倒れ込んで寝てしまいそうだ。
『…………すー、すー』
そして、ライアスに付き合って夜通し起きていたうえ、絶えず灯りを照らしてくれていたウルスラは、少し前に気を抜いてしまい、寝てしまっていた。
今は少しずつ空が明るみはじめてきていて、灯りはなくても前は見える。だから、神様が寝ていても問題はない。
ない、のだが。
「……俺が寝て、夢の世界に入ったときもまだ寝てたら、」
ひとが必死になって走ってる耳元で、すやすやと寝息を立てられるのも堪ったものではなかった。
「神様のほっぺた、思いっきり引っ張ってやる……!」
ライアスは、神様に対してあまりにも不敬なことを考えながら、残りの道中を踏破し、太陽が顔を出す頃に町に入った。そして手近な安宿に入ると、倒れるようにして眠りについた。
その後ウルスラは、突然の頬の痛みに、悲鳴をあげて飛び起きることとなった――。
『うう、まだじんじんと痛いですわ……』
時間は進んでお昼過ぎ。ライアスは町中をぶらぶら歩いていた。
朝早くに宿を取り、そのまま泥のように寝て、目が覚めたのが少し前のこと。
正直まだ寝ていたかったのだが、空腹のせいで目が覚めてしまった。腹の虫が鳴っているままでは寝付けず、仕方なく宿の近くの適当なお店に行って一番安いもの(かけうどん)を食べた。それが、つい先程のことである。
『ライアス。あれだけ助けてあげたのに、この仕打ちはあんまりではありませんか?』
「俺がまだ頑張ってるってのに、ひとりだけ先に寝ちゃうほうがあんまりだと思うよ」
『だからって、あんなに強くつねらなくてもいいでしょう! あとが残ったらどうするつもりですか!』
ウルスラは両頬を擦りながら批難する。
ライアスは「大げさだなぁ」と言い返した。
「実際に引っ張ったわけじゃないのに、あとが残ったりするものなの?」
『それだけ痛かったということです!』
「そんなに強くやってないってば」
『そんなはずありませんわ!』
ライアスが夢の世界に入ったときには、ウルスラは自分の本来住む世界で机に突っ伏して寝ていたらしい。
なので、本来ならライアスから手出しは出来ないはずなのだが。
『実際につねられたのが御守袋でなかったら、絶対、頬がちぎれてました!』
「そんなわけないじゃん」
試しに御守袋を引っ張ってみると、なんとウルスラが悲鳴をあげて飛び起きたのである。
しばらくすると涙目のウルスラが夢の中に飛び込んできて、それはもう怒られた。腰まである長い青髪を振り乱して掴み掛かってきたので、そうとうご立腹だったのだろう。
どうやら痛覚や触覚も、御守袋を通じて伝わるらしい。
「というか神様、この御守りって見たり聞いたり以外もできるんだね」
『もちろんです。私の五官それぞれの、代用品としての機能を有していますわ』
「へぇー」とライアスは感心する。
「じゃあ、味も分かるの?」
『お供え、という形で御守袋の前に捧げてくれれば、食べた気になれます。御守袋を通して渡していただければ実際に食べることもできますわ』
「なるほど。ところで神様、その先に甘味処があるんだけど」
『えっ』
言われて見てみれば、確かに甘味処がある。
しかもなかなか繁盛しているらしく、店先で並ぶ者の姿も見えた。
ちなみに、ウルスラは甘いものが大好きである。
「確か、この町で昔からやってる老舗の甘味処で、上質のアンコを使った創作菓子を売りにしてるらしいよ。ぜんざいも大人気」
『……!』
「俺も前から興味があったんだけど、今、神様から怒られてる最中だし、あんなとこ寄ったらまずいよねぇ」
そこまで聞いたウルスラは、コホンと咳払いをすると、僅かに期待のこもった声音でライアスに尋ねた。
『ラ、ライアス。あの、私、先程のことに関しては、まだ許してはいないんですが』
「うん」
『それはそれとして、……甘いものでも食べたいとか、思いません?』
「いやぁ、思わないかな」
とたんにウルスラは泣きそうな声を出した。
『意地悪はやめてくださいまし!』
「そこは素直に、甘いもの食べたいから許します、ぐらい言いなよ、神様」
『う、うううー……!』
おそらく、内心で激しい葛藤があったのだろう。
しばらく唸り続けていたウルスラは、最後には絞り出すような声でライアスに告げた。
『ゆ、許しますから、甘いもの、食べましょう……』
「許してくれるなら仕方ない。せっかくだから何か注文してみよう」
『私、白玉ぜんざいがいいです』
「はいはい」
並んでる列に加わり、ライアスは店内に入っていく。
少し待って案内してもらった席に座ると、神様がご所望の白玉ぜんざいを注文する。
運ばれてきた品を見て、一人と一柱は仲良く器をのぞき込んだ。
「おお、これが」
『う、美しい……、ですわ』
椀の中には、餡と白玉で美しいコントラストが作られていた。この地方では、つぶあんを溶かした汁の中に餅や白玉を浮かべたものをぜんざいと呼ぶのだが、餡汁に浮かぶ小豆粒や白玉がキラキラと輝いて見える。
ライアスは少しだけドキドキしながら、一口すくって口に運んだ。
餡の甘さが口の中いっぱいに広がる。
甘さ控えめで上品な甘さ、というのとは対極の、これでもかといわんばかりにとにかく甘い。質のいい小豆をじっくりと煮込んでとにかく甘くしてあるようだ。
それでいて、飲み込んでしまえば甘さが後を引かず、次の一口を食べたくなる。
『あ、あの、ライアス、次は私にも……』
「…………」
ねだるウルスラを無視し、ライアスは次の一口を食べる。今度は白玉と一緒にだ。口に入れてみて、なるほど、とライアスは思った。
「一緒に食べるとより美味しい。甘さの配分をうまく調節してあるんだね。さすがは老舗の味」
『そんな格好つけた感想はいいですから、早く食べさせてくださいな!』
「まぁ待ってよ。これ一杯でさっきのおうどんが三杯食べられるんだから。ちゃんと味わわないともったいない」
そう言って、ゆっくり一口ずつ味わいながらぜんざいを食べていく。ライアスが一口食べるたび、ウルスラが悲しそうな声を出して御守袋の紐をくいくいと引っ張るが、ライアスは完全に無視している。
半分ほど食べたところで、ようやくライアスは、ウルスラに残りを譲ることにした。
御守袋の前に捧げると、待ちかねたウルスラがサッと受け取り、お椀がライアスの目の前から消えた。焦らされたせいで、実際に食べたくなったらしい。
ようやく食べることができて、ウルスラは、それはもう嬉しそうに唸った。
『はぁぁん……、これは、ほんとうに美味しいですね……!』
まことに幸せそうに、ほっぺたを押さえている。
ライアスからウルスラの表情は見えないが、どんな顔をしているかは手に取るように分かった。
一口食べるごとに蕩けきった声を出して喜ぶウルスラに、ライアスは「単純だなぁ」と呟いた。