2話:遭遇、峠道の凶獣・3
「ピィィイイイイイーーッ!?」
突然のことに、シカは半狂乱となって飛び上がった。前もまったく見えないまま、頭をぶんぶんと振り回して駆け、暴れている。近くの木々をなぎ倒してもお構いなしだ。
ライアスは、踏まれた両手が折れていないことを確かめながら、よろよろと起き上がった。
「い、今のは……?」
閉じたまぶた越しでも眩しいと感じるくらい、強い光だった。
いったい何がどうなったのか、ライアスには見当も付かなかった。
『や、やりましたわ、ライアス!』
ウルスラが、興奮した声を上げる。
『一か八かのフラッシュが成功しました!』
「ふ、ふら……?」
『先ほどの強い発光のことですわ! 私の力をグッと込めて、御守袋の聖印を光らせたんです!』
「神様、そんなこともできるの?」
『思い付きでやったらできました! さぁ、今のうちに逃げましょう! 早く早く!』
ウルスラに急かされながら、ライアスは立ち上がる。
道に戻ってみると、シカは暴れながらどこかに行ってしまっていた。近くには、姿が見えない。
「確かに、今のうちだ」
ライアスは、後ろを気にしながらも駆け出した。
次に見つかって押さえ込まれたら、今度こそ一巻の終わりだろう。そんなのは御免である。ライアスはまだ死にたくなかった。
息の切れないギリギリまで飛ばして、駆ける。駆ける。
こんな危険な峠道、さっさと抜けてしまいたかった。
息急き切って走るライアスに、ウルスラはエールを送る。
『ファイトファイト! ダッシュでゴー、ですわ!』
「はっ、はっ、はっ……!」
ライアスは、「意味は……!?」と問いたい気持ちをぐっと堪えて、ひたすらに走り続けた――。
ウルスラフラッシュ(仮)をまともに喰らったシカの妖魔は、手当たり次第近くの木々や岩肌に当たり散らしていた。
ウルスラの清めの力が込められた光は、妖魔にとっては少々刺激が強かったらしい。
視力がなかなか回復せず、目の奥の痛みがいつまでたっても取れないため、その痛みを紛らわせるためにシカは暴れ続けていた。
そんな、目の見えない妖魔であったが、視覚以外の五感は正常に働いていた。
半狂乱ではありながらも、走って逃げる餌の動きは、鋭敏な聴覚と嗅覚で捉え続けている。
餌がこの峠から逃げ切る前に回復できれば、今度こそ喰らい尽くしてやると、シカの妖魔はそのような事を考えていた。
そんな妖魔の元に、どこからともなく匂いが届く。
落ちる寸前まで熟れた果実のような、甘ったるい匂いだった。餌の臭いより強く、はっきりとしている。己の嗅覚を満たして埋め尽くしていくその匂いに、シカの意識は、次第にそちらに惹き付けられた。
シカは暴れるのをやめ、目の見えないまま、ふらふらと匂いをたどって移動を始める。
匂いの元に近付くにつれ、匂いは強くなっていく。この匂いの正体がなんなのか、シカは考えることもしなかった。そんなことよりも、匂いの元を見つけることのほうが大事だと思えた。
やがてシカは、匂いの元にたどり着いた。
ここまで近付くと、まったく嗅覚が利かなくなるほど、濃い匂いがただよっている。そしてそれは、美味しそうな匂いに思えてきた。
いまだ目の見えないシカは、匂いの元に噛みついた。
表面を噛みちぎり、中身を引き出して一口食べてみる。
味は、匂いと同じで甘ったるい。噛んだ食感は、動物のワタのようだった。これはなんだ、と思いながら飲み込む。
とたんに、ノドから胃にかけてが焼けるように熱くなり、頭がくらくらとしてくる。
シカは、酒に酔ったように足元がおぼつかなくなった。
「……食べた」
その様子を、木の上に隠れて見ている人間がいる。
まだ歳若い少年だ。少年は、自分の作った香袋に引き寄せられた妖魔が、香袋を食べるのを待っていたのだ。
「ベガ先生! 今です!」
そして、中身を食べて飲み込むのを確認したうえで、叫んだ。
その声に妖魔も反応するが、妖魔が動く間もなく、ひとつの影が妖魔に迫った。
「ッ!」
妖魔はとっさに頭を振り回し、迫る影を牽制する。
それ以上近付くなら自慢のツノで串刺しにするぞ、と。
だが、影は躊躇うことなく踏み込み、距離を詰める。
振り回されるツノの、まずは片方に狙いを付けて、両手を上下に広げた。右手が上、左手が下だ。五指を鉤爪状に曲げて、指先に力を込める。
獲物に噛み付く獣の牙のように、速く、鋭く。
広げた両手を閉じるようにして、ツノの根本に叩き付ける。
「――大噛付」
ガチン、と硬質な音が響いたと思うと、根本から折れたツノが、くるくると宙を舞った。
シカは、一瞬何が起きたのか理解できなかった。なによりも堅く、鋭いと信じていてた自慢のツノが、いとも容易く折られたことが信じられなかった。
「そっち側も貰うわよ?」
その動揺を見てとった影、――ベガ先生と呼ばれた妙齢の女は、二本目のツノも同じように叩き折った。生木を軽々と裂くはずのツノを、獣の牙に模した両手で噛み砕く。
シカは、怒りとも恐怖ともつかぬ感情を覚えた。
このまま戦えば間違いなく負ける。喉笛まで噛みちぎられてしまう。
野生の本能は闘争よりも逃走を選択し、シカは、脱兎のごとく逃げ出した。
「あらあら、逃げるのね」
ベガは、慌ててそれを追うことはしなかったが、しかし逃がすつもりもなかった。
すっ、と右手を前に突き出す。
「鎌鼬」
風の刃を打ち出す妖術でシカの脚を斬り付け転倒させる。
それからゆっくり距離を詰めて右手を振り上げると。
「唐竹割」
手刀で、のたうち回るシカの首をはねた。
そのままベガは、シカが完全に動かなくなるまでじっと見守り、そのあと自分の胸の谷間から小さな袋を取り出した。袋の中には特別な手順で精製された清めの塩が入っていて、ベガはシカの亡骸とその周囲に丁寧に塩を撒いていく。
塩を撒き終わると、今度は胸の谷間から煙草を取り出し、口にくわえた。指先に狐火を灯し、煙草に火を付けると煙を肺一杯に吸い込んで、吐き出した。
「……イナバぁ?」
二口、三口と煙を吸ってから、ベガは少年の名を呼んだ。彼女が切り落としたシカのツノを丈夫な布で包んで回収していた少年は、「なんでしょう、先生」と返す。
「依頼があったのは、あと何匹だったかしら?」
「小さいやつは一匹コイツが食べちゃいましたので、あと三匹ですね。大きいのが一匹、中ぐらいのが二匹です」
「そう。今日明日中には終わらせましょうか」
それだけ言うとベガは、煙草をくわえたまま森の奥へ向かって歩き出した。
「はい。ベガ先生」
包んだツノを背負子に入れたイナバは、忘れ物がないことを確認してからその後に続く。途中、ベガの捨てた吸い殻を拾って、灰皿代わりの細缶に入れた。
「ベガ先生、また吸い殻をポイ捨てしましたね?」
お行儀が悪いです、とイナバはいつも言っているのだが、それをベガが聞き入れたことはない。
「どうせイナバが拾うでしょ?」
「拾いますけど。それとこれとは、」
「それよりイナバ、――さっきのシカだけど」
ベガの声のトーンが微妙に変わったことを、イナバは敏感に察した。
「目潰しをされてたわね。ワタシたちが襲う前に」
「……そうですね。お陰で簡単にいきました」
「誰がやったと思う?」
「……おそらく、僕たちと同じ退魔師の誰か、とかではないでしょうか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どちらにせよ――」
振り返って、ニコリと笑うベガを見て、イナバは思わず背筋を伸ばす。
この笑顔はあれだ。さっきシカと戦ってたときに浮かべてた笑顔より、はるかに危ないやつだ。
「いずれ一度、アイサツしないとダメね?」
また悪い癖が出ている、とイナバは思った。