2話:遭遇、峠道の凶獣・1
◇
『ところでライアス。貴方はいったいどこに向かっているのですか?』
ライアスの失言から数日後。
なんだかんだで機嫌を直したウルスラが、気になっていたことをライアスに聞いた。自分のいるところ(神様の住まう世界の一角)から、御守袋を通じて声を届ける。
『ずっと西に向けて歩いているみたいですが、目的地はあるんですの? それとも、あてもなくぶらぶらとしているだけ?』
ライアスは小川で顔を洗いながらウルスラの声に耳を貸す。
現在は早朝。寝起きの頭は冷たい水でしゃきっとさせる。
「一応、目的地はあるよ。普段はあてもなくぶらぶらしてるけど、今はちょっと用事があるからさ」
『用事?』
使い古した手拭いで顔を拭く。それから思い立って、ライアスは履物を脱いで裁付袴の紐を緩め始めた。
「お父とお母のところに向かってるんだよ。たまには元気な顔も見せてやらないと、って思ってね」
『ほほう、ご両親に?』
「うん。生まれ故郷とはまたちょっと違うんだけど、俺が旅に出るまでは三人で暮らしてた町があって、今はそこに向かってる」
『……そうでしたか。って、何をごそごそされてますの?』
「いや、ついでに水浴びしようかなって」
上衣を脱いで袴を下ろすと、あっという間にふんどし一丁である。そしてふんどしにも手を掛けたところでウルスラが悲鳴を上げた。
『ひゃああっ!?』
「うん?」
『い、いきなり脱がないでくださいな!』
「なに、もしかして俺の姿も見えてるの?」
『み、見えているというか、見てしまったといいますか……!』
今、ウルスラは、依り代作りの真っ最中である。
手元を見て作業しながらライアスに話しかけていたわけだが、物音が気になってそちらに意識を向けたら話し相手がほぼ全裸になっていたのだ。それはもう驚く。
ちなみに、依り代はもう少しで完成するところだ。
あといくつか細かい細工をすれば使えるようになる。
「いくら俺でも水浴びぐらいはしたいんだけど」
『それは、分かりますが!』
「見ずにいることもできるんでしょ? ちょっと別のとこ向いててよ」
それだけ言うとライアスは、返事も待たずにふんどしを脱いだ。
ウルスラは慌てて手元に視線を戻す。耳には、ライアスがざぶざぶと小川に入る音が聞こえてくる。
目を逸らすことはできても、どうしても音は聞こえてくる。そして手は作業をしているので、耳をふさげない。
「うおおっ、やっぱり冷たいなぁ。でも、気持ちいいや」
腰の深さのところまで水に入ると、ライアスは持っていた手拭いで身体を洗い始めた。
『ううっ……』
ウルスラは、努めてライアスの姿を見ないようにしていたのだが、どうしても気になるのか、ちらちらと目を向けてしまう。
そのたびに慌てて目を逸らすということを繰り返しているうちに、「作業に集中できませんわ!」と叫んだ。細かい作業をしているのに、ライアスのせいで集中力が続かない。
「御守袋の力も、良し悪しだねー」
ライアスは他人事のように呟き、ざぶんと頭まで水に潜る。ぼさぼさに伸びた髪を水中で洗うためだ。わしゃわしゃと洗って水から頭を出すと、濡れた髪が顔に張り付いてきたので、犬のようにぶるぶると頭を振った。
「ぷはっ、」
ひとしきり身体を洗うと、髪をかき上げながら川から出る。
身体を拭いて服を着ようとしたが。
「……これも洗おっか」
ついでとばかりに服も洗い始めてしまった。それも、全裸のままで。
腰に手拭いだけ巻いて、ふんどしと上衣を水の中に突っ込むと、ごしごしと手もみで洗う。
『も、もういいですか?』
「まーだだよー」
『早く服を着てくださいまし』
「もーちょっとー」
しばらく洗うと、服はそこそこきれいになった。ただ、替えの服など持っていないので、洗った服をよく絞ってそのまま着ることにする。
歩いていればそのうち乾くだろう、とライアスは能天気に考えた。
「もういいよー」
『……ほんとに大丈夫でしょうね?』
そっと目を向けると、きちんと服を着ていた。
ウルスラはホッと一息ついた。
「さぁ、出発しゅっぱつ」
『では、頑張ってくださいましー』
荷袋を持って歩き出したのを見て、これで依り代作りに集中できますわ、と思ったウルスラだったが、ふと思い立ち、ライアスに一声かけた。
『その荷物、お預かりしましょうか?』
「え、どうやって?」
『御守袋の前に掲げてみてください』
「こう?」
荷袋を胸の前に持っていくライアス。
ウルスラはひょいっと手を伸ばすと、御守袋ごしに荷物を受け取った。
「うわ、荷物が一瞬でなくなった!?」
『ある程度までの大きさの物なら受け渡しができますの。盗られたり落としたりしないように、手荷物などは私が預かっておきますわ。また必要なときに言っていただければ、すぐにお渡しします』
「すごいなー。さすが神様」
『えへん、ですわ』
嬉しそうにお礼を言われると、ウルスラも悪い気はしない。
どれ、すぐ取れるように近くに置いておこうか、と思っていると、荷袋の口から紐のようなものが出ているのに気付いた。
『? なんでしょう、これ?』
気になって、引っ張ってみると、少し湿っているそれが袋の中から出てきた。
先程洗っていた、ライアスのふんどしであった。
数秒呆けた後、――ウルスラは悲鳴をあげてふんどしを投げ捨てた。
ライアスが現在歩いているのは、クレゴの大坂と呼ばれる峠道である。
ぐねぐねと曲がりくねり、上り下りが交互に続く長い峠道で、どんなに急いで通っても必ず道中で陽が暮れて野宿しなくてはならないことから、暮午の大坂と名付けられた。
この峠は、峠道以外は深い森となっていて、ところどころには瘴気溜まりもできたりしている。
物売りや郵便屋もめったなことでは通らず、道自体もほとんど整備されていない。
ここを通るくらいなら船に乗って海を渡ったほうがマシ、と言われるほどの道である。
「はじめて通ったときは、峠を抜けてからしばらくの間、足が棒のようになってたからねー。本当に大変だったよ」
『そうなのですか』
「今ならまだ大丈夫かな、とは思うけど、それでも大変なことに代わりはないや……」
ライアスは弱音を吐きながらも、存外しっかりとした足取りで山道を歩いていた。数年前から旅を続けているライアスは、足腰の強さも人並み以上であった。
「やっぱり、ケチらずに船に乗れば良かったかな」
『貴方、次の町での宿代がなくなるから、って言ってませんでしたっけ?』
「宿代がなければ野宿という手もあるし。それに、峠道にお金払っても坂が緩くなったりはしないけど、船なら歩かなくても勝手に運んでくれるんだよ? 大幅な労力の削減になるじゃないか」
『それがお金の働きというものですから』
「うーん、今さら戻っても遅いしなぁ。しまったなぁ」
ウルスラは手元の作業に集中しつつも、ライアスのおしゃべりに時々相づちを返している。道中の暇を潰せるように、気を遣っているのだ。
『……おや?』
そうしていると、ふいにウルスラが相づちとは異なる声を出した。何かに気が付いたようなそんな声だ。
ライアスはおしゃべりをやめて神様に問うた。
「どうしたの?」
『……なにか、いますね』
「なにかって、何?」
『おそらくは……』
よくないものですわ、と神様は真剣な声で告げる。
『濃い瘴気の塊のようなものが、こちらに近付いてきています。動き方からして、生き物だとは思いますが』
「ひょっとしてそれ、妖魔かな。……だとしたら面倒なんだけど」
困り顔を浮かべて、ライアスは立ち止まった。
きょろきょろとあたりを見回すが、まだそれらしい姿は見えない。
『妖魔とは?』
「簡単に言うと、瘴気を取り込みすぎた生き物の成れの果て、かな。普通の生き物より強くて狂暴で、できれば会いたくない奴だよ」
『では、私が感じているのも間違いなく妖魔ですわ。しかも、こちらに近付いてきています』
「そっか……」
ライアスは無言になると、耳を澄ませる。
ウルスラはそっと耳打ちするように告げた。
『右前方から来ていますわ』
「……りょーかい」
少しして。神様の言うとおり、右前にある茂みが揺れた。
ライアスは拳を握って待ち構えている。
果たして、飛び出してきたのは――。
「……イタチ、の妖魔、……かな」
真っ赤な目をギラギラさせて、牙をむいて唸る生き物だった。
明らかにライアスを敵と認識している様子で、今にも飛びかかってきそうである。
「でも、これぐらいの大きさなら、まだ追い返せないことは……」
ライアスの言葉はそこで途切れた。
とんでもないものを見てしまって、言葉を失ったのだ。
「ギャァァアアアアスッ!?」
イタチが、喰われた。
さらに茂みの奥から飛び出してきた別の生き物に、脇腹から喰い付かれたのだ。
噛み付かれたイタチは必死に暴れる。が、噛み付いたほうは決して離そうとしない。むしろ暴れるに従って歯が肉に食い込み、イタチの命を削っていく。
「キュアァァアアア――!」
とうとうイタチは力尽き、動かなくなる。ぐずぐずと崩れ始めたイタチの骸を、噛み付いたほうはむしゃむしゃと食べてしまった。
ライアスは、嘘でしょ、と呻く。
「シカなのに、イタチを食べるの……?」
『食べて、いますね……』
「うえぇ……」
新たに飛び出してきたのは、シカの妖魔であった。
目は赤々と光り、毛並みはドス黒く黒ずんでいる。
本来草食であるはずのそれは、なんの躊躇いもなくイタチの肉を食んでいた。
やがて倒したイタチを食べ尽くしたシカは、ギザギザになった硬質そうなツノごと、頭をぶるんと振った。
「フィーーィイリルルルルル……!」
そして、次の獲物として、ライアスに狙いを定める。
鋭利な刃物のようなツノが、びたりとライアスに向いた。
「…………どうしよう」
端的に言って、絶体絶命である。