3話:オオビワ湖のゲンキ君・2
湖岸から、ゆっくりと舟が離れていく。
ライアスが思っていたより揺れは少なく、足場としてはしっかりしていた。
さらに、帆やオールがあるわけでもないのに水の流れを無視して動いている。疎水道へ流れ込む水の流れに逆らって、舟はどんどん沖のほうへ進んでいった。
速度はそこまで早くないが、これなら移動は楽だろう。
「水の流れさえ繋がっていれば、滝だって昇れるんですよー」
「ほんとに? すごいね」
「はい、セオリツ様はすごいんですー」
ミナコは柄杓で舟をコンコンと叩く。
舟は静かに速度を上げ、湖面を滑っていった。
「こうやって、お願いしたらちゃんと聞いてくれるんです。私まだゴジョウ巫女になって日は浅いですけど、セオリツ様が優しくしてくれるのでなんとかやれてますー」
「いつから巫女さんになったの?」
「セオリツ様の巫女になったのはもう少し前なんですけど、ゴジョウ巫女を命じられたのは今年の春からでー」
「ほんとに最近だね」
「はいー。今までは、外に出るときは他の方が一緒に来てくれてたんですけど、今回からはひとりで行くことになりましてー」
「一人立ちしろってこと?」
「それもありますし、今回のことはセオリツ様の御力を借りるのが一番良いので、頑張れと言われましたー」
「そうなんだ」
そうなんですよー、とミナコは返す。
「セオリツ様は水神にして祓神。なので、水を浄めるのは大得意なんですー」
「へー、キレイにするのが得意なんだ。ウチの神様みたいだ」
『まぁ、神なら皆大なり小なり浄化の力を持ってますわ』
「ライアスさんの神様は、どんな方なのですかー?」
ライアスは一言で答えた。
「胸がペタンコ」
『っ!?』
「ミナコちゃんのほうが全然大きいかな。けど、――ぐえっ!」
「っ……!」
ミナコがさっと胸元を隠したのと、ウルスラが思いっきり御守袋を引っ張ったのは同時だった。
さて、そうこうしているうちに舟はだいぶ沖までやってきた。
やるべきことをやる時間である。
「もしかしてあれ、赤潮だったりする?」
舟の進行方向先に、湖面が赤く色付いているところがある。
それを指差すライアスに、ミナコが頷いた。
「はいー。あれがそうですねー」
「なるほど。……ところで、そんなに離れて座らなくてもいいんじゃない?」
ミナコは舟の一番端っこにちょこんと座っている。
なんとなくライアスは、心の距離を感じた。
「お気になさらずにー」
「俺、勝手に触ったりしないよ? 頼まれたら触るけど」
「誰が頼むんですかー……。とりあえず、赤潮に近付きますよー」
舟はするすると滑り、赤潮のすぐそばでピタリと止まった。
ミナコは手に持った柄杓を水につけると、ちゃぷちゃぷと赤潮の中で動かした。
「綺麗になーれー」
油膜に洗剤を垂らしたみたいに、柄杓の回りの赤潮からすぅーっと溶けて消えていく。
消失は同心円状に広がっていき、しばらくするとそこにあった赤潮はすべて消えていた。
「こんな感じで、綺麗にしますー」
「これで終わり?」
「いえー、おそらく他にも何か所かありますので、交代しながらいきましょー」
ミナコの言葉通り、しばらく進むとまた別の赤潮の塊があった。
今度は先程の倍くらい大きい。
「今度は俺の番かな」
「お願いできますかー? もう少し近付きますのでー」
「いや、この距離でも大丈夫だよ」
ライアスは箒を取り出すと、片手でぶんと振った。
「清風」
強い風がびゅうと吹き、湖面をなでる。
赤潮はあっという間に浄化され、消えてなくなった。
「お、おおー……!」
「まぁこんなもんかな、というところで」
「なんですかそのホウキ、めちゃくちゃスゴいじゃないですかー」
「神様特製だからね」
こんな調子で、見つけしだい赤潮を浄化していく。
沖に来るとぽつぽつと赤潮が点在していたので、けっこう忙しい。
「あ、あっちにありますー」
「はいよー」
「今度はそっちにー」
「よいしょ」
「その奥のほうにもー」
「ほいほいっと」
だんだんライアスばかりが浄化するようになっていったが、ライアスのほうが浄化能力は高いので、そちらのほうが効率がいい。
ミナコには舟の操作に専念してもらうことにして、目につく赤潮を片っ端から消していった。
『……プランクトンも妖魔化している? だから浄化するとまとめて消えるのでしょうか……?』
途中でウルスラが何か呟いていたが、思考停止して流れ作業のように箒を振るライアスには聞こえていなかった。
「しかし、ほんとにすごいホウキですねー。しかもそれ、神業を使ってるのとも違いますよねー?」
「え、うん」
神業というのは、巫女や神主などが神様の力を借りて使う技のことだ。
ミナコが作ったこの舟や柄杓による浄水も神業の一種である。
対して、ライアスが使っている箒の特殊技能は神業とは少し違う。
神様の力を借りて使うのではなく、自分の中にある神様の力を使うからだ。
わざわざ神様から力を引っ張ってこなくてもいいのである。
「やっぱり。ライアスさん、浄化した後の明気を使ってないですもんねー」
「……みょうき?」
『修行のときにナツコが言っていたではないですか。神から力を借りるときに必要な代価だと』
そんなこと言ってたっけ、とライアスは首を捻る。
「明気はー、いわば瘴気の反対の存在ですー。瘴気を浄化すると明気になって、私たち巫女はその明気を取り込んで神様に捧げてるのですよー」
「ああ、なんか聞いたことある気もする。普段は単なる気(氣、あるいは純気ともいう)として有るけど、陰陽の釣り合いが崩れるとどっちかになるって」
「はいー。そして崩れたときはだいたい瘴気になりますねー」
また、これらの気(瘴気や明気も含む)は、大量の瘴気や明気に触れるとそちらに傾きやすくなる。
つまり、ひとたび瘴気が発生すると連鎖的に瘴気が発生して濃度が上がっていくことになり。
だからこそ、この世界には瘴気が満ちているのだ。
『瘴気になっても気であることには代わりありませんから、それを大量に取り込んだ妖魔は強くなるわけですわ』
「なるほどね」
「ちなみに、ライアスさんが浄化して作ってくれた明気はこの舟の動力として使ってるので、安心してくださいねー?」
「了解!」
それからさらにしばらく。
舟はオオビワ湖をくねくねと進み続け、太陽がだいぶ傾いた頃には、湖のちょうど中心あたりまできていた。
ここに来るまでに見かけた赤潮はすべて浄化しており、ウルスラの清めの力によってしばらくは赤潮は発生しないだろう。
「今日のところは、ここまでですねー」
「あれ、まだもう少しできそうだけど?」
「これ以上進むと、舟を維持したまま岸まで戻れなくなりますのでー」
「あー、それなら仕方ないね」
途中で舟が沈んだら困る。
二人分の玉水を使って岸まで歩くのは大変だ。
「それに、この辺りから向こうにはそんなに汚れてるところはないはずですので、また後日でも大丈夫かとー」
「? なんで?」
「それはですねー」
ミナコは、柄杓を水につけてこう唱えた。
「この子がいますから。……ゲンキ君、ゲンキ君。ちょっとお顔を見せてくださいー」
そう言ってしばらくすると、湖の底から大きな影が浮かんできた。
いったい何かと見てみれば。
「……これ、亀?」
『亀、ですね……』
「ゲンキ君ですー」
ライアスたちを一飲みできそうなくらい大きな亀が、ライアスたちの前に現れた。
甲羅の上に人が何人も立てそうなほど大きい。
いったい何年生きたらここまで大きくなるのだろうか。
というか、これに襲われたらわりと大変なことになりそうだった。
ライアスはそっと箒を握り締める。
「ほらー、ゲンキ君、お口開けてー」
ミナコの言葉に、大亀はゆっくりと口を開ける。
それだけで舟が吸い込まれそうになり、ライアスはちょっと慌てた。
「明気をあげますよー」
大亀の前で舟はピタリと止まり、ミナコは柄杓を差し出した。
大亀の口の中で柄杓を傾けると中から水が溢れ、それを注ぎ込んでいく。
『……神業で生成した、明気を多量に含んだ水を注いでいるみたいですね』
「ゲンキ君はセオリツ様の神使でー、オオビワ湖の守護をしてくれてるんですよー。だからこうして代替わりしたときなんかは、お供えをしてあげるんですー」
「そ、そうなんだ……」
お供えって人身御供のことじゃないよね、とライアスはいまだにちょっと身構えている。
そんなライアスの心配とは裏腹に、ゲンキ君はおとなしいものである。
やがてお供えが終わると、満足したようにゆっくりと沈んでいった。
完全に姿が見えなくなってから、ライアスは気を緩めた。
「普段は、瘴気とか妖魔を食べてお腹の中で浄化してくれてますが、やっぱりたまには綺麗なものも食べたいみたいですねー。喜んでましたー」
「喜んでたって、分かるんだ」
「神使ですからー。セオリツ様を通じてなんとなく分かりますー」
ミケの考えてることがウルスラには分かるようなものである。
ミケは喋れるのであまり関係ないが。
「さ、あとはまっすぐ帰りましょー。残りの明気はぎりぎり足りるはずですからー」
「ぎりぎり」
『大丈夫なんですかね……』
もちろん大丈夫じゃなかった。
最後の最後で明気が尽きて舟が沈み、なんやかんやあってミナコは、ぐったりしたままライアスに背負われてキョウの都に帰っていった。
「か、帰りの疎水道で乗る舟の分を、忘れてましたー……」
「ミナコちゃん、今度からは歩く体力も鍛えるといいよ……」
ともあれ、オオビワ湖の浄化、完了である。