6話:渡川、大町自慢の大水流・1
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「ねぇ神様、ちょっといい?」
『なんでしょうか、ライアス』
「お金がない」
『え』
神様はお茶を飲む手を止めて、もう一度「え?」と聞き返した。
「いやだから、お金がないんだって。ほら」
そう言ってライアスは、自分の財布を開いてみせた。
中に入っている金額は二〇〇文(六千円ぐらい)ぐらいだ。
『なんだ、ちゃんとあるではないですか』
「少ない、って意味のほうだよ、神様。ここに泊まるのに昨日一〇〇文払ったわけだけど、」
ちなみにここは大町の中にある宿屋、その一室だ。
一室といっても大人数がまとめて雑魚寝する用の大部屋で、他の利用者ともども薄い布団だけ借りて畳の上で寝た。
朝になって、宿から出る前に財布をあらためて、さてどうしようかと悩んでいるのである。
「俺が今向かってる町はこの大町からさらに西のところにあって、そこに行くためにはあの大河を渡らなきゃダメなんだよね。で、渡し船があるにはあるんだけど」
『なるほど、その代金分が心許ない、と』
「うん。船には乗れるだろうけど、他にもお金を使いたい用事があって、それを考えると微妙に足りない気がするんだよねー。とりあえず、朝ご飯は水でも飲んで我慢するとして、船かー」
ライアスは、部屋の窓を少し開けて外を見る。
宿からほんの五分も歩いたところに川岸があり、その向こうには雄大な大河が流れていた。
川幅は広く、水量も豊富だ。この国一番の清流であると町の人たちは喧伝し、そしてそれは紛れもない事実である。
流れる水はとても澄んでいて、この瘴気に満ちた世界であって白無垢の花嫁のようであるとまで言われている。近隣諸国からも一目見ようと足を運ぶものがいるくらいだ。
そんな大河を眺めながら、ライアスはぽつりと呟いた。
「……よし、泳ぐか」
『待ちなさいな』
すぐさまウルスラが止めた。
それから「まったくもう、」と少しだけ怒った。
『これだけ広くて水の多い川を泳ぐのはやめてくださいまし。何かあったらどうするんですの?』
「うーん。でも、無い袖は振れないしなぁ」
『それならやることはひとつですわ。お金を稼ぎましょう』
「……それ、働くってこと?」
とたんにライアスは嫌そうな顔をした。
「俺、普通の人みたいに真面目に働いたことないからそういうの得意じゃないし、あんまりやりたくないんだけど……」
『そこだけ聞くと人間のクズみたいな台詞ですわね、ライアス。でも大丈夫、そんなライアスでも簡単にできることがありますわ』
「何するの?」
『決まってますわ』
ウルスラはにっこりと笑った(ように感じた)。
『お掃除ですわ』
「え」
ライアスは外を眺めるのをやめて、もう一度「え?」と聞き返した。
「いやぁー、アンタなかなかやるねぇ! おかげでピカピカ、助かっちゃったよ!」
「あはは……、それほどでも」
「はいこれ、約束のお駄賃。出来映えがいいから、ちょっとだけ色を付けといたよ」
「あ、ありがとね。しばらくは汚れにくくもなってるから、普段のお掃除も楽になると思うよ」
「本当かい? それは助かるよ。また汚れてきたら頼んじゃおうかな!」
あはははー、と笑いながら、ライアスはその家を辞去した。
これでもう三件目の家が終わったことになるが、臨時の掃除屋を始めてまだ二〇分もたっていない。
「……ねぇ、神様」
『なんですか?』
「なんか知らないけど、胸が痛い」
『気のせいですわよ』
ウルスラはにべもなく切って捨てた。何を泣き言を言っているのだ、と言わんばかりだ。
『まったく、何を泣き言を言っているんですか。別に騙しているわけでも何でもないではないですか』
と思ったら実際に言われた。
そうは言っても、とライアスは思う。
「だってこれ、なんかズルくない?」
『意味が分かりませんわ。きちんと綺麗にしているのだからズルも何もないでしょうに』
「お掃除しますって言っといて、俺がやってることってこのホウキでさらさらーっと掃くだけじゃん。これ働いてるっていうの?」
『キレイになった、という結果に対してお金を払ってもらっているんですから、ライアスの労働に対する意欲だの満足感だのなんて相手方には関係ないですわ』
「えー」
『それに最後のおまけで家全体に煤祓をかけてるでしょう?』
「だってそれ位しとかないとお金貰うの気が引けるんだもん。一回三〇文ってあれだよ、神様の大好きな白玉ぜんざいが食べられるんだよ」
それを聞くとウルスラは「なんと!」と驚いた。
『そうだったのですか!』
「そうだよ」
『ではたくさんキレイにしたらまたあれを食べられるということですか!!』
「なんでだよ」
今のライアスの言葉、若干の苛立ちがこもっていた。
ウルスラはコホンと咳払いをする。
『まぁ、それは冗談にしても。……今回あの大河を渡るというのはライアスの旅の事情なわけですが、私だって、思うところがないわけではないのです。貴方には私の目的のお手伝いをしてもらっているのですから、私だって貴方のお手伝いをしたいと思っているのですよ?』
「……それで、神様の力で金儲けするのはいいことの?」
『別に。良いも悪いもありませんわ。渡した力とそのホウキはお掃除してキレイにするためのものですから。キレイにすることに貴賤はありません。その結果、金銭のやり取りが発生したとしても、それはまた論を別にするところですわ』
ウルスラにしてみれば、綺麗にすること綺麗になること綺麗であることは自分の存在意義に等しいので、それ自体に思うところや考えるところはないらしい。綺麗になることは良いことで、何恥じる必要があるものか、と思っている。
『私は汚れたところがキレイになって嬉しい。貴方はお金が貰えて嬉しい。相手方も家がキレイになって嬉しい。みんな嬉しい、ウィンウィンの関係というやつですわ』
「……まぁ、お金がいるのは事実だし、ここまでやったら何件やっても同じだろうからやるけどさ」
『頑張ってくださいな。あ、やるならあと十五、六件はお願いします』
「……そんなにはお金いらないよ?」
『いえ、それ位やればライアスの等級が上がって新たに特殊技能が使えるようになるんですよ。ついでにやれることを増やしておきましょう』
「……りょーかい」
結局ライアスは、このあと二〇件ほどの家々を綺麗にし、流れの凄腕掃除人が町に来ているらしいと、ちょっとした話題になったのだった。
時は少し遡り。
某所、山林の獣道にて。
「こんにちはお嬢さん。ちょっといいかしら?」
空中に張り渡した紐の上を移動していた魔女を、呼び止める声がした。
魔女は近くの木の枝の上に留まり、声の主を見下ろした。
「なんだオマエ? 誰だ? 何の用だ?」
魔女を見上げるのは、妙齢の女だ。
肩から胸元にかけて大きく露出した服を着ている。
少し後ろには、大きな背負子を背負った少年が控えていた。
女は、くわえたタバコの煙を揺らしながら、魔女に名乗った。
「ワタシの名はベガ。退魔師をやっている者よ。ちょっとお話、聞かせてくれる?」




