4話:活用、箒の特殊技能・2
雑木の横をすり抜け、丈の高い草を飛び越えていく。
山道を外れて斜面を突き進むと小高い盛り上がりがあり、そこを越えるとなだらかな下りになっていた。
盛り上がったところを乗り越えたライアスは、悲鳴の主を視界にとらえた。
「見つけた!」
ライアスから前方におよそ十数間先。へたり込んで震える女の子がいる。
その子の目の前には、四本足の大きな黒い生き物が向かい合っていて、低いうなり声を出して女の子を脅かしていた。
見るからに危険な状況である。
ライアスはごくりと唾を飲み込むと、黒い生き物の注意を引くために大声で叫んだ。
「ちょぉぉおおおっと待ったーーっ!!」
声を張り上げると、黒い生き物と女の子は同時にライアスに気付いた。
女の子は何が何やら分からないような顔をしていて、黒い生き物は警戒した様子でライアスを見てくる。
黒い生き物は大きく、四本足で、黒い毛並みの首元だけ三日月状に白い毛が生えていた。
あれは、熊だ。ツキノワだ。
ライアスはそれだけ理解すると、その巨体めがけて全力で斜面を駆け降りながら、箒を掲げて頭上で振り回した。
熊は明らかに興奮した様子でライアスを動きを見つめ、ライアスは熊から二間ほど離れたところで立ち止まる。
「グゥゥ……!」
「ううぅぅうううう……!」
ライアスは両手で箒を持って構え、真っ直ぐに熊の目を見つめ返す。
上体を低く構えてうなる熊に、ライアスは同じように屈み腰になり、うなり声を出して威嚇し返した。
そのまま少しずつ、へたり込んだ女の子から熊を引き離すようにして移動する。
ライアスにつられてじりじりと熊も動き、ライアスとの距離を詰めてきた。
ライアスはそっと女の子に目配せして、今のうちに逃げるように伝えるが、どうにも立ち上がれないらしく、女の子は青ざめた顔で首を横に振るばかりである。
「さてさて……」
まさかこんな大物とは思わなかったが、仕方ない。
一発二発叩いて倒すしかないか、とライアスが考えはじめたところに、ウルスラが耳打ちしてきた。
『ライアス、ライアス』
「なにさ、神様」
『大事なお知らせがあります。このクマ、妖魔じゃありませんわ』
「……みたいだね」
ライアスは、目の前の獣を見ながら頷いた。
それがどうしたというのだろうか。
『そのホウキで普通の生き物を殴っても、ただの棒で殴るのとかわりませんからね?』
「……え?」
『だって、それは瘴気を祓うためのものですし。それで普通に殴られても、ちょっと痛いだけですわ』
言われて、確かにそうだと思い至る。
この箒が妖魔に効くのは、妖魔の体内に溜まった瘴気を問答無用で祓い飛ばすからだ。
物理的なダメージを与えるためのものではないのである。
「……あれ、これ不味くない?」
とたんに、ライアスの額に冷や汗が浮かぶ。
ライアスがここまで威勢よくいられたのは、妖魔相手なら戦っても勝つ見込みがあったからである。でなければこんな、死にたがりのような真似はできない。
しかし、相手が妖魔でなくただの熊で、勝つ見込みが消えたとなればとても平静ではいられない。手のひらにもじっとりと汗がにじみはじめ、胸の内には「どうしよう、どうしよう」という思いばかりが浮かんできた。
ここでまだライアスが、表面上は平静を保っていられたのは、自分以上に恐怖を感じているであろう女の子がこちらを見ていたからであった。
さすがに、いきなりここで腰砕けになってあたふたしはじめるのは格好が悪すぎる。その思いが、なんとかライアスの足を踏ん張らせていた。
「グゥゥウウウ……!」
しかしそれも、いつまでもつかは分からない。
急に動揺しだしたライアスを見て、熊も気勢を上げはじめたのだ。ライアスに飛び掛かろうとして、さらにじりじりと、距離を詰めてくる。
威嚇して挑発したせいもあってか、熊は非常に興奮している。
こうなったらやぶれかぶれで殴りかかるか、と腹を括ろうとしたライアスに、ウルスラはぴしゃりと告げた。
『落ち着いてくださいなライアス。私が言ったのは、普通に殴っても効果はない、ということですわ!』
「は! それは、もしかして!」
ウルスラは、いつものごとく自信満々な様子であった。
ライアスには見えていなくても、自慢気な顔が目に浮かぶようだった。
『今から貴方に、特殊技能をお教えします』
「さっきのやつだね!」
『このクマが飛び掛かってきたら、なんとか一撃を躱して箒を当ててください!』
「りょ、りょーかい! うおぁ!?」
ライアスが頷くと同時に、熊は後ろ足で立ち上がり二足歩行状態となった。立ち上がると本当に大きい。ライアスの身長を軽々と越えている。
怯むライアスに、鋭い爪の付いた前足が降りかかってきた。
『避けて!』
「おおおぉっ!?」
のしかかるようにして落ちてきた両前足を、ライアスは斜め前に飛び込んで転がり、なんとか回避した。
ほんの少しタイミングがずれていれば、大きな身体に踏み潰されていたことだろう。
『振って!』
「やぁっ!!」
ライアスは、早鐘のように動く心臓の音で耳がいっぱいになりながら、それでも聞こえる神様の声に従って、しゃにむに箒を薙いだ。
箒の穂先が熊の胴体を捉え、手応えを感じる。
その瞬間ウルスラが、元気よく技名を叫んだ。
『行きますよぉ! ――煤祓っ!!』
ウルスラによる代理宣言を合図として、ライアスの体に押し込められている力が箒を通じて作用する。
煤祓の効力がふわりと熊を包み込んだ。
熊は急に大人しくなり、その場から動かなくなる。
「……ど、どうなったの?」
箒を叩き付けたまま、ライアスは動かない熊を見つめていた。
熊は先程までの興奮が嘘のように静かになって、ライアスたちへの興味を失ってしまっている。やがてのそりと動き始めると、ライアスや女の子を無視して、熊は山の奥へ戻っていってしまった。
『煤祓が効いたみたいですね。怒りと興奮が治まって、巣のほうに帰っていったようです』
「今の、相手を落ち着かせる技なの?」
『正確には、そういうこともできる技、ですね。他にも色々祓って落とせますし、汚れや瘴気も普通に使う以上によく祓えますわ』
「なんにせよ、追っ払えてよかった……」
ライアスは安堵の息をはいた。
勝手に助けに入っておいて、何もできずにやられていたのでは立つ瀬がない。なんとか当初の目的を達せたので、ひと安心であった。
「えっと、さっきの女の子は?」
『まだそこで震えていますわ』
ウルスラに言われてそちらを見ると、女の子もライアスのことを見ていたらしく、ちょうど目が合った。
女の子がびくりとして、慌てて目を逸らす。
「なんか俺、怖がられてる?」
『だって、いきなりやってきて熊と戦うような人、控えめにいって頭がおかしいではないですか』
「神様も背中押しといてその言い種はひどくない?」
『とにかく、お話をしないと怖がられたままですよ』
ライアスが立ち上がり近付いていくと、女の子は恐怖と困惑が半々で混ざった表情のまま、ライアスを見上げてきた。
見れば、歳の頃はまだ一〇歳ぐらいのものである。
仕方がないか、とライアスは思うことにした。
「えーと、こんにちは?」
「…………」
「驚かせてごめんね? たまたま近くを通りかかって、君の悲鳴が聞こえたから来たんだけど」
「…………」
「危なかったね、怪我はない?」
「…………」
女の子は無言のまま、こくりと頷いた。
ライアスは「それは良かった」と言うと、女の子に手を差し出した。
「お家はどこかな。この先の町? それとも近くの集落?」
「……すぐそこ」
「そっか。乗りかかった船だし、送ってくよ」
「う、うん……」
おそるおそる、女の子は差し出された手を掴む。
ライアスは手を引いて、女の子を立ち上がらせた。
「大丈夫? 立って歩けそう?」
「うん」
「服汚れちゃったね。あとできれいにしよっか」
「うん」
「帰り道は分かる? どっちに行けばいい?」
「あっち。……あの、」
「うん?」
女の子は困ったような表情で上目遣いにライアスを見ると。
「……さっきは、ありがと。助けにきてくれて、うれしかったです」
と言って、ライアスの手を引いて歩き出した。
ライアスは「どういたしまして」と返すと、手を引かれるままに女の子に付いていった。