A.悪魔の囁き
鬱陶しい夕日をカーテンで遮り、部屋の電気を点けた。そして私は古海航司にナイフを突き刺した。当然、殺すつもりはない。
私を睨み付けてはいるものの、人形のように大人しい彼をテーブルの上に横たえる。邪魔だったので花瓶は床に落とした。鋏を手に取り、彼の上着を切る。シャツを切る。切る。そしてナイフに持ち変え、彼の胸の中央に突き立てる。彼はより一層私を睨むが、ここでやめては意味がない。ぐっとナイフに力を込め、胸から下腹部へと線を入れる。その線からパラパラと白い粉がテーブルにこぼれ落ちた。
「ひどい」
彼が呟いたが、無視する。悪気はある。許さなくていい。
ゴム手袋を装着した手で彼の体をこじ開けた。まあ予想通りというか、実に気味が悪い。
好きでそうなったわけではないだろうが。
まず目についたのはフナムシだった。フナムシは大小様々なものが至るところに散っていた。親指大の小魚を食んでいるもの。造花と共に瓶詰めされ、溺死している小さなもの。外の様子を観察しているかのように、彼の中から身を乗り出すもの。
気味が悪い。が、興味深い。
私は観察を続ける。視界の端に本があった。見覚えのあるそれは、私の処女作だった。かろうじてタイトルは読めるが焼け焦げており、読書するには不向きだろう。この分だと次作もどこかにあるのかもしれない。
中を探る私の指に、何かが引っ掛かった。糸だ。引っ張ってみると、するするすると出てくる出てくる。始めは腕をくるくると回していたのだが、数分で飽きた私は糸を腕に巻き付けたまま後ろに下がってみることにした。リビングのテーブルの前から廊下を通り、玄関の方へ。ドアに背中がぶつかりそうになったところで、糸がピンと張る。その場で少しだけ引っ張ってみたが、これ以上は伸びないようだ。私は急いで彼の元へ戻る。そして糸の先を手繰ると、そこには釣り針があり、彼の体に引っ掛かっていた。なるほど、これは釣り糸だったか。私は釣り針を外して、腕に巻き付けていた糸と共にテーブルの上に置いた。
いつの間にか、一匹のフナムシが私の顔に這い上がって来ていた。私の口元に到達したそれを、手を使わずに舌先を操り口の中に入れてみた。触覚が入り切らずに口から飛び出したままだが、気にしても仕様がない。
ひどい腐敗臭がする。そして、噛み潰してみると強烈な苦みが口の中に広がった。この程度で私の顔に張り付いた笑みは消えないが。
「けほ……っ」
ふいに彼が乾いた咳をすると、口から黒みがかった赤色の花弁をはらはらとこぼした。バラだ。彼は私を見つめるだけだ。悲痛そうな表情で。私が慈愛に満ちた人間だったなら思わず抱き締めていたかもしれないが、あいにく私は新見海里を寝食を忘れるほどの創作欲求へ駆り立てる以外には能がないのである。それに彼の口から溢れるものは私の肌を焼け爛れさせそうだ(ゴム手袋など無意味だろう)。何せ彼自身にとっても致死量の毒足り得る代物だ。怖い、怖い。流石の私も笑顔が引き攣る。
私はフナムシを咀嚼し、呑み込みながら言い訳じみた思考を重ねた。さて、気を取り直して作業を再開しよう。
「おや?」
いつの間にか、左袖に釣り針がかかっていた。どうやら、彼は私の邪魔をする気らしい。
「やれやれ。まあ、釣り糸のことなど気にせずに創造にかまけようじゃないか。なあ、新見海里」
私は弓なりになった口角を更に吊り上げた。