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2.スズラン

 結局、締め切りに間に合わなかった。結局、ホラー小説家にはなりきれなかった。結局、自分は土地を貸して得た金で生きていくしかないのだ。ああ、アイツらにトラウマを植え付けるほどの恐怖を産み出したかったというのに。

 そんな夢からの目覚めは最悪だった。

「う……」

 手足が痺れているし、なんだか息苦しい。新見は状況を把握するのに数十秒かかった。目の前、膝と膝がぶつかりそうな距離に座っている少年は誰なのか?

 黒髪。前髪を真ん中で分けている。眼鏡。どこにでもいそうな顔。上はウインドブレーカー。下はジーンズ。側の床には大きなリュックサック。

「君は……古海航司だな……?」

「いやぁ、まさかあなたに名前を呼ばれる日が来るなんて。自分の行動力にびっくりですよ。むしろ行動力がなかったから、こうなったんですけど」

 少年は自嘲の笑みを浮かべる。

「騒がないでくたさいね。騒いだら喉を裂きますから」

 スッと笑みを消し新見を脅す少年の右手には、いつの間にか扱いやすそうなナイフが握られている。

「猿轡を噛ませようと思ってたんですが、せっかく死ななかったんだし少し話したくて」

 口元に笑みを浮かべる。

「話したくないなら今すぐ殺します」

「……話そう」

「あなた、落ち着き過ぎじゃないですか? 僕としては助かりますけど」

「いや、感情が顔に出ていないだけだよ」

「そうですか」

 新見の心は、ある感情に占拠されていた。

(…………ずるいなぁ)

 それは嫉妬だった。その嫉妬は心を焼き焦がすようなものではなく、むしろ凍りつかせた。

 現実は現実味なんて気にしなくていいのだ。目の前に様子のおかしい人間がひとりいるだけで、現実はこんなにも恐ろしい。寝ても覚めても悪夢のようだ。

 高校二年生の文化祭、クラスで肝試しをやった。客を怖がらせるのはとても楽しかった。全く怖がらない客(印象に残っているのは斜に構えた中学生男子)もいて、そういう奴でも読んだら最後、一生暗がりに怯えるような小説を書きたいと思った。そんな自分が月日と共に鈍化し、恐怖を想像できなくなるなんて。いや、想像はできる。だが現実味が伴わない。それがないと恐怖は十二分に威力を発揮できないと考えている自分には致命傷だった。

 新見は小さく溜め息を吐いた。

「ところで……この家、ひとりで住むには広すぎませんか?」

 二階建て、庭付きの家は確かに広い。

「元々は、4人で住んでいた。あと犬」

「はぁ。そうですか」

 少年は何かを察して、それ以上訊くのをやめた。新見がちらりと横にあるテーブルを見ると、倒れた花瓶は元通りになっていた。いや、元通りではない。花が増えている。白くて小さな花が。

「スズラン…………?」

「そうですよ。面白い花ですよね」

 面白いという表現が妙に引っ掛かる。

「花言葉は?」

「さぁ? 知りませんけど」

「……そうか」

 やはり彼は花言葉で花を選んでいるわけではないようだ。

「君は俺に恨みでもあるのか?」

「ひどいなぁ。そんな人間に見えますか? まあ、見えるかもしれませんね。でも僕はごく普通の人間ですから。恨みを持つ相手に自分から関わったりしませんよ」

 正直なところ狂人にしか見えない。だが、彼は本気で自身を普通だと思っているらしい。新見は彼から滲み出ているものが狂気以外の何物でもないように感じる。

「じゃあ、一番のファンか? 小説を書き直せと言いに来たのか?」

 某小説の主人公である監禁されたベストセラー作家のことが脳裏に浮かんだ。自分の小説に、そんなに熱心な読者がいるとは思えないが。二作しか世に出ていないし、シリーズものはやっていない。

「残念ながらファンではないです。小説は読みましたけど。そうだ、一作目に出てきた久子さん可哀想じゃないですか?」

 古海はどういう訳か主人公を殺そうとした霊に同情的だ。

「妻が死んだとき、さっさと後を追うべきだったんですよ」

「それじゃ話が始まらないだろう」

 思わず反論してしまった。

「ホラーなんて始まらないに越したことはないでしょう」

 身も蓋もない。いや、ホラーを好きでない者はこんなものなのか。思わぬことで冷静さを欠きそうになった新見は、落ち着くために深呼吸した。

「君は一体、どんな理由でこんなことをしているんだ?」

 いい加減、核心に迫りたい。この面倒事を解決したい。そんな思いから出た質問だった。

「あなたが好きなんですよ。どうしてだか分かりませんけど、もう自分ではどうしようもないんです。僕はどうしたらいいんですか? 死ぬか殺すかしかないんですか?」

 彼が口を開いて今まで溜めていたものを吐き出すと、理性もボロボロこぼれ落ちるのか、段々と語調が激しくなり、早口になる。

「分かってますよ。自分がバカなことをしてるってことくらい。人殺しは良くないって分かってますよ。僕は冷静です。冷静に考えたんです。自殺しようとも思ったんですが、死ぬくらいなら殺すタイプの人間だったみたいで。でも成功しないだろうやり方を選んだのは、わざとです。でも上手くいってしまったら、世界に後押しされたら殺すしかないじゃないですか!」

 古海は左手で頭を掻き毟っている。まくし立てられた現実に、新見は目を見開いて何も返せずにいた。

 ホラーは麻薬のようなもので、耐性が出来てしまうとより強い恐怖を求めるようになる。ホラーを楽しむには、前提として自分は第三者でなくてはならない。恐怖とは本来、楽しめる代物ではない。殺人鬼に追われることを笑顔で楽しむ者などいるだろうか? 渦中にいては恐怖を楽しめない。画面、或いは紙面を通さなくてはいけない。だが、新見は(自分でも不思議なのだが)この状況を楽しく思っていた。気を抜くと口元がつり上がりそうになるくらいに楽しくてしょうがない。そして、新見は気付いた。自分は絶望しかけていたのか。この世には恐ろしいものなどいないのかもしれない、と。

 純粋に人ならざる恐怖の存在を信じていたのは、いつまでだっただろう。いつからか、そんなものはいないと思うようになった。だから、新見にとって人間は恐ろしいものでなくてはならなかった。新見は人間を確実にいる身近な恐怖だと捉えており、人間の暗い部分を描いた作品にリアリティを感じる。しかし、近頃はその現実味も失いつつあった。そんな麻痺していた恐怖を感じる器官に杭を打つかのような、新見にとっての厄災そのものである彼。古海航司という恐怖の存在。ホラー中毒者の新見が辿り着いた究極の恐怖は、体感型ホラーだった。古海はいつ爆発するか分からない時限爆弾みたいなもので、側にいる新見を緊張させる。その緊張感が堪らない。

 ホラーを楽しむには、第三者でなくてはならないはずだ。これがアトラクションの類いではないことは理解している。自分はどこか壊れてしまったのかもしれないと、新見は思った。

 一方、古海の告白など彼にとってはどうでも良かった。理由がない方が怖かっただろうな、という感想が浮かんだだけであった。そんなことよりも、書かなくてはならない。

 嫌な空気が体にまとわりつくような文章を。物音ひとつに驚いてしまうようになる文章を。灯りがないことに恐怖するようになる文章を。

 鏡の前で視界の端に何か見えてしまうのではないかと怯えてほしい。カーテンや戸の隙間から何か覗いているのではないかと怯えてほしい。暗い水場を恐れてほしい。独りになるのを恐れてほしい。

 目を閉じた時に心の底から浮かんで来た化物に、自分で創造した化物に追いつめられる様が見たい。恐怖の存在を産み出せないのなら、それを人に産み出させればいいのだ。新見海里は脳内で執筆を開始した。

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