1.ポピーとバラ
NaClのように大切な君
最早、何が怖くて何が怖くないのか分からない。目の前にあるのなら、動く死体も怖ければ、動かない死体も怖い。そう思う。
数々のホラー映画やホラー漫画やホラー小説などに触れたが故に、恐怖に鈍くなってしまったのだ。目の前になければ何も怖くないなどと、馬鹿みたいなことを考えている。
想像力が衰えた? 感受性が貧しくなった? 恐怖を愛していたはずなのに。毎日同じ味を口にするように飽きが来たとでもいうのだろうか。
『要するに、書けてないんですね?』
電話越しに編集者である射水から冷たい声を浴びせられた。
「……おっしゃる通りです」
『それじゃあ困るのですよ、底群先生』
男の筆名は、底群海淵という。
「はい……でも何が怖いのか分からなくて……」
『じゃあ巨大化したら怖い虫とか出してください』
「そういうのはちょっと……」
『じゃあ、いつもみたいに人間って怖いな~ってやつ書けばいいじゃないですか』
「それが思い付かなくて……」
『……4日です。最大限引き延ばして4日です。いいですね?』
「はい……分かりました……」
通話を終え、男は溜め息を吐く。今のところ、一番の恐怖は締切である。だが、そんなものを題材にホラー小説を書ける気はしなかった。
「逃げよう」
どこか遠くへ行こう。外国へ行こう。暖かいところが良い。南の島か何かが。その孤島には村があって、因習や気味の悪い言い伝えがあって、殺人が起こって、そして――――。
「やっぱり駄目だ。逃げよう」
男はトランクを引っ張り出し、旅支度を始めた。パスポートや財布や衣類を投げ込み、トランクを乱暴に閉じる。携帯電話(黒いふたつ折りのもの)はベッド脇のゴミ箱へ投げ入れた。
そのタイミングでインターホンが鳴り響き、男は恐怖した。時間的に有り得ないのだが、編集者の射水が来たのかと思ってしまったのだ。気を取り直し、受話器を取る。
「はい」
「ハナエ生花店です。お届けにあがりました」
「花? 誰から……?」
「差出人は古海航司となっていますね」
「はぁ、分かりました」
分からない。知らない人間だ。フルミコウジとは一体誰だ? 疑問を抱きつつも花屋の青年に応対し、受け取った花を花瓶に生けてテーブルに置いた。メッセージカードなどは無かった。
この花は確か、ポピー(和名はヒナゲシ?)だったと思う。赤、白、黄色の花がある。調べたところ、花言葉がやけに多い(このくらいあるのはザラだと後に知る)。色によって別の花言葉があるそうだ。色々と考えを巡らせてみたが、古海航司が何者なのか分からない。名刺や卒業アルバムを浚っても、古海航司はいない。
夕日に照らされた花が、少しだけ不気味に見えた。
『は? 私じゃありませんけど?』
電話越しに彼を鼻で笑う女は、更級月子という。
「本当にお前じゃないのか? シナツキ」
渾名はシナツキ。ふたりは悪友というか腐れ縁というか、小学生の頃から現在に至るまで、16年ほどの長い付き合いの友人である。ずっと学校が同じだったわけではないが、家が近所だったために付き合いは続いていた。シナツキがどう思っているかは分からないが、彼は彼女のことを一番親しい友人だと思っている。
『私、そんなに暇じゃないの』
「俺に意味のないイタズラを仕掛けるのは、シナツキくらいのものだと思ったんだがなぁ」
『だったら、イタズラじゃないんでしょうよ』
険のある言い方だ。
『他には何も届いてないの?』
『ああ、何も』
『ポピーの花言葉、調べた?』
「ああ。でも多過ぎて……」
『色は?』
「赤と白と黄が1本ずつ」
『つまり、色ごとの花言葉は除外していいんじゃない?』
「それでも4つほど残るんだが」
いたわり・思いやり・恋の予感・陽気で優しい、が残る。
『じゃあ知らない。今、5月よ? 私、忙しいの』
一方的に通話を切られてしまった。ちなみに、シナツキが5月に忙しくなる職に就いているのではなく、昔からの決まり文句である(要するに毎月忙しい)。
(本当にシナツキじゃないのか……?)
過去、彼女が自分にしてきたイタズラを思い出す。架空の人物からのラブレターを送り付けてきたり、偽の本命バレンタインチョコを下駄箱に入れたりしてきたシナツキ。そういったイタズラに一喜一憂してきた男が彼女を疑うのは当然のことだ。しかし、古海航司とは男の名前だろう。男の名前にする意図が分からないし、シナツキなら器用に筆跡を変えたメッセージカードを付けるはずだ。そもそも、こんなイタズラは高校時代を最後に仕掛けられていない。
男はシナツキの仕業ではないと結論付けた。つまり、見知らぬ人間に住所を知られているということになる。嫌な感じだ。
まあ、気を取り直して手掛かりを辿ろう。男はハナエ生花店へと急ぐことにした。電話で済ませる手もあるが推理材料が足りないので、それを出来るだけ多く得るために直接出向くことにした。ハナエ生花店は彼の自宅の最寄り駅、神人中央駅の南にある。店は陽の気が漂っており、どうも居心地が悪い。花屋は吉事にのみ利用されるのではないはずなのに陰鬱さを感じないのはどういう理屈なのか。やはり色とりどりの花のせいか。いや、くだらないことを考えている暇はない。時刻は18時過ぎ。19時には閉店だ。
「すいません」
「はい」
近くにいた店員の若い男性を呼び止める。
「花をお探しですか?」
「いや、実は人を……今日の15時過ぎにこちらから自宅に花が届いたんですが、送り主に覚えがなくて……」
「誤配送でしょうか?」
「いえ、住所は合っています」
「配送記録を確認してきますので、お名前を教えていただけますか?」
「はい。新見海里といいます。新しい、見る、長さの海里です」
無論、新見海里は本名である。
「では、少々お待ちください」
店員は小走りで店の奥へ行き、パソコンを睨んでいる。
新見は並べられた花の中にポピーを見付けた。赤、白、黄色。
店員は3分ほどで戻って来た。
「お待たせしました。あの、新見様宛ての配送記録はありませんでした」
「え……」
「別の花屋ではないでしょうか?」
「いや、でも確かにハナエ生花店と書いてあります。これ、配達表の控えです」
「確かにここの住所ですね……届けた店員の名前は分かりますか?」
「いえ。若い男性で、青いキャップを被って眼鏡をかけていました」
「あの、少々お待ちください」
店員は再び店の奥へ向かう。ほどなくして、店長らしき男を伴って戻って来た。
「大変お待たせいたしました。当店には私を含めて従業員は4人なんですが、この中に見覚えのある者はいますか?」
店長であろう男は写真を差し出す。写真には目の前のふたりを含む、4人の男性が店の前で並んでいる。
「……この中にはいないと思います」
ハナエ生花店を騙った者。配達に来た男が古海航司なのだろうか。
「古海航司という名前に覚えはないですか? 送り主の名前なんですが」
「はぁ……」
「花江さん、もしかして造花店の古海さんじゃ?」
最初に応対した店員が控え目に言う。
「え? ああ、フラワーオールね。そういえば、そんな名前だったような」
花江と呼ばれた男は懸命に思い出そうとしている。
「フラワーオール?」
「中央小の近くにある造花を売ってる店ですよ。そこの店長が古海さんっていうんです。でも、名前は航司じゃなかったと思いますけど」
「これです」
いつの間に持って来たのか、店員がチラシを差し出す。どうやらファンシーな小物を売っている店らしい。パンフラワー教室も併設。人気商品は水中花、と書いてある。
「水中花……?」
「水の中にポリエステル製の花を入れた置物ですよ。だいたい瓶詰めだったかなぁ」
「植物標本っぽくて良いですよね」
「そうだ、フラワーオールさんに電話してみましょうか?」
「あ、お願いします」
「では、ちょっと失礼します」
花江は店の奥へ去った。
「ポピーってどんな時に贈る花なんですか?」
「特に決まってないと思いますけど」
「花言葉を調べたんですが沢山あって参りました」
「ああ、思いやりとか慰めとか色々ありますよね。オリエンタルポピーの花言葉とかアイスランドポピーの花言葉とかもありますし」
「そこのポピーは?」
「あれはアイスランドポピーです」
たぶん、家にあるのもアイスランドポピーだろう。家を出る前にゴミ箱から拾った携帯電話で花言葉を調べると、気高い精神・忍耐と出た。やはり狙いが分からないので、花言葉は関係ないような気がしてきた。
「お待たせいたしました」
花江が戻って来た。
「古海航司くん、店長の高校生の息子さんだそうです。航司くんは友達の家に泊まりだとかで話は訊けませんでした」
「高校生……ですか……?」
「高校三年生らしいですよ」
今年で24歳になる自分と接点があるとは思えない。少なくとも学校は関係なさそうだ。
「後日、フラワーオールを訪ねることにします。何か分かったら連絡していただいてもいいですか?」
「はい、いいですよ」
「よろしくお願いします」
今日のところは携帯電話の番号を教えて帰ることにした。
さて、帰路の途中で気付いたのだが小説を一文字も書いていない。謎を放置して執筆に身が入るわけがないと自分を正当化してみたものの、視線はついつい下を向く。そのおかげで、自宅の玄関先の隅に赤いものが貼り付いているのが見えた。滴下血痕のように見えたそれは、バラの花弁だった。
どこからか飛んで来たのだろうか? 指でつまんで見ると、花弁に瑞々しさはない。
(バラの花言葉は愛だったか、愛情だったか…………)
どちらもだったような気もする。まさか、この花も謎の贈り物と関係があるのだろうか? それとも今日は花に縁がある日か? 今は保留しておくことにする。酸化した血のような色のそれを捨て、家の中へと入る。
(結局、何者なんだ……古海航司……)
溜め息を吐きながら廊下を歩き、リビングへ向かう。
(いや、それより締め切りを気にした方がいいか)
テーブルの上には件のポピーが鎮座している。これに気を取られなければ、今頃は逃亡していただろうに。気にしようがしまいが小説は書けなかっただろうが。
(射水さんがやたらに推す虫の話でも書いてみるか……)
椅子に座り、ぼんやりとポピーを眺めながらそんなことを考える新見。ふいに、彼の後ろの積まれた段ボール箱に掛けてある布が揺れた。よく見れば段ボール箱が布から一列はみ出しているのに気付けたかもしれない。
そこには男がいた。背後から伸びてきた腕が、新見の首を絞める。
「あ……ぐ…………」
テーブルを蹴ってしまい、花瓶が倒れる。必死にもがくが、その力強い腕からは逃れられない。頚動脈洞を圧迫され、頚動脈洞反射を引き起こして脳に酸素が行き届かなくなった新見は失神した。力が抜け、だらりと腕が下がる様を見て、犯人は笑う。
「はは……」
彼は数分で意識を取り戻すはずだ(犯人としては別に死んでも構わないが)。すぐさまロープで新見の体を椅子に縛り付けることにする。そのために座っているところを襲ったのだ。
両腕を背もたれに回して縛る。両足は椅子の足に縛り付ける。練習通りに手早く縛り上げることが出来、犯人は満足気だ。どうやら絞め技も成功したらしく、新見は今にも目覚めそうだ。親しくもないクラスが同じなだけの柔道部員に金を払って習った甲斐があったというものである。
犯人は悦に入る。準備は一朝一夕。知識は付け焼き刃。計画は杜撰。しかし天は自分に味方したのだと思わずにはいられなかった。男、いや、まだ少年と言える彼は笑いを噛み殺した。