マリーゴールド
中を確認してみると人っ子一人さえ来ていなかった。利華は履いていた革靴を隅に置き、靴下のまま緑色のカーペットの上を歩いた。わざと大げさに椅子を引き、滑らかなテーブルの上に鞄を放り投げると、ぱんぱんに膨れた鞄はカーリングで使用されるストーンのように滑り、端から落ちた。その衝撃で鞄の中身が飛び出し、放り出された教科書やノートに一部の緑色が隠された。
利華はその様子に目もくれず、椅子の上に腰掛けた。暫くして唇を強く噛みしめる。テーブルをこぶしで叩いた後、口を開く。
「どうして、こうなったの? アタシが何かしたっていうの?」
だらんと垂れた四肢や震えた声からは、力が全く感じられない。背もたれ付の椅子が華奢な体を支え、すでに瞳の焦点は定まっていない。利華は誰もいないことを良いことに、煮えたぎる怒りを空中にぶつけていた。空気が彼女の思いを受け止めることはできず、彼女の声は学園の図書館に漏れ出していた。
「こんなの望んでなんかいない! 返してよ、返してよ!」
言葉が弱弱しくならないように心を強く保ち、怒りの矛先を有形の人間に変えた。
「大っ嫌い、すべて……、人間なんて……」
利華は声を張り上げ、昔を思い返した。
ある日突然世界の半分がなくなって悔しかった。
全て親のせい。あいつによって奪われた。
それらを誰も取り返してくれない。
「消えちゃえばいいっ!」
枯れた涙を流すことはできない。そのことをつくづく痛感する。何をしても、この痛みと悲しみを洗い流してはくれない。いや、洗い流す方法が見つからない。どんなに探しても、誰も教えてくれなかった。だからこそ、この図書館は利華の聖域であった。やかましい音がなく、くつろげる唯一の空間で眠りに落ちることは度々あった。
「……この気持ちは……失われない。たとえ、天地がひっくり返っても……、なくならない」
さあ祈ろう。次に目が覚める日が一生こないことを――。
安らかな寝息が聞こえてくる。
「すぴー、すぴー。……むにゃ~、マリーゴールドが咲いているのだなぁ~」
警戒心を失わせる魔法が閑散とした図書館に発動した。利華は眠りを妨げられてしまい、自分以外に誰かが来ていることを悟った。徐々に重たい瞼を持ち上げていき、一束の何かを発見した。
「これは……草? 図書館、に?」
利華はそれをむしり取ろうと手を伸ばした。草と思しきものは一定間隔で揺れており。なかなか掴められない。維持を切らした利華は根っこから引き抜くという暴挙にでる。ありったけの力を込めて、根っこを引き抜こうとした。
「みぎゃあああああ!」
根のあたりから肌色の五本の根が伸びて――鈍い音とともに現実に引き戻された。
「頭がかゆい……。蚊?」
「ミーはぁ、あの、抜かないでほしいのだ!」
利華の手元から、ほのかに良い香りがする。恐らく植物性の香りだろう。香水をつけた経験は
ないので、この草の香りが手に移ったのだろう。
「……草が喋った」
もしそうだとしたら新発見ではないだろうか。人工のものではなく、自然なものであれば世界中を浸透させ、瞬く間に発見者の名が広まる。考えるだけで利華の顔がほころんでいった。
「発見者、渡瀬利華の名に誰もが……!」
「水月ちょっぷぱーとつー、なのら!」
「がふっ」
立ち上がろうとした利華の後頭部に手刀が炸裂した。頭を押さえつけられる形になり、利華の鼻がテーブルに擦れる。
「……あれっ、草は? 世紀の大発見は?」
ようやく正気を取り戻した利華は何が起きたのかを整理し始めた。
(なんで出会ったばかりの少女がここに? まさか尾行されたっ!?)
利華の不安をよそに、少女はアホ毛を天井に向けたまま話し始めた。
「よもや間違えられるとは思ってもいなかったのだな。リカーは低血圧なのだな? 寝起きに髪の毛を抜かれそうになったのは初めてなのだ」
(リカーって、アタシは酒類じゃ……)
「むむっ。その顔は、もしかしたらもしかして、ミーがここにいる理由を知りたいのら?」
「……できれば最初からお願い。とくに草について」
利華は深々と頭を垂れ、少女は頬をふくらました。
「雑草さんから離れてほしいのだなー」
つまり、要約するとこういうことだ。
図書室で睡眠中の利華は少女の自慢のアホ毛を緑色に間違えて、草と認識してしまった。危機感を察知した少女は寝ぼけた利華を起こそうと手刀を振るった。しかし、少女のひ弱な威力では一度で起こせなかった。そして二度目の手刀でようやく利華は覚醒した。
「別の起こし方があったのでは……それともこのアタシがいぎたないと? 青い小人さん?」
率直な感想を述べた利華は少女を見つめた。向かい合っている二人は必然的に視線が合う。利華の鋭い瞳は少女を射抜いていた。
「小人ととは、とても嬉し……じゃないのだ! ミーには遠藤水月という名前があるのだなっ」
「それでは水月さん。簡潔に述べます。一度しか言いません。よく聞いて下さい」
「なっ、なんなのだな」
気後れした水月は唾を飲み込み、利華の唇をまじまじと見つめた。
「アタシに関わるな」
凛とした声で言葉を紡ぎ、利華は誰かを嘲笑うような不敵な笑みを浮かべた。
「…………ひっく」
「なんで泣くの? アタシが惨めだと言いたいわけ」
水月の嗚咽は、利華に油を注いでしまった。
「あんたに何がわかるの? 何もかも奪われたのよ。幼い頃からずっと!」
利華が剣幕になるほど、水月の大きな瞳はダムのように涙を溜めていく。
「泣けばいいとでも思っているの? だから嫌いなのよ。幸せな家庭で育って、不自由のない、あんたみたいな子が……っ」
幸せな家庭――。矢継ぎ早に言った利華は自分の首を自分で絞めていた。
「ワーワー煩いな! これ以上、あんたと話すことなんかない。帰るっ」
泣き喚き続ける水月を残して、利華は帰る準備にとりかかる。鞄の中に荷物をしまって、すぐさま図書館から逃げるように立ち去ろうとする。突然、水月がおもむろに口を開いた。
「緑色が与える印象。やすらぎ、平和、安全……。そして毒や疲れ。利華にはぴったりじゃない? その上、トーナス値が低いことから、筋肉が弛緩しているでしょうね」
その声は水月の方から聞こえる。利華は、その妖艶な声を水月が出しているとは信じたくなかった。しかし、この状況がそう物語っている。利華の背中は瞬時に凍りついた。
「貴女は図書館に逃げた。やすらぎを求めて。だから、ここで休息をとった。何か違う? 渡瀬未菜の実姉」
「……どうして、妹を……っ、あんたもあいつらの……!」
「だとしたら?」
水月はいつの間にか泣き止み、潤んだ瞳を輝かせていた。あまりの豹変ぶりに利華は一抹の恐怖を憶えた。青い瞳の奥にある光が利華を逃さない。その光が涙なのかどうか、利華には判断できない。
「アタシを操るの? 抵抗できないと知っていて」
「……憫笑を誘うわね、貴女」
目を細めて怪しげな笑みを浮かべる水月に利華は反論できなかった。
バサッ、と利華の手から鞄が落ちた。同時に声なき苦痛な叫びが、図書館に響き渡る。だが、叫びに応えてくれる人物は誰一人として存在していなかった。
中身をばら撒いた利華の荷物の山の中に、一枚の写真が埋まっていた。そこには両親とおぼしき二人の人物と、その前で無邪気に笑う少女が写っていた。そして黒のマーカーで塗りつぶされた赤ん坊が母親に抱かれていた。