選ばれた少女
緑が萌えはじめる四月。ぽかぽかとして生温い風が授業の終了を知らせてくれる。換気を行うために窓が開け放たれ、四角い窓を覆うカーテンがひらひらと舞い、教室の中から校庭の風景が一望できた。四角い窓に切り取られた風景は、いつもと変わらない。新たな息吹や季節の移り変わりは見ていて楽しい劇のようであった。さすがに四年目ともなれば見慣れてしまい、いちいち感動できなくなってしまったが。
変化に富まない毎日を、この場所で過ごすことに慣れてしまった。ただ物思いにふけっているだけなのに。ただ純粋に求めているだけなのに。
机の上で頬杖をついていた少女――渡瀬利華は虚空に向かって睥睨していた。もともと強面なので、より近寄りにくいオーラを放っている。そのため彼女に睨まれた人物は恐れを抱いてしまうのだ。触らぬ神に祟りなし。クラスメイト達はそそくさと教室から退出していく。
がやがやと廊下から聞こえる話し声も、彼女の興味をそそることはできない。
「今日はどこかに行く予定もないし、早く帰る理由がないんだけど」
独り言を吐き出し、利華は無意識に空いている手で右目に触れた。眼球に直接触れることは誰でもできない。彼女の右目は黒い眼帯で覆われていた。白いガーゼではなく、正真正銘の眼帯が隠している。
嫌味を向けられる相手がいなくなり、利華は苦虫を噛み潰したような顔になった。
気分を一掃するために、彼女の足はお気に入りの場所へと向かっていた。
廊下に出て階段を下り始めた頃、どこからか拍手喝采が聞こえてくる。その音に入り混じり、黄色い声も耳に届いた。とくに行事は無い筈なので、不審に思ったが――、
「なにしてんだろう……。寄ってみようかな」
新たな世界が眼前に広がっていることを期待してしまい、胸が躍っていた。
(べつに興味があるわけじゃない!)
心の中で漠然とした何かを否定した。しかし、それだけではこの胸のときめきを抑えられなかった。声のするほうに近づくと、だんだん声が大きくなってくる。同時に心が高揚してくる。
「あれ?」
果てしない廊下を歩いて数分後、道は二つの方向に分かれていた。高等部の校舎には不慣れだったので、どこに続いているのかわからない。反対方向に出てしまってはいけないと、ブレザーの胸ポケットから生徒手帳をひっぱり出した途端、急に静寂が訪れる。それでも利華は耳を澄まして音源を探ろうとした。
辺りはまだ明るい。西日が利華を照らし、静まりかえった教室は恐ろしかった。
「ん~、もういい。期待していたアタシが間違っていた!」
この場から立ち去ろうと踵を返したときだった。顔の前に、ちょこんと黒い物体がある。利華は反射的に左目でその物体を熱視した。
「あにゅぅ?」
そこには人形めいた美貌をもつ、一人の少女が佇んでいた。意味不明な言葉を発しているが、ここに居るということは恐らく高等部の生徒なのだろう。けれども、どこからどう見ても高校生とは思い難い容姿をしており、利華は自身の目を疑ってしまった。もう左目しかないというのに。
「そんなに熱く見られると、照れるのだな……」
「――! 申し訳ありません」
相手の神経を逆撫でしないよう、利華は敬意を込めて謝った。
「うにうにぃ~、謝らなくてもいいのだな。ミーの心は海よりも広いのだな!」
「あっ……そうですか」
(海よりも広いって、頭がいかれているんじゃない? 人間の身体の表面積よりも確実に大きいんだけど)
その他突っ込みどころが満載だったが、とりあえずスルーしておいた。言い出したらきりがないという結論に達したからだ。
「それで、このアタシに何か用?」
初対面の少女が気に食わないのではない。青みがかった黒い髪は神秘的で光の届かない深海を連想させ、髪と同じ色を放つ瞳に見つめられると体の奥底から得体の知れないものが湧き上がってくるような錯覚に陥る。また、極端に無駄なものがない体つきなので、抱きしめたら折れそうなくらい線が細いというのが利華の第一印象だった。
「それはミーの台詞なのら!」
「どういう意味?」
と利華は間髪を容れずに聞き返した。
「つまり、ユーが……」
少女は一息つき、利華を目で捉えた。利華は息を呑み、その少女を見返す。
「ユーがミーに助けを求めていたんだなっ!」
言い切った後、少女は起伏に乏しい胸を張らせた。
「はあ? どんな話を聞かせてくれるのかと思ったら……」
少女の言葉を、利華は平然に笑い飛ばした。
「ミーは可笑しいことぉ、言っていないのだな」
「なら教えてあげる。悪いけど、アタシはあんたに助けや慈悲なんて求めていないし。勝手な妄想はやめてくれる? 第一、初対面の人に言われたくない」
「えぐぅ……」
利華の放った一言で、少女は顔を曇らせる。あどけなさを残す美貌に陰りがうまれた。
(こういう、線の細くてか弱そうな人って嫌い。弱いから他人に――)
「だったら、初対面でなければいいのだな?」
「……一生、会いたくないけど」
「いいのだなっ、いいのだな!」
利華の一撃が耳に届かなかったのか、少女は利華に詰め寄った。その度に頭から伸びている触角のような髪の毛がぴょこぴょことはねている。それがいわゆるアホ毛だと利華は即座に悟った。
「だから、なんでそうなるの?」
喜々とした表情に押され、利華は不承不承答える。
「まあいいけど。また会えたなら……」
「はいな! 次回の来訪者なのだな。ちゃあんと席を空けて待っているのだな!」
(席……?)
どこか引っかかったが、利華はその場を去った。
「さようなら、なのだ~」
少女の手を振る姿が容易に想像できたため、決して顧みらなかった。
「出ていてほしのら、ねぎとろぉ」
「……だから、俺は『ねぎとろ』じゃねぇ。凪人だ。二文字目しか合ってねぇだろ」
利華が去っていった後、近くの教室から一人の少年が姿を現した。力のない返事をした彼は「かったりぃ」とぼやいて少女に近寄る。二人の身長差は頭一個分ぐらいで、彼からは少女の旋毛がよく見えただろう。
「うにゅ? ねぎとろじゃねぇ、ねぎとろだ?」
彼はポケットに手を突っ込んだまま大きな溜息をついた。ネクタイは曲がり、制服にはシワがよっていて、まるで虫が服の下で蠕動しているようだ。手入れを怠っているのか、栗色の髪の毛は無造作に跳ねている。唯一、上履きの踵を踏んでいないところが彼の美点だろう。
「んで、俺にどうしてほしいと? 〝生の象徴〟」
「うーんと、〝死の象徴〟は、あの眼帯を見て何か感じるのだな?」
鳥の囀りのような甲高い声を〝生の象徴〟と呼ばれた少女は一変させた。先程とはうって変わり、はっきりとした言葉を紡いでいた。独特の語尾はそのままだが。
「生まれつきだと思うぜ。別に珍しくも――」
「…………」
「お前の柄でもねぇ、なにか言えよ。気になるところがあるのか? 調査書は彼女の右目について触れていねぇぜ?」
と、黙りこんだ少女を少年が促した。
「ミーの勘……あの目はきっと見えているのだな」
少女は躊躇いながら少年を見上げた。
「ミーは、あの子の視界に入らないように立ったのだな。なのに気付かれたのだな」
「足音をどかどかと、させていたとか。……違うか?」
「そこまで重くないのだ!」
首が折れそうなほど少女が勢いよく頭を振る様子を、少年は冷ややかに一瞥した。
「そうだな。お前がそんなヘマをするはずが……あるか」
「むぅ。ミーは立派な、れでぃーなのら! 子供扱いしないでほしいんだなっ!」
少女の必死な抗議を尻目に、
「……確認しに行くのか。〝生の象徴〟として」
と少年は核心を突いた。
「はいな! みんなの笑顔を見るために、ミーは雨の中や土の中を進んでいくんだな」
「いや、土の中はやめておけ」
「そうでもないのだな。大地の恩恵なのだ、とぉっても温かくて極寒の日には必需品なのら!」
「お前の言葉に反応した俺が馬鹿だった……」
小さな声で少年は呟いた。
「〝死の象徴〟、なんで頭を抱え込んでいるのら? ……痛いの痛いの飛んでけなのだ」
「せめて、その……癇に障るしゃべり方を直せ」
「うに? 海栗は美味しいのだ。……あれ? うに……海栗……海」