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生と死の象徴  作者: 楠楊つばき
プロローグ
3/41

生の象徴



 生き抜かなくてはならない。

 自分の命が燃え尽きるまで。

 たとえどんなに多くの犠牲を払ってきたとしても、自分の人生だと胸を張りたい。

 これこそが〝生の象徴〟たる所以――。



 

 『関係者以外立ち入り禁止』というプレートを掛けている部屋に一人の女性が入っていった。海を想像させる髪は無造作に揺れ、白く塗られた室内がその存在感を引き立たす。身を隠すための漆黒のトレンチコートも、その効果の手助けをしていた。彼女の前では衣服などお飾りに過ぎない。どんなに安値なものでさえ、彼女が身につけるだけで高級品に様変わりするであろう。そんな輝きを彼女は放っていた。


 室内の床には数えられないほどの資料が散らばっていた。その割に埃まみれで人が生活している跡が全く見られない。最後に手を加えられたのはいつだろうか。それともこの部屋の主が掃除嫌いなだけか。……などと考えた彼女はとりあえず誰もいないことに安堵し、古びた机の上にあるノートパソコンに飛びついた。


 余程急いでいたのか、起動後間もないうちに、青白い光沢を持つメモリースティックを差し込んだ。ディスプレイに表示されたことを確認し、デスクトップにあったフォルダを開いた。その動作からは躊躇など微塵も感じられなかった。

 雪のように白い指がキーボードをたたいていくとともに、様々な情報が映っては消えていく。


(パスワードを変更していないなんてね。まっ、こちらとしては大助かりだけど)


 やがて全ての工程を終え、先刻データをコピーさせたメモリースティックを上着の中に隠した。念入りに準備をしたのであろう、膝丈まであるトレンチコートの上からでは、隠し持っていることに気付くことは容易でない。


 彼女は片目で覗けるほどの間隔に扉を開いた。廊下も静けさに包まれていて足音ひとつさえ響いてこない。心の中で任務成功に快哉を叫びながらも、細心の注意を払う。簡単に侵入できた事態に、少なからずの警戒心を抱いていた。


(誰も見当たらない……。よし)


 そう、細心の注意を払ったはずだった。


「誰かいるのか?」


 口から心臓が出そうになった。呼吸することも忘れて固唾(かたず)をのみ、警備員が過ぎ去るのを待

つ。神経を研ぎ澄ましているからか、心臓の鼓動が普段より力強く聞こえた。


(邪魔っ、早く消えなさい! 私はこれを生きて持ち帰るのよ!)


 絶対に生還する。それは紛れもない本心であり、本願でもあった。そして爪を立て、両手に力を込める。爪が手の平に深く突き刺さると、生きている事を実感できた。

 一方、隣の部屋から出てきた警備員は仄暗い廊下を見渡していた。


「? 気のせいか」


 声が聞こえた気がした、と呟いて警備員は頭を掻きながら部屋に戻っていく。


(この隣って何の部屋だったっけ。どうして警備員がここに居るの? 昨日のこの時間には居なかったはずなのに)


 耳を澄ませると、扉が閉まる音を聴いた。直ちに思考を停止させ、疑問符を頭の中から排除する。考えることは施設内からの脱出。それだけでいい。このデータが世間に露見されれば、必ずどこかの勢力が動かざるをえなくなる。


 青い瞳は明後日の方向を見て、まなじりを決していた。もう一度ドアノブに手をかけ、体がすれすれ通れるくらいの幅まで開いた。


「いや、確かに誰か居たような――」


 直後、二人の視線が交わった。


「おい貴様っ、誰だ!」

「くっ」

 迂闊にも、扉から出て行く瞬間を見られてしまった。防犯カメラに映らないために敢えて複雑な道筋を選んだことが婀娜(あだ)になったと、彼女は後悔した。脱出するための道筋を思い浮かべ、警備員の反対方向へ無意識に駆けだした。薄暗い明かりの下で二人の距離はなかなか縮まらず、長い攻防戦が繰り広げられた。


(ねぇ、もしかしたら逃げられないかもしれない。けれど……)


 この施設の防衛手段が一体何なのか理解はしていた。それが最終手段であることから、重要な情報が扱われていることをたやすく(かんが)みることができた。

 未暮(みくれ)学園研究都市。その一画にある研究施設は全て、常時使用されている。時には学園の授業施設としても。時には、とある実験施設としても。


 張り詰めた空気。

 乾燥している施設内。

 春が間近であるというのに、どこか冷たく怪しげな雰囲気が漂っていた。

 生命の息吹が欠落しており、生物が存在しているのかも疑わしい。

 呼吸をしているのに息苦しい。


(愛しているわ……水車、和史さん。これからもずっと)


 最愛の人に告げる想い。ほろりとこぼれた涙は少し、しょっぱかった。


「……はい、研究長! 予測通り何者かが侵入してきました!」


 後方から発せられた話し声が耳に届く。警備員は懲りずに追いかけてくるようだ。後ろにいる警備員を一瞥してみると、携帯電話を耳にあてながら走るさまは滑稽で、腹の底から笑いがこみ上げてきた。身長は高いが、上ずっている声から判断して経験不足な若手だろう。こんな若造には、この施設の存在理由でさえ理解できているはずがない。


「えっ! 今、なんとおっしゃいましたか!」


 少しずつ、廊下が淡い光につつまれた。非常口が近くに在ったので日光かと思ったが、どこかが違う。異様なまでの静けさが体を蝕んでいる。危険だ、と肌が粟立つ。


「逃げなさいって、どうしてですか! ……早く俺の質問に答えろ!」


 警備員の罵声に似た声からは必死さが十分に伝わってきた。上司に口答えしたために、翌日には解雇させられるかもしれない。反駁しても無意味だ。声を荒げても止めることはできない。すでに回り始めた歯車は簡単には止められない。


「ああ、やっぱり。間に合わなかったのね」


 と足を止め、自嘲気味に彼女は笑った。つられて警備員も足を止めた。


「きっ貴様、なにが起きているのか、しっ、知っているのか!?」

「……さようなら。名も知らない警備員さん」


 別れを告げて振り返った彼女の姿はとても美しく、慌てていた警備員は目を奪われていた。

 終わりは突然にやってくる。落雷のような爆音が次々と轟き、爆風を巻き上げながら瓦礫が飛び散る様子を、青い瞳は見逃さなかった。




「はぁっはぁ……はぁ、かはっ」


 口元を押さえていた右手にドロドロとした血を吐き出した。しきりに肩で息をし、肺は酸素を取り入れ続けている。即死から回避できた僥倖を喜んではいたが、手についた生温い血を拭う気力はなかった。ドン、と体に何かが衝突した。いつもならばこれぐらいの衝撃に耐えられるはずなのに、鉛のような体はいうことをきいてくれず、腰が砕けてしまった。


「あ……っ」 


 割と間抜けな声だったと思う。体重を支えられなかったので、足がよろめいた。近くにあった柱のようなものに掴まることで頭からの転倒は防げたが、崩れるように倒れこむ形になった。じんわりと痛みが襲う。


「一体、どこまで飛ばされ、たのかな……」


 声を振り絞るだけで精一杯だった。かすれてしまい、助けを呼ぶことはできない。そもそも、こんな辺鄙な場所に人なんているだろうか。研究者以外であれば余程の物好きだろう。

 よく見ると、あたり一面瓦礫の山と化していて、あの施設は半壊状態になっている。奇跡的に自分の命はとりとめられたらしい。無傷ではなかった。服は擦り切れて血がにじんでいた。


(そうだ。あれは無事……?)


 無造作に上着の中に血まみれの手を伸ばす。その手の中には傷一つないメモリースティックが握られていた。


「良かった……」


 ひとまず安堵した。もしも壊れてしまったら元も子もない。全てが水の泡となる。改めて、これを作った自分を褒め称えた。それから何となく空を仰いでみた。思い出すのは今までのこと。家族と過ごした日々。愛しい人の笑顔。そんなことを顧みるだけで笑みがこぼれた。


「……おねえさん、なんで笑っているの? なんで? どうして?」


 いつから居たのだろう。まだ幼い少年が自分の顔を覗き込んでいた。五、六歳と思われる少年の栗色の瞳は透き通っていて、彼の性格を表しているようだった。


「うーんとね、大切なものを思い出していたの」

「たいせつなもの?」

「ええ。お姉さんのとっても大切なもの」 


 二十代半ばになっても自分のことを『お姉さん』と呼ぶことは正直恥ずかしかった。


「たとえば?」

「やっぱり笑顔かな。笑顔を見ているだけで心が温かくなるもの」

「なら、ぼくもっ」


 そう少年は言って満面の笑みを浮かべた。あどけなさがある顔は、くしゃっ、となっていた。


「ふふっ。ありがとう」

「どういたしまして!」


 施設の残骸が周辺にあることを自分は忘れていた。突如、二人の幸せを邪魔するかのように強い地震が襲い、その地震に驚いたのか、少年は自分の体にしがみついてきた。微かに袖を掴まえている手が震えていたが、じっと地震がおさまるのを待っているようだ。


(泣き叫ばないなんて、この子は強いのね。この血にも驚かないなんて……)


 自然と、少年が掴んでいる所に目を凝らしていた。この少年は年齢の割には肝が据わっている。そんな自分の勘を信じ、伝わるよう丁寧に言葉を紡いだ。


「……お姉さんとの約束、守れる?」


 少年はゆっくりと顔を上げた。


「これをある人に届けてほしいの」


 上着の中からメモリースティックを取り出し、少年に渡した。


「これを……受け取って」


 少年は躊躇していたが、彼女の勢いに押されて渋々受け取った。そして食い入るように渡された物を見つめ、硬い表面を指で触れた。


「おねが……い。私の大切な……に」

「――えっ? おねえさん聞こえないよ!」

「お、ね……がぁ……い。きっと」

「おねえさぁん!」


 瓦礫の山の一部が二人をめざして落下し、彼女は最後の力で少年を突き飛ばした。


 


 彼女の亡骸(なきがら)は発見されていない。



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