利華宅
「カボチャ、ぶり、豆腐などなど。和風ね、あんたの好み?」
買った品物を指差す利華が口を切った。灯亜は慣れた手つきでエプロンを着ながら答える。
「カボチャの甘煮は水月さんの好物ですわ。ですから、残りの品は和風に統一したほうがよろしいかと」
台所には利華と灯亜が並んで作業出来るくらいのスペースがあり、灯亜は手際よく買い物袋から食材を取り出した。冷蔵庫を開けた利華は殺風景な光景を歯牙に欠けずに、一人分ぐらいの残り物を手にし、それが食材に紛れるように一緒に置いた。
「せっかくだから使って」
「はい……腕が鳴りますわ」
二階建ての家は一面複層フローリングの床だった。落書きされた形跡はなく、白く塗られた壁の亀裂はいくらか目立ったが、せいぜい築十年ぐらいであろう。灯亜は調理器具の位置や状態を利華に教えてもらい、早速準備に取り掛かった。
「トーナス、トーナス! ミーの大好きなトーナスなのだな。あとう、ありがとうなんだな」
調理場に入れてもらえなかった水月は大好物の登場で気を良くし、くるくると回っている。勢いあまってどこかにぶつかったのか、微かな悲鳴と鈍い音が聞こえてきた。
(久しぶりかもしれない。こうやって誰かと話しながら生き生きと調理するのは……)
利華の母親は夫の暴力に耐え切れなくなって家出した。十歳の利華と五歳の未菜を見捨て、自分だけ安全な場所に逃亡したのだ。そうして家庭は崩壊した。父親の暴力は次第にエスカレートし、姉妹の心に傷を残した。未菜が人目を怖がり始め、保護のために入院することになったのはそれから間もなかった。その上、父親の帰宅は遅い。そこらへんで酒に明け暮れているのだと利華は言及したこともない。
「うにゅ、あとどれくらいで用意できるのだな?」
水月はリビングの椅子に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしていた。
「……あんたはお腹をすかせる犬? 働かざるもの食うべからずだし」
わき目も振らず、利華は半分のサイズのカボチャに包丁をおろしてより小さくし、火が通りやすいように切り揃えた。硬い皮に差し込まれた包丁は何でも簡単に切れそうなくらい鋭利だった。
「利華さん、ここはもう少し大人になりましょう。……水月さん、まだ時間が掛かりますわ」
「うー、はいなのら。ちょっと探検してくるのだ」
包丁がまな板に当たる度に水月の食欲をそそっていく。せっかちで我慢が苦手な水月はつまらないのか、利華の生活空間であるこの家を探索し始めた。
「……はぁ。あの子は待っていれば食事が用意されていると勘違いしてんの?」
「無理はありません。水月さんは調理する必要性がない、という根本的なところからわたくし達と違いますから」
「ふーん……あの子がどんな生活を送っているのか知っているような口振りじゃん」
「ご覧になれば、いやが応でもご理解なさいますわ」
灯亜は口を濁しながらも神妙な面持ちだった。
利華の家は必要とされていない部屋のほうが多い。物置として使われているのではなく、建築後に人の手が一切加わっていない部屋もある。生活スペース以外は換気されてこなかったのか、若干埃臭い。他にも原形を留めていない食品が饐えた悪臭や酒に似た、つんとする臭いをはじめ、ない交ぜにされた得体の知れないものが様々な手段を駆使し、吐き気を誘う。水車はゴミ捨て場のような所で生活している利華の体が心配になった。
「ごほっ、けほっ。……家族関係はぼろぼろだったようね。何よりも荷物が少ない。一歩間違えれば今頃乞食だっただろうに」
水車は指紋隠滅用の手袋をはめ、階段前の地点を中心とした探索経路を頭の中で想像させてから、気長に二階から一部屋ずつ当たった。二階には十分な日光が取り込まれ、鼻を刺す悪臭は幾分か楽になり、神経を尖らせることができた。
最初に入ったのは子供部屋だった。ベッドの周りには、ぬいぐるみが持ち主の帰りを待つかのように、ほったらかしにされていた。その中には『みな』と拙い字で書かれた落書き帳があり、中身は全てクレヨンで描かれた林檎のような赤色の丸い物体ばかりだった。円が重なる年輪ではなく、朝顔の種子が詰まっている袋のような流れのある描き方であった。
「〝紫苑〟の太陽……の絵? 赤色――興奮、活動、不満、攻撃。……裏当主としての役目をこの頃に知悉し、この事態をすでによんでいたのか」
決定的な証拠品は見つからなかったので、未菜の部屋と隣接している部屋に足を運んだ。
「〝ガーベラ〟の部屋ね。整頓されていて、生活感がある」
ざっと見渡すと、シールが貼られた本棚には教科書を始めとした勉強道具と色褪せた表紙の日記帳があった。日記帳を捲ってみると、箇条書きで感情は一切記入されていない。目を覆いたくなる言葉が淡々と書き連なされ、当時五歳の子供には理解不能であるはずの漢字や言い回しが使われ、実際の出来事を忠実に記録していた。
「約十年前……研究所爆破の数日後から始まっている」
二〇〇〇年三月十日。砂川と名乗る男性が家に来た。利華に用があるみたいだった。お父さんとお母さんがその男と言い争っていた。生後六ヶ月前後の未菜が大人達の罵声で泣き出してしまった。男が生気の失った顔をこちらに向けてきた。お父さんとお母さんは男を追い出した。
二〇〇〇年三月十二日。男が懲りずにまた来た。その男は利華の目を見て「羨ましいほどの青い瞳だ、ぼくも欲しい」と言って、利華に手を伸ばしてきた。お父さんが荒っぽく男の手を振り払い、利華は事なきを得た。
二〇〇〇年三月十五日。男の目は血走っていた。かのこゆり、かのこゆり、と何度も叫び続けていた。男は利華のお母さんを包丁で刺した。救急車が来た。お母さんは生きていた。運ばれた。お父さんは利華を殴った。「おめーの瞳が青いのが悪い」と、目の周辺を重点的に――。
「……砂川。月の目を継承せず、白浜から追放された愚者。〝鹿の子百合〟の遺体を秘密裏に入手し、それを蘇らせたいのか、あるいは自身も白浜に返り咲きたかったのか、〝ガーベラ〟を実験材料にした……」
水車は日記帳を元の位置に戻し、他に目に付くものがないか確認して部屋から出た。
「二階は見晴らしが良いと考慮するれば、一階にあるはず。見ることと見られることは裏腹よ」
臆病だと銃撃戦に加われないと呟き、階段を下りて台所に遠い方から順々に回ると、長年の勘である部屋の前で足が止まった。そこは何も掲げられていない一室だった。
「……僅かに、血の残り香がある」
殺風景を超越した空虚な部屋にはカーペットが一枚ひかれていた。マジックミラーはカーテン等で隠されていない。昼間は外から見えないが、夜間になるとこの部屋はまる見えになるだろう。
「犯行は日中。おおかた、マジックミラーは紫外線を遮断する断熱効果のためと偽った。まさか……ここで虐待が行われていたとは誰も思っていなかったでしょうね。六日の頭部への切り傷は早朝に受けたものである、という事実を本人が決して語らないとは筆舌に尽くし難い」
水車はスカートの中から手の平サイズに改良した全方位式監視カメラを取り出し、それを天井に投げつけた。それは蜘蛛の糸のように触手が伸びて天井を埋め尽くし、レンズ部分は変色した。
「試作品のため、どうしても突出してしまうか」
消火用のスプリンクラーにしか見えない監視カメラは凶行を記録するものであり、水車は利華の家に設置する機会を窺っていた。今回の夕食は灯亜に覚られないようにするためでしかない。
「この精度であれば〝タンジー〟のような機械オタクの目を欺けられる」
スカートの中に隠されていたのは監視カメラだけでなかった。水車はあらかじめ除去しておいた盗聴器を踏み潰し、
「盗聴するなんて本家のやり方に背く。〝ジギタリス〟は〝鹿の子百合〟にしか興味を持たない。とすれば、次期当主候補の誰かが執拗に嗅ぎまわっているようね。私もそろそろ本領発揮か……」
と呟き、調理をしている二人が待つリビングへ戻った。
テーブルの上に並べられているのは質素な和食ながらも、料亭に引けを取らない一品だらけだった。輝いている白いご飯、それと相性抜群の湯気が立っている豆腐の味噌汁、カボチャの甘煮、ぶりの照り焼き、そして冷蔵庫の中に安置されていた余りものを使用したサラダ。一人暮らしではありつけない、母の味を思い起こせる。
「あんた正真正銘の高校生? 三枚下ろしとか凄すぎ」
「旅館を経営いたしていますから、修行の一環ですわ」
「そうよね、霧生家は旅館のオーナーだし。アタシとは生きている世界が違う」
「……そうでもないですわ」
「うに、食事中に喧嘩はご法度なのだな。二人とも早く食べようなのだ」
居心地が悪い水月は二人を仲裁して椅子に座り、床につかない足を安静にしていた。後をついで灯亜と利華が向かい合うように座る。
「いたたきますなのら~」
「頂きます」
「……いただきます」
利華は最後に言い、二人の様子を盗み見みながら箸を手に取った。
「うにうに、あとうのトーナスの味付けは完璧なのだ! ほっぺたが落ちてとろけそうなのだ」
水月は真っ先にカボチャを頬張り、美味しそうな顔をする。頬を膨らませるようにして食べる仕草はリスであった。利華は作法に腹を立てる人種でないので、水月の刺し箸を黙過した。
(うわ……その感想どんだけだし)
頬が落ちるとはいくらなんでも言いすぎだ、と利華はカボチャを崩して口に運び、ゆっくりと味わった。舌で転がした時に思わず感嘆の声を上げてしまった。
「リカーもほっぺたが落ちているのだ。ミーが拾うのだ!」
食卓を誰かと囲んだのは久しぶりだった。父親と一緒に住んではいるが、互いに自分の分は自分で用意し、別々の生活を送っている。顔を合わせるのは家を出発して学校に向かう時ぐらいである。利華は親の職種を知らずにこれまでの十五年間を過ごしていた。
「あっ、水月さん。お口の周りが汚れていますわ」
灯亜は水月の口を清潔感が漂うハンカチで拭いた。口の周りを汚すような品はないはずだが、水月は箸を持ち始めた子供のように危うい手つきのため、口に運ぶ時に失敗していたのだ。
(お箸を満足に使えないなんて、人生をやり直したほうがいいんじゃない?)
「うぐ~、トーマスがミーから逃げているのだ」
四苦八苦しながらも水月はカボチャに箸を差し込み、達成感も一緒に咀嚼していた。
「だったら、それを食べなければいいじゃん。他にも料理はあるんだし」
「ふへ?」
利華は口走ってしまったことを後になってから後悔した。
二本の箸が水月の手から抜け落ち、ころころとテーブルの上に転がった。それらの持ち主は両手を口に当てていた。眉間にしわが寄るほど目を力強く瞑りながら声にならない呻き声を上げ、端から見ればワサビが効きすぎて涙ぐんでいるような人だった。
「む、無理をなさらないでください……。あっ、利華さん、手伝っていただけませんか?」
利華は事態が飲み込めず、頷くしかなかった。
水月は布製のソファーに横にされ、寝息を立てていた。灯亜は布団やベッドに寝かせたかったようだが、利華はその提案を却下し、こういう手段を取ることで落ち着いた。他の部屋は当時のままだから、と利華は心の中で言い訳をしていた。
「……あの馬鹿が拒食症? そんなはずないって」
馬鹿とは水月のことである。円満な暮らしをしているからこそ、あそこまで純粋にいられるのだと思っていた利華は、表面では平然と受け流していたが、心中ではその事実が耳についた。
(今まで無理して笑っていたはず。なんか未菜のようで……嫌だ。それら全部、水車が予想していた通りだったっていうの?)
「正式には神経性無食欲症です。僭越ながら、わたくしは水月さんと初等部からのお付き合いです。元から食の細い方だと存じ上げていました。ですが、第一次成長期後から食べ物を受け付けなくなりましたわ。なんとか夕食だけは頂いているようですが……」
さらりと仲の良さを語ってみせた灯亜に煮え切らない思いを持ちながらも、利華は静聴した。それほど受けた衝撃は大きかった。
「わたくしが目を離すとサプリメントやブロック食で済まそうとなさるため、少量で多種の品々を常時冷蔵庫に保管しています」
言い終えた灯亜は茶碗を左手で持ったまま白米を箸でつまみ、音を立てずに咀嚼していた。噛んでいるのか疑いたくなるくらい食事作法が洗練されており、味噌汁を飲む時も無音だった。
「……話の腰を折るけど、親指をお茶碗の端に引っ掛けるのはまだしも、残り四本の指をまっすぐ揃える人を初めて見た。いかにも日本人女性って感じじゃん。音を立てないで食べるという真似、アタシには絶対無理。それはあんたの為せる業? それともアタシの耳が遠くなっただけ?」
「お嫁に出しても恥ずかしくない、一人前の女性になれるようにと厳しく指導されましたから。本来なら……食事中の会話は失礼に当たりますが……」
「つまり超自我ってこと?」
料理は冷めていたが、内奥から発した熱で全身はほんのりと温かかった。利華は何か裏がある
のではないかと探りをいれながらも、今回は篤志家の水月に免じて表情に表れないように努めた。
「まあ、よくご存じで。ジークムント・フロイトの精神分析学上の概念です。心理学科の生徒は講義を受けますが、誰から教わりましたか?」
「……誰でもいいじゃんか。あんたに話す義理はない」
毅然とした態度で利華は言い放ち、音を立てながら味噌汁を啜る。この豆腐のように森羅万象がいとも簡単に崩れ去れば済むとつくづく思い、口の中に温い汁が唾液と混じって広がった。




