白夜
五月十日月曜日。憎みたくなるほどの快晴。
未暮市の気温は下がらず、まだ五月だというのに衣替えをしてしまった生徒がちらほらと見受けられた。一部の教師を除いた学園関係者は衣替えを黙認していたが、流石にエアコンの使用は認められなかったらしく、どの教室も窓を全開にしていて風の通り道を作っていた。
「あぢー……冬服なんて着てらんねぇ」
「ハニー、汗が滝のように出ているなー」
凪人がシャツのボタンを全てとめている一方で、冬馬は第二ボタンまで開けて胸をはだけさせていた。凪人もボタンを外そうと思い立ったが、担任と顔を合わすのが嫌だったので諦めた。
「冬馬、これは地球温暖化の影響なのか?」
と、机に頬を擦り合わせている、やる気ゼロの凪人が言った。磁石のようにくっついた机と頬を剥がすのは容易でないだろう。
「オレ様にもわからないな。なにしろ情報が少ないからさ、雄助くんもどぎまぎしているぜー」
「そうか……俺はあの、でけー太陽を見るだけで焼かれている気分になる。焼き鳥ってこんな気持ちだろうな」
「……凪人く~ん、ハニーにはどう見えている?」と素早く反応した冬馬が凪人に問うた。あまりにも突然の質問だったため、「何を、だ?」と凪人は聞き返した。
不意にフィルターがかかっていたクラスメイトの噂話が鮮明に耳に入ってきた。不思議がり、凪人は注意をそらす。その間、無視された冬馬は戸惑いを隠せずに、じっと質すような視線を凪人に向けている。
「ねぇ、知ってる? 昨夜白夜だったって」
「ここは日本だろ。んなこと起きるはずねーよ。白昼夢でも見たんじゃないか?」
「嘘だと思うなら、今夜見てみなよ! 絶対に太陽が沈まないから」
白夜は南極や北極に近い場所で発生する。果たして、その現象は日本で起きるのだろうか。
「……いてぇ……夢じゃねぇのか」
凪人は自身の頬をつねってみた。痛みがより頭を覚醒させ、現実感に溺れそうになる。もしくはこの現実を否定したくなった。「地球温暖化は脅威だな」と的外れであったが、凪人は割り切る事で一喜一憂せずにいられた。
*
五月十一日火曜日。恨みたくなるほどの炎天。
凪人が教室に入って最初に目に飛び込んできたのは、不機嫌そうな水月の顔だった。
「うにゅぅ~、今日も詩季が登校してこないのだな……寂しいのだな。……おっ、ねぎどろなのだ! 聞いて欲しいのだな!」
(遠藤は音無のことを本名で呼ぶのか?)
リュックを下ろした凪人は押し黙ったまま着席した。喉に突っかかっている欠伸を噛み殺して、無下に話しかけてくる水月と遊離していた。どだい、くだらない内容だろうと頭の片隅にも置かずに、先日から騒がれている異常事態について考察し始める。
「ミーはなんと、日曜日の記憶がないのだな、みすてりーなのだな! あとあと、昨日はリカーから話しかけられてびっくりしたのだな!」
無視されていても、猛然たる弾丸のように言葉を発する水月は話題を変え、興奮しているのか顔が赤く、早口になっていた。頭から生えているアホ毛の先端は二つに割れ、噴水のような芸術作品である。
「物忘れが激しいとは、年寄りだな」
「うにゅにゅー! 違うのだな、一日の間何をしたのか思い出せないのだな……」
「寝過ごしたんじゃねぇのか?」
一日の行動を覚えていない。つまり、何もしていないか普遍すぎて忘れてしまったかのどちらかだろう。凪人は奇妙なことだと思わなかった。
水月は頭を横に振り、人差し指をこめかみを当てて唸っている。
「あのさー……それは奥山くんしかいないって」
近くにいたクラスメイトが割り込んできて、凪人は水月とセットである灯亜がこちらに来ないことに疑問を抱いた。敢えて触れずに水月へと視線を戻したが、くしの歯が欠けたようで後味が悪い。
「うにー、ミーはどうしていたのだな? ママに抱かれる懐かしい夢で、問題はその後なのだな」
「水月は今を楽しく生きているよねー。見ていてほのぼのするわー……そう思わない?」
「……何とも言えねぇ」
「つれないね、奥山くんは。そういえばさ、ダチから聞いたけれど、ここのところ白夜らしいね」
「噂なのか?」
昨日の噂話を想起し、凪人は素直に尋ねた。帰宅するとカーテンを閉めて外界と隔絶させるので、最近は寝耳に水状態であり、噂に翻弄させられないよう昨日は白夜なのか確認していない。
「そんなレベルじゃないって。学園中、その話題でもちきり。ニュースとかで報道されるのは異常気温だけど、だからって夏はそれぐらいになるじゃん? 春なのに夏気分でプールとか気持ちよさそうだし。たとえ、学園が室内プールでだとしてもね~。良かったら、ウチと一緒に夜中に侵入しない?」
どうやら事態を深刻に受け止めているのはごくわずからしい。
「うにゅーうにゅー、うにゅっ!」と何か思い出したのか、水月は血相を変え、一目散に教室の前の方へと向かった。
「あーとう、今日の治療予定を覚えているのだな?」
「ええ、忘れるはずがありません。家族からは承諾されています」
「うに~、それは良かったのだな。今晩が楽しみなのだな~」
灯亜と水月から幸せオーラが漂ってくる。花々が咲いていそうな雰囲気を邪魔する勇気がない凪人は自分の席から遠巻きに二人を見物していた。
「……ほのぼのだわさ」
「ほのぼのだよねぇ~」
不意に凪人は目尻を下げているクラスメイトがもらした感想で我に返った。
(いつの間にか、俺の周りに人が集まってきている)
そのことに気付いたのは今日だけではない。入学当初、一匹狼の凪人は友人関係を築くことのない生活を送っていた。授業中に高確率で居眠りをすることや、だらしない服装で一部の人々から目を光らされていたが、凪人を直接注意する者はいなかった。だというのに、いつから自然と会話が出来るようになった。目を合わせていても、怖いと逃げられなくなった。
ある時からクラスメイト達の間で凪人がクラスの一員だという事は暗黙の了解だった。それはいつからだろう。誰かが働きかけたのか。それとも自然とそうなたのか。
「なあ……お前らに一つ訊いていいか?」
周囲にいた数人が凪人に顔を向け、「あらたまっちゃって、どうかした?」と誰かが言った。
「……どうして、俺の誕生日を祝った?」
どっと笑いが起きた。彼らが笑う理由がわからない凪人は言葉に詰まり、その質問の答えをひたすら待つしかなかった。
「ごっ、ごめん。笑っちゃって。凄く真剣だったから深刻な話しかと思ったケド、まさかねー」
とゴシップ好きのパパラッチがデジタルカメラを手慰みながら言った。
「ほんっとさ、堅物の奥山がそんなにみみっちい奴だと思わなかったぜ」とギター一筋の男子がジャラン、と親指の付け根が膨れ上がる手を滑らせた。彼はギターにたどり着く前まではドラムを演奏していたらしく、鍛え抜かれた腕がその練習の過酷さを証明していた。
「今更ってカンジ。ウチら、一年の頃から同じクラスじゃん」と漫才師を目指す女子が言った。彼女は出し物の常連であり、他クラスの生徒とコンビを組んでいる。
「ここだけの話、遠藤さんが信頼している人はみんな良い奴だぞ」
(……俺は遠藤やみんなに助けられていた。こんなにも切っても切れない仲間が近くに居たのに、自分から気付こうとしなかっただけだ)
彼らの言葉は凪人の身に余るものであり、世界が色づいて見えた。
「言えてる、言えてる。水月はさ、なんだかんだで憎めないもん。笑顔でいてくれるだけで、はわ~みたいな気分になっちゃう」
「ウチも水月っちには衝撃を受けたわー」
「まー実際、心理学科にいる奴らの大部分が影響を受けたからな」
「……遠藤ってそんなに凄いのか?」
「行動力はピカイチ。奥山くんの誕生日パーティを提案したのも水月だよ」
「あいつ、なのか……」
凪人は水月の憔悴していそうな小さな背中を見遣った。心なしか、水月の青天井の笑顔を目にするだけで胸の奥が締め付けられるような気がした。




