誕生花
執拗に辺りを見回す水月は、まるで翌日の遠足を待ちきれなくて落ち着かない小学生さながらだった。制服という目立つ格好であるのに、水月はお構いなくゴミ箱の中を覗いたりしていた。ちょこまかと動き、今度は病院の非常階段を上っている。
「かくれんぼじゃねぇんだ、そこにいるはずがねぇだろ」
「可能性は零でないのだな! 単にミーは久しぶりの病院を逍遥したいだけなのだな! うに、リカーはミーとかくれんぼをしたいのだな」
病院は遊び場じゃねぇと呆れて物が言えなくなった凪人は一人で病院の中に入っていった。ここに来る途中で病院での目的を散々聞かされたので、利華が現れない以上、病室の所在を誰かに尋ねなければならない。
病院に入って目と鼻の先にある、開けた待合室は老若男女の人々でほとんど全ての席が埋め尽くされていた。未暮市内には他にも幾つかの病院がある。その中でこの病院は専門的な手術に関しては群を抜く。針で縫う大手術を経験した凪人は、とりわけ身にしみていた。
「あの……どうかしましたか?」
受付に声をかけられた凪人は我に返り、不慣れな敬語で手短に用件を述べる。
「病室が分らなくて困っていました。……渡瀬という方がここに入院しているらしいのですが」
「はい、検索してみます。渡瀬さんですよね。患者の名前を伺ってもよろしいですか?」
「確か……未菜だ」
パソコンとにらめっこしている受付は暫くして怪訝そうな面持ちになった。
「渡瀬未菜さんで間違いありませんよね? 申し訳ありませんが該当するデータがありません。当院には入院していないようです。宜しかったら近隣の病院に電話をお掛けしましょうか?」
笑みを絶やさない受付は凪人が病院を間違えていると判断したらしい。受話器を取りに奥の方へと姿を消した。
「この病院じゃねぇのか? 遠藤や渡瀬が嘘をついたとは到底思えねぇが……」
何よりも利益がない、と凪人は呟いた。
「遠藤先生! この件は私が対処しますので、持ち場に戻ってください! 次の予定が立て込んでいます!」
壇上で訴えかけるような声は付が消えていった方向から発せられていた。その近くにいた人は何事かと顔を見合わせる。
「他の病院に電話するんだろ? それならば、ある程度名が通っているほうが話を円滑に進められるだべ」
「ですが……!」
「人を待たせちゃいけないぜ、嬢さん」と、反対を押し切って奥から現れ、カルテを手にしている男性は凪人と顔見知りの人物だった。
「……おじさんなのか?」
「おう、あんちゃん。まーた事故にでも巻き込まれたか。そんで今度は腕か? それとも足か?」
無精ひげを生やし、白衣を纏っている男性は自転車を乗り回す近所のおじさんだった。今朝は出会わなかったが、たびたび凪人を心配してくれる人である。
「いや、知り合いの病室を捜している」
「ほほう。そりゃあ、こちらの手違いだべな。こう見えておじさんは勤務歴が長いからどーんと頼ってこい」
胸を叩いたおじさんから良い音が聞こえた。外見の割には体を鍛えているのかもしれない。
「渡瀬未菜って名前だ、その子」
「ふむ……渡瀬、渡瀬、渡瀬……。おっ、毎週会うあの嬢ちゃん関係か」
おじさんはパチンと指を鳴らした。
「個室だった気がするな……おじさんが案内しようかい? 後ろに隠れている嬢ちゃんも」
ぐい、ぐいと上着を引っ張られている凪人は、
「最上階だな。これ以上おじさんに世話になる訳にはいかねぇ、自力で行く」
と、体の向きを変えた。
「うにゅう。こんにちは、なのだ……」
凪人の後ろにいつの間にか隠れていた水月は上目遣いで挨拶をした。それからまた、凪人の上着を掴み、早く行こうと目で訴えかける。
「この嬢ちゃんは、あんちゃんのガールフレンドかぁ。青春真っ盛り、羨ましいねぇ……可愛らしい子じゃないか。おじさんももうちょい若けりゃ、一人や二人ほいほいなんだがなぁ」
「うにゅにゅにゅ……、ミ、ミーとねぎとろとは、なんでもないんだな! ご、ごご、誤解なのだな!」
水月は凪人の上着から手を離し、腕をばたばたさせていた。餅のように膨らんだ頬は押したら空気が抜けるくらい限界の状態だった。その上、口角泡を飛ばしている。
「がっはははは、活きが良いねぇ。んで、あんちゃんはこの嬢ちゃんをどう思っているんだ?」
「ん? 何をだ?」と階段を見つめていた凪人は聞き返した。
「しらばっくれるなって、この嬢ちゃんのことを思っているんだろ? おじさんには、なーんでもお見通しだべな」
「だかりゃ、違うんだなっ!」
(……遠藤が俺にとってどんな存在であるか、考えたこともなかったな)
口から咄嗟に出た言葉は偽りのない本心だった。
「同志であり、仲間だな」
「……うに……」
反駁していた水月は動きを止め、凪人を見つめた。
「こいつになら背中を預けられる」
「ね、ねぎとろぉ~~」
「遠藤、行くぞ」
「はいなっ……なのだ!」
二人は仲の良さを公衆に見せつけ、階段を駆け上がっていった。
最上階の西端に、名前を掲げていない個室があった。水月が先陣を切り、その部屋に突入する。
「お邪魔するのだな」
清潔感に溢れる病室には一人の女の子がおり、最近は病室の壁紙にもピンク等の明るめな色が使われるらしいが、彼女の好みなのか生活用品も白一色にまとめられていた。そして水月が呟く。
「白――潔癖主義者、真面目、理想主義者」
「……その制服、お姉ちゃんのお友達?」
不審者と誤解され、取り乱してくるのではないかという凪人の予想は外れた。利華の妹――未菜は体を起こし、訪問者の二人に顔を向けていた。
「そーなのだ、そーなのだ! ミーはリカーのお友達なのだっ」
「病院で騒ぐな」
「……えぐぅ、ミーはリカーの心の友なのだな!」
水を差され、気勢を削がれた水月はそれでも尚、利華の友人であることを主張した。逆ならわかるが、と凪人はぼやいてから未菜を見据える。
「未菜……だっけか。わりぃ、起こしちまったか?」
「ううん、お姉ちゃんを待っていたから起きていたよ」
健気にも未菜は答え、予想だにしていない者の訪問で不思議そうな面持ちになった。警戒されてはいない。
(髪の色は似ているが、本当に渡瀬の妹なのか? なんというか想像の斜め上だな)
凪人が冷静に分析している間に水月はベッドに手をつき、未菜に顔を接近させた。
「うにゅ? リカーは来ていないのだな? ミーと待ち合わせしていたのだな」
「お姉ちゃんは今、診察中。いつもはその前に未菜とお話をしてくれるの」
「渡瀬は何か患っているのか?」
「未菜も詳しくは知らないの。お姉ちゃんは病気の話になると口を閉ざしちゃうから」
顔立ちからして未菜は小学生だろうか。水月よりも受け答えが出来ているために、そのことを忘れそうになる。凪人は相手をクラスメイトに使うのと同じ口調で話を掘り下げていった。
「恐らく右目の事だろうな。渡瀬がいつから眼帯をつけているか、知っているか?」
「いつからかな。未菜に物心がついた時からあんな感じだよ」
「……えらく、なげぇな」
「ねぎとろ、ミーはリカーが戻るまでこの子と一緒にいるのだ。その身長に親近感が湧くのだな」
駄々(だだ)をこね始めた水月は凪人におねだりし、最後に未菜を一瞥した。未菜は理解に苦しんでい
るのか、小鳥のように首を傾げ、「身長?」と鸚鵡返しをした。
「小学生と比べて何の得がある?」
凪人の率直な問いに水月は阿吽の呼吸で返答する。
「得はないのだな。ただより高いものはないのだな」
「論点がずれているぞ、おい。お前は主婦かよ」
「ミーはお買い物をしないのだ。あとうが食料や衣服関連を用意してくれるのだな」
「……さらっと仰天発言を口走りやがった」
「うにゅぅ? それでもミーは一緒にリカーを待つのだな!」
強引に脱線した話を戻した水月は自身と未菜の頬を擦り合わせた。明らかに巻き込まれた未菜は、この状況をいまいち把握できずに戸惑い、視線を泳がせている。いやむしろ、水月のペースに初対面の人が合わせられたら、その人を神だと崇められるかもしれない。暴走列車水月はそう易々と時間通り出発も停車もしないからだ。
「無理してこいつに付き合わなくてもいいぞ。嫌なら嫌と言え」
「……未菜はお姉ちゃんの帰れる場所を作るだけ。……今日は来ない気がするの。ううん……断じてここに帰って来られない。どの結末を選ぶかは……お姉ちゃん次第でも」
険しい顔で俯く未菜の姿は後悔しているように見えた。まるで重大な選択を誤り、なぜ結婚してしまったのだろう、と悔やんでいる社会人のようだった。そういう時は何かで板ばさみになっている、と凪人は勘繰る。彼は結婚を許される年齢ではないが、ご近所の井戸端会議に参加させられた所為で世間や情勢に敏感になっていた。
「終わりみたいな言い方はだめなのだな! まだ無限の未来に羽ばたけるのに、自分からその権利を放棄するとは言語道断なのだな!」
「……遠藤、それ以上深入りはやめろ。お前にだって秘密にしたい事柄ぐらいあるだろう?」
水月は違うと言いたげに首を横に振った。
「ミーは可能性が誰にもあると思うのだな。最終的に一つしか選べないだけだと思うのだな」
その直後、水月は未菜の親友のように振る舞い、また頬ずりをし、とりとめのない話で一喜一憂していた。
太陽の位置がだんだん低くなる。時間の経過と共に与えられた猶予も短くなり、終焉への足音は、そばまでやってきていた。
誰が最初に気付くだろうか。この定められた異変に。運命の歯車が回り始めた時から決定付けられたものを。それは生と死の関係に等しく、逃れることはできない。
何時まで待機しても利華は戻ってこなかった。すでに水月は眠りに落ちてしまい、未菜も、こくりと頭を幾度も垂れている。
「どんな猛獣も眠れば子猫同然だよな……」
凪人は自分の上着を水月に掛け、長袖のシャツの袖を捲くる。
「さて……未菜、起きているな」
小刻みに動いていた未菜の頭が静止した。むにゅむにゅ、と小さな寝息を立てて、ベッドにもぐりこもうとする。
「ごまかしても無駄だ。なあ、二日前に俺と話したのはお前だよな?」
目をこすった未菜は心を抉るかのような視線を凪人に浴びせた。
「目的は何だ。俺に何を求めている」
頭に伝わってきたが情報が言葉に変換されていく。それは友好的な交友をしたいという希望だった。
「今更だな」という凪人の抗議を無視し、腕を伸ばした未菜は棚から一冊の本を取り出して手元に置いた。その分厚い『植物図鑑』は小学生には似つかわしくない一品であり、付箋がついたページを開いて見せた未菜は隅っこの写真を指差して語りだす。
「〝ローズマリー〟。『海のしずく』を意味し、愛と貞節の象徴。花言葉は静かな力強さ」
ぱらぱらとページを捲り、また指差す。
「〝マリーゴールド〟。別名『マリア様の黄金の花』。花言葉は悲しみ、常に愛らしい」
「俺は花になんて興味ねぇんだが」
「〝月下美人〟。食用にでき、咲いている花は焼酎につけると保存できる。花言葉は儚い美、儚い恋、繊細、快楽、艶やかな美人」
辛抱強く待つことを決心した凪人は立ったままポケットからカードを取り出し、未菜に背中を向けた。
「〝南天〟。名前の由来は『南天燭』の略。花言葉は私の愛は増すばかり、良い家庭」
愛とか、冬馬が好きそうな台詞だぜと凪人は呟いた。
「最後に〝ガーベラ〟。別名アフリカセンボンヤリ。花言葉は崇高美、神秘。他の一説では辛抱強い、希望、常に前進」
未菜はそうして図鑑を閉じた。
「……未菜は〝紫苑〟って呼ばれているの。花言葉は――」
瞬時に反応した凪人は振り返り、未菜に問いかけた。
「ちょっと待て。どこからどうやって〝紫苑〟になる? 遠藤じゃあるまいし、どう考えてもそうならねぇ」
水月の愛称も意味不明なものが多い。あとうやしまうまは名前をもじったのだが、ねぎとろは凪人さえもわからない。
「誕生花なの。いろいろな説があるけれど、未菜の誕生日は九月九日だから」
名前でなく、誕生花で人が識別される。そんな事をする小学生はこの世に居るのだろうか。
「大人や年長の人が名前をつける規則なの」
「俺、口に出してねぇぞ」
「心の中で思っていたよね、未菜にも読める。未菜だけじゃない……訓練すればお姉ちゃんもできるようになる。今からじゃ費やせる時間はないけど……」
「訓練で出来るものなのか? 信じ難てぇな」
「今にも信じられるよ。だって、誰にもその能力が宿っているもん」
窓から爽やかな風が入り、カーテンを優しくなびかせた。
「んーと……お兄ちゃんの誕生日、いつ?」
「俺か? 俺は今日……らしい」
「らしい?」
「現実感がねぇんだ。自分の誕生日なのにな」
「誕生日は祝いの日なのに……忘れるなんてかわいそう。祝ってくれる人、いないの?」
咄嗟にクラスメイトと兄貴の顔が浮かぶ。凪人は煮え切らない思いで後者を否定した。
(兄貴が俺の誕生を祝う、だと? 奴が俺を〝家族〟だと思っている訳がねぇのに。俺が産まれなければ、親父もお袋も巻き込まれなかった)
カードを持つ手が震えてしまい、凪人はそれらをポケットに大事そうにしまった。同時に狩谷のことも思い出してしまった。
「……ごめんなさい。聞いちゃヤだった……よね。気を悪くしちゃった?」
事の重大さに気付き、未菜は俯いた。恐らく心を読んだのだろう、彼女の存在が一層薄幸に感じられ、利華と同じ色素の薄い髪は今にも消え去ってしまいそうだった。
「いつかは乗り越えられると思っていた。兄貴が俺を〝家族〟だと認識してくれると期待していた。だが所詮、俺は醜いからな……時間は解決してくれなかった」
凪人は自虐的な笑みを浮かべ、未菜の頭に手を置いた。
「だから、お前みてぇな人間が輝いて見えるぜ。子供の癖に背伸びすんなよ」
未菜は顔を上げ、その潤みがちな青い瞳が凪人の目に映った。
(無垢な瞳だな。にしても、どっかで見たことがあるような……ねぇような)
「……お花好き? 未菜がお花を選んでもいい?」
あまりにも唐突な話に苦笑してから、凪人はその言葉を真剣に受け止めて頷いた。
「よかった~。じゃあね……うーんと、うーんと」
子供の持つパワーは計り知れない。持ち前の無邪気さや自由な考え方で人の心を晴れにできるのだ。
太陽が地平線という家に帰ろうと沈み始め、一番星が広い空に浮かび上がった。
(俺は吹っ切れるのだろうか。引きずってきた二つの事件――両親と、狩谷の死を……)
「〝ローズマリー〟はどうかな。お姉ちゃんと同じくらい、未菜の大好きなお花だもん。お兄ちゃんも元気もりもりになれるよ! お姉ちゃんと一緒にね」
ほら、ここにもお日様がある。温かさを感じられる笑顔と、真心でいっぱいになったものが。
「……大切にするぜ」
氷が解けるように、凪人の心が開かれた。それは過去に繋がるたったひとつの扉――。
 




