罰への欲求
時刻はすでに五時を回ろうとしていた。凪人は新校舎に戻り、荷物を取りに来ていた。独り言を言いながら廊下を渡り、階段を上って教室へと向かっていた。
「今日は六時限の日だったから、かれこれ一時間ぐらい先生と話していたのか……久々に疲れたぜ。……ん? まだ誰か残っているのか?」
(心理学科の生徒はもう帰ったか、部活か、治療に励むかの選択肢しかねぇんだぜ?)
二階に辿り着くと、教室から光が漏れていた。凪人は怪訝そうに耳をそばだてる。微かだが話し声が壁越しに聞こえてきた。
「〝ガーベラ〟を育てているってマジか? あの、気難しそうな子を手懐けるなんてすげーっス! 尊敬しちゃうぜ、マスター!」
「知っている。それよりもオレは目的の品が入手できただけで満足さ」
「僕もあれの……が手に入るとは驚きっス。研究材料が増えて、…………に身が入るので」
「まさかオレも…………っ!」
「マスター? 何か……」
声は途切れた。どうやら気付かれたらしい。
「入るぜ」
内容の半分以上を理解できなかった凪人は躊躇わずに勢い良くドアを引いた。
「おっ、凪人く~ん。こーんな時間まで先生と面談だったのかぁ。お疲れさーま」
教室に残っていたのは冬馬と、ネクタイの色から判断して機械科の男子生徒の計二人だった。
「冬馬、まだいたのか」
「そーなんだよ。ハニーに勉強を頼まれてなぁ……女の子だったら手取り足取り教えられるけどさ、野郎でなー」
「僕が悪いのかよ! だったら冬馬もレベルを下げて、丁寧に教えろっ! 専門用語の解説はきちんとやってくれ!」
「ハニーは頭のできが悪くて、オレ様大変なんだよぅ。これ以上、レベルを下げるのはオレ様でも無理だなー」
「ば、馬鹿にすんな! 僕だって、めっちゃ頑張っているっス」
「へいへい……ハニーは妄想中、っと」
「はぐらかすな! ……、あ」
見知らぬ生徒が凪人を見つけて、つかつかと近寄ってきた。
「初めましてっス! 僕は雨宮雄助、機械科二年で、機械いじりが趣味で……このゴーグルは僕の相棒だッ」
雄介と名乗った生徒は日に焼けていて快活そうな印象だった。元気が有り余っており、水月と同類の匂いがしている。赤茶の髪はそんな彼と相性が良く、青いゴーグルはバンダナのように頭に巻かれていた。
「……よろしく」
眉一つも動かさずに社交辞令を告げた凪人は自身の机に向かった。
「くらっ! 暗いよ、暗すぎる! それじゃ、青春時代の半分は損っスよ!」
「青春ってなんだ?」
首を傾けた凪人は冬馬に体を向けた。冬馬は働きかけに素早く応え、雄助のノートを覗き込みながら言う。
「オレ様みたいな人が謳歌している時期で……ハニーには一生縁がないかもなぁ」
ページを捲る音が連続的にし、場をかき乱す。
「そうなのか? だったら興味ねぇ。冬馬と同じ扱いをされたくねぇしな」
「おー、容赦ないなぁ。そりゃーな、もしもオレ様が二人いたらハニーの意識が……」
会話の最中に冬馬は独り言をし始め、凪人は普段通りだと胸をなでおろした。
(俺が心配しすぎたな。冬馬がこの世の終わりみたいな顔をする奴じゃねぇし……)
「あちゃ~、冬馬が薔薇色の世界に突入したっスね……って、何で僕を見下ろすんだ? あーっ、凪も僕が小さいとか言うんだろ! ……どうしてこんなにちっこいんだろうって考えるのは日常茶飯事で、牛乳飲んでも変化なしだったりして……ぐすん」
雄助は凪人を指差してから背中を丸めて縮こまった。床に指を走らせ、先程までの明るさが嘘のように、ぼつぼつ呟いている。
(ここまでうるさい奴がいれば、毎日が明るくなる……かもな)
荷物の整理が終わった頃、凪人はリュックを背負い、二人を残したまま教室から出た。
「勝手に帰んなよ、凪! 僕を一人にしないでくれぇっ! ……げ、ぼぼぼぼくは女の子じゃないっスよ。近寄らないで欲しいっス! な、なななんだよその手の動き。うわっ、だから、何をすんだよ! う、うわぁあぁぁぁぁあぁぁぁ!」
裏声になっている、雄助の咆哮に似た悲鳴が幾度も響いてきた。
*
五月八日土曜日。雨のち晴れ。
昨日の夢の続きを見た。
とぼとぼ帰ってきた俺を出迎えてくれたのは兄貴だった。俺のぼろぼろの服を見た途端に、異常事態があったことを察したのか、血相を変えてタオルや着替えを準備してくれた。それから祖母が夕飯の準備をしてくれた。
両親はいつになっても帰って来なくて、七歳上の兄貴は両親が帰らぬ人になったことを薄々勘付いていたのかもしれない。誰も泣かなかった。誰も涙を一粒たりとも流さなかった。
なぜ、兄貴が涙を堪えていたのかは幾つになってもわからなかった。俺があの日、海を見たいなどという戯言を言って、両親にせがまなければ良かった。そうすれば何かが変わっていたのだろうか。擦れ違いのない、円滑な家庭で育っていたのだろうか。
全て――〝if〟でしかない。
本日、初めて耳にしたのは雨が降る音だった。しとしとと降る雨は心地よく、現実を忘れさせてくれる。雨が降ると気分が落ち込む、ということは一度も経験したことはない。むしろ心は弾むばかりだ。
長靴を履いて水溜りで飛び跳ねるという真似はしないが、そんな衝動に駆られることもあった。
覚醒した凪人はすぐさま台所に向かい、水で喉を潤した。それから洗面所で顔を洗った。
「……変わらねぇな、その面」
鏡に映るのは見慣れた自分の顔。目も眉も吊り上り、自己主張の強そうな顔。文句あんのか、と上級生から目をつけられたのは小学生の頃だった。
「凪人、まだ寝ているのか? 朝食の用意ができたぞ!」
「……ああ、今行く」
食欲をそそる匂いが家中に漂い、凪人はのんびりと茶の間に足を運んだ。
教室は異常なまでにそわそわしていた。校門では意気消沈している生徒をよく見かけたが、逆にクラスメイト達は活気付いている。
「凪人くーん、早い登校だねー。何か悪いことでもあったかい?」
冬馬はへらへらしていたが、一気に教室は熱が冷えたように静まり返った。
「兄貴が帰ってきたことぐらいだな。他にはなにも」
「そーか、そーか。ハニーも大変だなぁ」
「お前に言われると、案外そうでもねぇよ」
雨はまだ降り続いていた。周りの雑音がかき消され、無の世界の極致に達した気分になる。そうなると眠気に襲われる。凪人は大きな欠伸をし、机に片頬をつけた。
「眠たそーだな、凪人くーん。オレ様が一役買ってでようか? 鳩尾を狙えば一瞬だろ?」
「いや、遠慮しておく。今日も寝過ごしたら担任に説教される」
「チョークに? それはオレ様もごめんだなー。それにハニーがそこまで拒絶するとは因縁ありか? 服装にさえ興味を示さないハニーのことだからな、良かったら聞いてやるぜー?」
「……奴にだけは、絶対に関わりたくねぇ」
くぐもった声で呟いた凪人の拳は殴る相手を見つけているかのように震えていた。
「ふーん……、確かに良い噂はないなー。猥褻とか猥褻とか猥褻とか、あとは未遂がちらほらと」
「未遂の一言で俺は済まさねぇ。俺は、ぜってー許さねぇ」
砂糖先生には余罪があると、学校内の誰もが知らないことを凪人だけが気付いていた。
「どろどろしているねー、まるで女同士の醜い争いみたいだなぁ」
「争いは醜い、か。そうだな……多分」
凪人は壁がけの時計を盗み見た。まだ担任が来る時間ではない、と確認してから冬馬の方へまた耳を傾ける。
(俺は犯人を捜し出す。そうしないと狩谷が報われねぇ)
変わらない日常。だからこそ、明日があると思える。別に世界の終わりなど望んではいない。かえって、失うのが怖い。幸福な人生を送っている人達を犠牲にするのは気が引ける。
(……罰への欲求――幸せすぎると、その幸せが怖くなる。俺もそうだろうな。なあ、狩谷……お前は、こんな俺を今でも親友だと言ってくれるか?)
「うにゅ、ねぎとろ? 今日は雨なのだ、嫌なことでも思い出したのだな?」と能天気な水月の声が体にのしかかってきた。
今は亡き親友への思いをはせながら、凪人は様々な人からの気遣いを感じていた。




