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生と死の象徴  作者: 楠楊つばき
忍び寄る凶行
16/41

衝突

 五月六日木曜日。


 渡瀬利華は普段通りの時間に登校してきた。すれ違う人々の誰もが彼女に目を留め、各々の感想を述べる。先日の騒動の当事者からだった訳ではなく、明らかに彼女の頭に巻きつけられた物―血のついた包帯―に興味津々のようだ。包帯の白は彼女の髪と同化し、血の赤はショートケーキに飾られた苺のように映えていた。


 窓から校庭を眺めていた凪人は近づいてくる喧騒の方向に頭だけを向けた。


「大変なのだ、大変なのだ、大事件なのだー!」


 案の定、水月が勢いよく教室に駆け込んできた。肩を上下させていることから、余程の事があったのだと窺えた。凪人は数日前の良く似た展開を思い出し、深く問い詰める気力を起こせない。


「うにゅにゅ、ねぎとろ。出発しんこーなのだ!」


 凪人の姿を見つけるや否や、水月は彼の手を引き、踵を返そうとした。


「どうせ、渡瀬の事だろ……ほっとけ」

「なっ、ななな! ねぎとろは血も涙もないのだな、これからは絶対に口にしないんだなっ」

「ねぎとろに血と涙が付着していたら、その店潰れるぜ」


 聴く耳を持たない凪人は椅子の上を陣取ったままだった。水月が彼の重い腰を上げようと引っ張ったり叩いたりしたが、びくともしない。それもそのはず、体重差約二倍の人物に対抗しようとは無理な話である。平均よりかなり軽い水月にとって、平均的な凪人の重ささえも脅威に等しいだろう。


「いーくーのーだ!」

「どうでもいい……俺は義侠心を生憎、持ち合わせていねぇんだ。行ったとしても……何の役にも立てねぇ。足手まといになる」

「そんなのわからないのだ! ねぎとろは見放せるのだな、助けを呼ぶ心の叫びを!」

「……オレ様抜きで痴話喧嘩とはいい度胸だなぁ、凪人くーん」


 凪人と水月の間に割り込んできたのは冬馬だった。しかし、二人とも見向きもしない。どちらも引き下がれないのか、緊張状態が続く。


「ふうん……邪魔者扱いか。なぁ、水月ちゃーん」

「うにゅにゅ、ミーはお取り込み中なのだな。しまうまに乗る時間はないのだな」

「オレ様の出番だろ? 医療の知識もあるから、ハニーに手取り足取り協力するかも?」


 水月の頭から生えている触覚が伸び、それから餌を見つけた小動物のように彼女は冬馬に走り寄った。一方、やっと解放された凪人は眉を開き、水月の動向を見守る。


「ほ、本当なのだな! 善は急げなんだなっ。まさに捨てる神あれば拾う神ありだな!」

「オレ様を信仰する宗教か~~。だったら神様の鼻の下も……あひゃひゃひゃっ」


 駆け出した水月の姿はもう見えなくなった。その後を冬馬が焦らずに追う。その二人の姿は好奇心に任せて遊具を乗り回す子供と、そんな様子を温かく見守る父親のようだった。ここで母親が誰なのか言及してはならない。


(遠藤、お前にとって……誰でも良いんだろ? 俺でなくても……渡瀬でなくても)


 元々、凪人は心理学科の治療に対してあまり良い感情をもっていなかった。人のプライベートに茶々を入れることが許せなかったのだ。世の中には沢山の人がいる。トラウマを抱える人もいれば、そのトラウマが人格の軸になっている人もいる。


 そう簡単に相手は心を開くのだろうか?

 トラウマを教えてくれるだろうか?


 昨年度、治療した人のほとんどは凪人ではなく、水月に感謝の意を示した。ならば、水月がいなくなったら、みんな平常でいられるのだろうかと気に病む。


 ――無条件の愛。水月は見返りを求めないが、世の中そんなに甘くはない。その愛の裏返しを予想してみるだけで、凪人は身震いをしていた。


 教室は嵐の前の静けさに包まれていた。この場に居合わせた誰もが、これから起こるであろう、天地をひっくり返すような騒動を予知していたかのように。


(嫌な予感がする。俺らは雲をつかむような渦中にいるのだと。必然かもしれない、何かに巻き込まれているのだと。だから、わかってくれ……遠藤。俺はお前を巻き添えにしたくねぇんだ)


 取り残された凪人の脳裏には昨日の出来事がかすみ始めていた。


 五月の訪れを知らせるかのように、植物の葉はエメラルド――海のような青緑を帯びていた。校庭に植えられた彼等は一つの例外も無く、等しく空を目指す。照り付け、焦がすのは太陽の役目。傷つきながらも茎や芽は成長し、やがて限界を迎えるだろう。


        


 どうやら利華の怪我を手当てした、ということは真実らしい。彼女の頭を覆う包帯は、きつくも緩くもない、適度な厚さで巻かれていた。血も処理したのであろう、新品の包帯であることは一目瞭然だった。もしも血痕付きの包帯を使いまわしていたら、それだけで非難を浴び、謹慎処分を通告されそうである。


 凪人の目の前に座らされた利華は浮かない顔をしていた。場所は昨日と同じ特別治療室。前回と違う所をあげてみれば、利華が完全に覚醒しているくらいであった。


 凪人は斜め上に視線を泳がせながら言葉を紡ぐ。


「呼び出してわりぃ。即急に伝えなくてはならないことがある」

「なんか用? 早く帰りたいんだけど」


 そっぽを向きながらも、利華は聞き耳を立てているようだ。昨日のように錯乱されては困る、と凪人は利華を安心させるために心を落ち着かせて言葉を続けた。


「詳細は後でだ。……ったく、かったりぃ。どうして俺が説明をやらなくてはならねぇんだ」

「……アタシ、あんた達の自己満足に付き合う時間はないし。帰らせてくれる?」


 相手が真剣でないと知り、腰を浮かした利華の正面に凪人が立ちふさがった。彼女は分が悪いと判断したらしい、大人しく腰を下ろした。


「はあ……、ここまで食い下がってくるとは結構強引じゃん……」

「遠藤は往生際が悪くてな、気が済むまで行う奴だ」

「遠藤? ……遠藤水月。噂を小耳に挟んだことはあるぐらいだけど、極力関わりたくない」

「理由は?」

「理由なんてないけど」

「そんなはずはねぇな。お前は嘘をついている」


 初めて二人の視線が交わる。びくっと身体を震わせた利華は慎重に言葉を選んだ。


「……強いてあげるなら、土足でふみにじるからよ。腹立たしくなるぐらい平気に。しかも、悪気もなく。あんたも思い半ばに過ぎるんじゃない?」

「ああ、それは的を射ているぜ。一年間振り回された俺にも目に浮かぶものが幾つかあるしな。慣れるものだから、気にする必要はねぇよ」

「さあね。そんなもの彼女の実績や功績が示すだけでしかない。十人十色と謳われるように、全ての人が同じ結論を導くとは立証できない。答えが定められている問題や普遍な事実は逸脱しているかもね」

「お前ってさ、へそ曲がりだな。この俺が言うのもなんだが」

「ふーん……まあ、あんたはアタシとの面識は皆無に等しい。ならば、常識や価値観に囚われないだろうから、素直な感想なんじゃん? 別にアタシは視線恐怖症じゃないし、これが自分だと胸を張れるけど」

「価値観に囚われない……自身で遊びを探す、子供のようにか?」

「例えるならそうよ。規定概念は誤解への一歩じゃん。確証のない俗信のようにね」

「恐ろしいくらい達観していんなー、お前も」

「……そういう教育を受けたから。というか、あんただって変。よく、このアタシと、しっぽを巻かずに面と向かって話せるとは、度胸があるじゃん」

「本音だからな」

「…………」

「そうだ、最初の内に忠告してやるよ。俺はお前の事情に首を突っ込む気はねぇ。だがな、自ら望みを叶えようとしない奴にも興味ねぇ。たとえお前が命を絶っても、俺にはカンケーねぇし、俺は慈悲深くもねぇんだ」

「あっそう。アタシにはそっちの方が気は軽いし、他人にどうこう言われる筋合いもないし」


 二人が築いていた友好的な流れは止まった。どちらも本音をぶつけているだけである。別の話に花が咲いたことで穏やかに流れ始めた。


「……俺もそう思っていたぜ。……あいつに出会うまでは」

「ふーん、あいつって?」

「遠藤ではねぇよ。昔、俺が正真正銘のガキの頃に偶然出くわしたんだ。当時では俺の周りにいた奴とどこか違い、年に似合わず諦観(ていかん)していた。本当にきもちわりぃほどにな。ただ……カリスマ性だろうな。人を離さない魅力があった。本当に惚れ惚れしたぜ」

「もしかして、初恋だった?」

「どう……だろうな。はっきりとはわかんねぇ」

「アタシもそういう漠然とした事への理解は苦しむかも。アタシは一部の人間――小さなコミュニティにしか興味を持てなかったから」

「家族や友人だろうな、始めは」

「……家族なんて要らない。血は水よりも濃くても、アタシには未菜以外要らない」


 ごくわずかだが、凪人は目の前にいる少女についてわかった気がした。言語や行動に障害があるわけではなく、彼女を取り巻く環境に原因があるのだろう。その原因を解明し、解決することが今回の治療の柱だと肝に銘じた。


「〝死の象徴〟、ミーは突入するのだなー」

「……まさか、聞かれてっ……!」


 思わぬ第三者の登場で利華は顔色を変え、口をふさぎ、凪人を(にら)んだ。その一方、睨みつけられた凪人は反駁せずに利華から離れ、壁に寄りかかった。部屋に入ってきたのは水月を含め三人だった。


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