崩壊を告げし者
出し物の片付けを終えた後、凪人と水月は一緒に新校舎へ向かっていた。
「……本当に特別治療室に運んでよかったのか? 少し、急ぎすぎだと思うぜ」
先導していた水月は歩みを止め、振り返った。
「ねぎとろも、そう思うなのら? ミーも切羽詰っているのだ、捨て身の覚悟での決定なのだな」
「なら、なぜだ。理由を聴かねぇと納得いかねぇ」
渡り廊下を吹き抜ける風が水月の髪をなびかせた。
「急がないといけないって感じがするのだな。うにゅうにゅ、遅きに失してしまうのだな」
水月は嘘を言わない。それを重々承知している凪人は頭を掻き、思索にふけった。
「あーつまり、お前の〝生の象徴〟としての勘……なのか」
「うーにゅ、うーにゅ、びびっときたのだな! 神様のお告げ、恩寵なのだな!」
水月は凪人の不安を尻目に、顔を輝かせていた。
頼もしいが、ここまで楽観的でいられると正直困る、と凪人は困惑を隠せないでいた。
「御託はいい。重要なのは結果だ。〝共鳴の象徴〟も張り切ってくれたんだ、俺達がやらなくちゃならねぇだろ」
「うにゅ、ねぎとろは大船に乗っている気分で構えてくれればいいのだ。ミーも尽力するのら!」
「いや、お前の船は泥舟だな。……沈没すんなよ」
「だいじょぶ、だいじょぶ、心配はいらないのら! ねぎとろがいてくれれば、百人力なのだな」
「俺も巻き添えかよ! まあ、悪い気はしねぇが……」
水月は表情をころころと変え、凪人もつられて顔をほころばせた。
「そうにゃろ、そうにゃろ? ミーも嬉しいんだな、ねぎとろもあとうもしまうまも……みーんな、ミーと一緒なんだな!」
「ああ、いつまでも居られれば……いいな」
凪人の返事は歯切れが悪かった。
(いつまでも……か。そんな事、あるわけねぇのに)
その思いを振り払うように、走り出した水月の後をすかさず追う。
(生きとし生けるもの全てに死が訪れる。ただそれが、遅いか早いかの差だ。そう思わねぇといたたまれねぇんだよ)
新校舎の一階、特別教室に紛れ込むように特別治療室はある。未暮学園で最も厳重なセキュリティを有している場所でもあり、心理学科の生徒以外は立ち入り禁止なので滅多に人は通らない。中は防音になっており、誰かが騒いでもきっと気付かない。悪用されないのは使用した時のデータが残るからだ。
心理学科の生徒は例外なく、自身のIDカードの所持を義務付けられている。それは学生証とは違い、特別治療室を使用するための認証書みたいなものであり、生徒をバーコードなどで管理する学校では珍しくないだろう。
「特別治療室、通称〝自我の殻〟……。ここに来るのも何度目だろうな」
自我の殻とはクライエントが閉じこまっている殻を破ることから名付けられたものであり、それは伝統として心理学科の生徒に継承されている。
「憶えていないのだな。いちいち憶えていたら、ミーの脳内はぱんぱんになってしまうのだな」
「あー、違いねぇ」
教室とは雰囲気がガラっと変わり、立つだけで威圧感を感じる。窓や換気扇が無いからかもしれないが、気を抜いたら呼吸困難に陥り、病院送りになりそうだ。
「しっかし、この淀んだ空気はどうにかならねぇのかよ。胸苦しいぜ、ったく」
「……ねぎとろはいつも、ここに来ると饒舌になるのだな」
「そうか? ……確かに、指摘されればそうかもな。人は少ねぇし……」
「会話をするのが嫌いなのだな? ミーはお互いを理解するための会話は重要だと思うのだな。それとも、何か理由があるのだな?」
凪人は目を見開き、水月を見つめた。そして水月は照れながらも無邪気に見返してきた。
(遠藤の言い分も一理あるが……。時々、冷や冷やするほど鋭いよな、お前も)
跳ね上がった心臓を押さえつけた凪人は心拍数の上昇を気取られないよう平常を装った。まるで、嘘発見器にかけられているような感じをおぼえながら。
「理由とか、そんな大それたものじゃねぇよ。ほら……何て表現すればいい? まあ、俺よりもクライエントのことを優先しろよ」
「そうなのだな! うぎゅっ……、ね~ぎ~と~ろぉ」
急に水月は目を潤ませ、もじもじしている。その態度はすでに相場が決まっていた。
「またか。カードを忘れるなんて、生徒として風上にも置けねぇぞ」
渡瀬利華の血色は良かった。先程まで寝ていただろうか、取り乱す気配はない。
「リカー!」
「…………」
利華は水月のタックルを軽々とかわした。
「うにゅ、無視するななんだな! もういっちょ――」
「やめておけ」
凪人は水月に静止を呼びかけた後、利華と同じ目線になるように右膝をついた。
「……具合でも悪いのか? 前の覇気はどうしたんだよ」
クリームイエローの前髪を掻き分け、利華の額に手を当ててみると、やけに冷たかった。
「熱はねぇな。それにしてもクライエントの雰囲気が変わった気がするそ……」
「ミーも触れてみるのだな」
水月も、そっと利華の手に触れた。
「~~~~っ! きょ、恐悦至極なのだな! ミーは、ミーはっ! リカーに触れられたのだな」
余程嬉しかったのか、天にも昇る心地で水月は利華をつつき始めた。先日の『来ないで』の一言で相当なダメージを受けていたのだろう。
「そろそろ、堪忍袋の緒が切れねぇか?」
利華はウンともスンとも言わない。
「ほらほら、リカーがミーを受け入れてくれたのだな! これは、すきんしっぷ、なのだな」
(おかしくねぇか? まだ、何も仕掛けていねぇんだぜ? こんなに早く打ち解けられるか?)
知り合ってからろくに話もせずに一週間で友達になれた人物を未だ嘗て目撃したことはない。たとえそれが上辺だけであっても、水月の傍若無人な態度を易々と許せるだろうか。凪人にとって、利華を至近距離で見たのはたったの一週間前である。あの日は緻密な計画により、利華だけを誘き出せたのだ。
「……渡瀬利華。英進部一年A組。その類まれな能力を評価され、中等部から授業料全額免除。友人関係は芳しくなく、孤立無援の状態」
「ねぎとろ、暗記できたのだな? 感心なのだな」
「黙っていろ……気が散る」
「はいなー」
目の前にいる渡瀬利華は別人のような気がする。水月と同じように、その態度や行動に違和感を憶えた。昔から観察力と洞察力に関しては自信があったからこそ、見逃してはならないと思うだけであり、確信や裏付けはない。
「未暮市内に在住。市立の小学校に通学していた。当時、両親の離婚により収入が激減。食費すらままなくなり、未暮学園から支援を受ける。現在は父親と二人暮らし。それ以外は不明……」
「……未菜、そう……未菜」
口を挟んできたのは利華だった。機械のように『未菜』という単語を繰り返している。抑揚をつけずに話しており、意図を汲み取ることができない。逡巡した結果、凪人は彼女の様子を観察することにした。
「未菜は未菜……、お姉ちゃん。……お姉ちゃん……、未菜」
単語を並べるだけで、重要な助詞が聞き取れなかった。未菜とは利華とどういう関係の持ち主だろうか。姉という言葉から判断すると血縁者かもしれない。あの写真の妹だろうか。
「……この目は……っ、お姉ちゃん!」
がばっ、と利華は傍に居た凪人にしがみついた。
「俺はお姉ちゃんではねぇんだが……てか、いてぇ」
左腕を掴まれた凪人は骨がみしみし鳴るほどの強い力で自由を奪われた。この展開に動揺を隠せなかったが、クライエントを刺激しないために押し黙り、自由の利く右手を無意識に動かした。
「感じる……特殊な波動を。これは……!」
摑まれただけでなく、袖をまくられた。そして左手首に輝く腕輪に触れられる。
「この歪な共振は金剛石」
まるで懐かしい物を見たように、利華は凪人の腕輪から目を離さない。ただ単に、金目の物に目がなくて食指を動かしているほど、熱心に。また利華の雰囲気や目つきが変わった。
「持っていてくれたのね。でも、時間が無いわ。私の意識はこのままだと消えてなくなる。だから、今すぐに渡して」
利華の口調は柔らかくなり、物憂げな視線は凪人の左足の踵に注がれている。
「お前、これを知っているのか! 誰だ、誰に渡せばいい!」
凪人は一心不乱に畳み掛けた。
「私の唯一の跡取り、水車に……。きっと、あの子なら私の意志を継いでくれる」
「水車って男か? それとも女か? どっちだ!」
「良かった、生きてくれたのね……」
「おいっ、答えろよ!」
最後まで何かを伝えようとして、利華の琥珀色の瞳はとじられた。
「……おい、おいっ」
凪人は傾き始めた利華の身体を抱き寄せ、心に『水車』という名を刻んだ。
「〝生の象徴〟……日を改めよう」
凪人は利華をおんぶするために、彼女の腕を首に掛けようとすると、
「うぎゅっー、水月きっくなのだ!」
ぐはっ……と、横蹴りを食らった凪人は横に倒れこんだ。
「ねーぎーとーろぉ、何をしていたのだな! ミーにも内緒話の内容を教えてほしいのだな」
「な、内緒話をする必要はねぇだろが……」
「ミーには聞こえなかったのだな! それと、リカーにあまり触れてほしくないのだな」
(聞こえなかった……だと? まして俺の声でさえ?)
凪人は体勢を立て直し、利華と距離を離した。言及しようとしたが、水月にはそっぽを向けられ、ぼんやりとポケットに手を突っ込んだ。
水車の登場あたりから物語は加速していきます。
利華の能力も少しずつ明るみに出てきます。
それまでは日常のターン。




