第九話
再開しました。またよろしくお願い致します。m(__)m 招夏
――会いたい。
そんなメールが届いたのは、ヒグラシが一日の終わりを告げている夏の夕暮れ時のことだった。送信者は『圭子』だ。秋子は携帯を握りしめたまま、涙ぐむ。
私だって会いたい。そう思う。
聖が初めて秋子の部屋を訪れた次の日から、司の態度が豹変した。
それまでは、夜遅くにいつの間にか司が秋子の部屋に居るという事態はあっても、日が沈み切っていない時分に不意打ちのようにやって来ることは無かった。しかもその都度秋子に蔑むような言葉を投げつけたり、無理やり抱いたりするのだ。折悪く司の従妹の華陽が志木家に滞在中だったが、にもかかわらず、そのような狼藉を働くものだから、華陽からは「司の継母も大変ねぇ」などと嘲笑される始末。
華陽にしても聖にしても、司が秋子に何をしようとお構いなしの無関心だ。あの後、聖は二度と秋子の部屋に来ることは無かったが、秋子の司に対する態度はいちいち注視しているようで、秋子の言動には鋭い視線を送っていた。にもかかわらず、司が秋子に対して行う無礼に関しては、嘲笑ったような視線をちらりと向けるだけだ。
この家の人たちは……みんな狂ってる。
秋子は返信の画面を呼び出すと、小さく震える指で文字を打つ。
――私も会いたい。圭吾に、今すぐ会いたい。
◆◇◆◇
「あの……今日の午後、出かけたいのですが……」
家族が揃っているにもかかわらず、志木家の食卓はひどく静かだ。口を開くのにも勇気が要る。昨日まで食卓を嫌な感じに賑わしていた華陽も、どこかの家に行くとかで、再び三人で食卓に付いていた。だけど聖に許可をとるならば、今しかない。秋子は意を決して切りだした。
「どこへ行くのだ?」
聖が軽く片眉を上げて問う。
「友達に会いたいのです。銀座で待ち合わせるつもりです」
「友達とは?」
「……瞳子です。九条瞳子。私の高校時代からの友人です」
「そうか。儂は別に構わんよ? なんなら泊ってきたらどうだ? 九条なら安心だろう? なぁ、司」
聖は意味ありげな瞳で司に問う。
「別に……俺に訊く必要などないでしょう?」
司は興味なさそうに秋子をちらりと見ると、黙々と食事を続けた。
何を着ていこう……。
秋子はクローゼットから取り出した様々な服を寝台の上に並べる。圭吾と会うのは久しぶりだ。
だけど……なんだろう。さっきまでワクワクしていた気持ちが、あっという間に浮力を失って重苦しくなっていく。
滑らかな指触りの素材を使ったAラインのワンピースに袖を通しながら、ふと背中のファスナーを上げる手を止めた。
私、本当に圭吾に会っていいの? 会うべきではないのでは……。
でも、夫である聖は、何をしても構わないと言ったのだ。司に手を出さなければ何をしても構わないと、そう言ったではないか。
「ファスナーを上げて差し上げましょうか? お義母さん」
突然背後から声がして、秋子は飛び上がった。
「つ、司さんっ」
「どうしました? 何か悪だくみでもしているところでしたか?」
「……わ、悪だくみなんて……していませんよ?」
弱く作り笑いを浮かべて、秋子は慌ててファスナーを引き上げると、慌ただしくドレッサーの上に置いておいたイヤリングを取りあげた。多面体にカットされたプラチナが光を乱反射する。
「九条瞳子さんに会ったら、旦那様の九条高時氏によろしくお伝えくださいと言っておいてください。うちは九条家とは取引がありますからね」
「……は、はい。確かにお伝えいたします」
手にしたイヤリングを握りしめて、秋子はコクコクと頷いた。
「くれぐれも失礼のないようにお願いしますよ? もっとも、何か不都合があって取引をやめることがあっても、困るのは向うであって、うちではありませんがね」
司の不穏な口ぶりに、秋子は息を呑んだ。
「おや? 落としましたよ?」
秋子の手から滑り落ちたプラチナのイヤリングを、司は拾い上げた。びくりと後ずさる秋子に司はほほ笑みながら歩み寄り、イヤリングをつけてやりながら耳元で囁く。
「随分おめかしして出かけるんですね。妬けるな。瞳子さんが羨ましいですよ」
そう言いながら、司は秋子の首筋に唇を這わせる。
「司さん……やめてください……」
司はかまわず口づける。
「今夜は泊る予定ですか?」
「……いいえ」
「そうですね、その方が賢明です。瞳子さんに体中に付いた痣を見られるかもしれませんしね。まぁ、あなたが親子ほども離れた夫に、いかに愛されているかを教えられて逆に良いかもしれませんね」
そう言いながら司は秋子の瞳を覗きこみ、にやりと笑ってから、スクエアカットの襟元から覗いている無防備な首筋に口づけて強く吸った。
「痛っ」
「お守りです」
司はそう言い捨てると部屋を出て言った。
残された秋子は鏡の前で呆然と立ちすくむ。
首筋には赤い花のような痣が咲き誇っていた。
◆◇◆◇
銀座の時計がついているビルの前まで行くと、既に圭吾が待っていた。秋子に気づいて手を振る。秋子も軽く手を振り返した。
無意識に手が首筋のストールを確認する。麻素材のごく淡いコーラルピンクのサマーストールは首筋に付けられた痣を隠すためのものだ。
まだまだ残暑が厳しい季節だけど、不自然じゃないわよね? UVカット素材なんだし……。それに圭吾はファッションなんかに興味ないから、きっと何も気づかないわ。
秋子は心の中でそう呟いて、自分は何の為にそんなことを気にしているのかと苦く笑う。圭吾とは友達なのだ。友達ならば首筋の痣など気にする方がどうかしている。志木家に嫁入りすることが決まって、圭吾に別れを告げた時、彼はそう言ったのだ。
俺たちは友達に戻るだけだと……。
「秋子、久しぶり。少し痩せたんじゃないか?」
気遣わしげな圭吾の瞳に、秋子は弱く笑む。
いつもの圭吾だ。いつもの優しい圭吾……。
「圭吾、連絡をありがとう。瞳子から聞いたわ。随分心配してくれたんですってね。ごめんなさい。心配かけて……」
「秋子の心配をするのは俺の趣味だったからな」
圭吾は優しげな瞳で笑うと、秋子の頭をポンポンと叩いた。
「やめてよ。子供みたいに扱わないで」
圭吾、優しくしないで。私はあなたに優しくされる資格なんてないのに……。
ふと気が緩んで泣きそうになるのをぐっとこらえて、秋子は圭吾を睨みつける。
そんな秋子に、秋子のふくれっ面は相変わらずだなぁと圭吾は破顔した。
フルーツパーラーのバイキングは秋子のお気に入りだった。男性には敷居が高いらしく、いつも圭吾は困った顔をして付き合ってくれていたけど、フルーツやデザートだけでなく、スープやパンやパスタや肉や魚のプレートもあるので、内容的には二人とも満足していて良く通った店だ。
様々な種類のプチケーキと季節の果物を乗せた皿を前に、秋子は少し戸惑っていた。果物を口にしても、ケーキを口にしても、何故だか妙に味気ない。
「秋子は……変わったな」
圭吾の言葉にはっと我に返る。
「変わった? 私が?」
「うん、大人っぽくなった。服のせいかな」
秋子が今現在持っている服のほとんどは、野上が選んだものだ。もっと奥様らしい恰好をなさいませ、と言う一言の元に、秋子が持っていた物はほとんどがお蔵入りされてしまった。
圭吾は少し寂しそうにそう言いながら、パスタを不器用にグルグルとフォークに巻きつけた。あまりにもたくさん巻くものだから、一口が異常に多くなってしまう。そんな圭吾の手元を見ながら秋子はほほ笑む。
もっと器用にスマートにパスタを巻く手を秋子は知っている。その長い指がエレガントに動いてパスタを絡め取る事も、同じその指が荒々しく秋子の肌を這う事も……知ってる。そこまで考えて、秋子ははっと視線を上げた。探るような圭吾の視線が秋子の瞳を覗きこんでいる。
「俺……信じられない話を聞いたんだ。秋子の結婚相手が、親子ほども歳の離れた人だって……。それで……心配になった」
「……」
秋子は動揺して、しかし、それを隠す為に良く冷えたアイスティーに口をつけた。