第八話
夜更けにドアをノックする音がして、秋子は小さく身を硬くした。
「はい」
今夜こそは絶対に中に入れるものかと、秋子は尖った声で返事をする。
「儂だ。入っても良いか?」
声は想像していた人のものではなく、柔らかく深いバリトン。
「……はい。今開けます」
秋子はいつもよりも格段に緊張した面持ちでドアを開けた。
志木家の当主である聖は、白髪まじりの頭髪ではあるものの、切れ長の瞳に見事にとおった鼻筋の顔立ちで、七十を超える歳の割には若く、一見なよやかにさえ見えるほど美しい容姿をしていた。しかし一旦口を開けば、その言葉に抵抗できるものなど存在しないだろうと思うほど、威圧感のある人物だった。
入ってくるなり、聖は秋子の部屋をぐるりと見回す。
「なるほど、これがおまえのナワか……」
きょとんとした様子で立ちつくしている秋子に、ちらりと視線を送ってから、聖は小さく笑む。
「何か飲み物をもらえるか? アルコールの入っているものが良い」
「あ……はい、あの……何がよろしいですか?」
秋子は、あたふたと、部屋についている簡易キッチンに走り寄る。
「何でも良い」
秋子は迷った挙句、冷蔵庫から霊獣のマークのついた瓶ビールを取り出すと、グラスと一緒に運んだ。冷蔵庫の中には、秋子が眠れない時に飲む軽いカクテルの缶や梅酒なども入っていたが、それらは聖には合わないような気がした。
秋子の養父はビールが好きな人だった。仕事を終えて帰宅すると真っ先に風呂に入ってから夕飯までのひと時を、ビールを飲んで楽しむのだ。飲むとすぐに真っ赤になる人で、でも陽気になる人で、秋子は養父が飲んでいるビールの泡をちょっとだけ舐めるのが好きだった。『にがーい』そう言って顔を顰める秋子を養父は面白がり、養母がたしなめた。養父母には子どもが無く、秋子を実の子どものように可愛がってくれた。養父は酔うと、よく秋子の実の父親の事を話してくれた。秋子は養父の語ってくれる実父の話が大好きだった。養父と実父は大学時代の友人だったのだ。温かな佐藤家の団欒。しかし、目の前に居る父ほど年の秋子の夫は、団欒という言葉から程遠い所にある存在のようだ。
「何をぼうっとしているのだ。おまえも飲むが良い」
ビールをついだ後、少し離れた場所の椅子に座ってぼんやりしている秋子に聖は瓶を持ち上げた。
「あ、はい。ありがとうございます」
その時、突然秋子の耳元で幽かな音がした。
――ピィィン
陶器を軽く指で弾いたような幽かな幽かな音だ。ビールを注いでもらいながら耳をすます。更に、ビールに一口、口を付けた時にも音は響いた。耳元で、頭上で、背後で、鼻先で、まるで血に飢えた蚊が刺す場所を探して旋回しているかのように何度も執拗に幽かな音が付きまとう。
――ピィィン、ピィン、ピィィィン
秋子は辺りをキョロキョロ見回すが、それらしい音を発するものを見つけられない。聖は秋子の様子を興味深げに見つめていたが、やがてグラスをテーブルに置くと静かに問いかけた。
「どうした?」
「音が……」
怪訝な様子で目を細める聖に、秋子はとっさに口をつぐんだ。秋子は思い出したのだ。遠い記憶。この音には聞き覚えがあった。悪い予兆の音だ。これが聞こえるようになると、決まって父は逃げるように住む街を後にした。母には聞こえなかったようだけど、姉もこの音が聞こえるようになると怯え始めた。秋子はその音自体には恐怖を感じなかったのだが、不安定になっていく父と姉を見るのが怖かった。二人に何か悪いことが起こりそうな気がして不安になってしまうのだ。
「いえ、何でもありません」
「今日は、おまえの両親について少し聞かせてもらおうと思って来たのだ」
聖の言葉に、秋子は怪訝そうな顔で首を傾げる。
「私の両親については、既に良くご存知なのではないですか? そうでなければ、潰れかけた鉄工所などご支援くださらなかったでしょう?」
「おぉ、良く知っているとも。腕の良い、しかし心の弱いおまえの養父の事ならば良く知っている。だが儂が知りたいのは、おまえの実の両親の事だ」
秋子は瞠目してごくりと唾を飲み込んだ。
名和家のことを特に訊かれた記憶はなかった。養父母も詳しくは語らなかったはずだ。名和という名前を隠したいが為に、両親は泣く泣く幼い秋子と姉を別々の友人の手に託したのだ。そのことを佐藤の父は良く知っていた。姉が預けられた家と、佐藤の父だけが唯一秋子の父が心を許していた親友だったのだ。
「おまえの実の両親、特に父親の名和春賀についてだ。おまえの実の父は今どこにいる?」
「……どうして父の事を……」
「儂はおまえについては何でも知っておるよ。おまえには姉が居たことも。その姉が交通事故で死んだことも」
秋子は瞠目する。
「おまえが、毛色の違う名和であることも良く分かっている」
「毛色の違う……ナワ……」
「なるほど、おまえのナワは結界として働くタイプらしい。だが、所詮縄は縄、くぐってしまえば、おまえに身を守る術はない。なぁ、できそこないの縄よ」
聖は言うが早いか、秋子の手首を掴んだ。その指先から何かが侵入してくる気配を感じて、秋子は悲鳴を上げた。
「いゃぁぁぁ、離して! 離してくださいっ」
どす黒く、冷たく、重い、何か。
それは握られた手首から秋子の中に侵入してきて、秋子の体を凍りつかせた。怖くて苦しくて逃げ出したいのに、体が言うことをきかない。暴力的なまでの恐怖でガタガタ震えるほどなのに、秋子は金縛りにあっているかのように身動き一つできない。できることは、ただ力なく泣くことだけだ。
「さあ言え。名和春賀はどこにいる?」
「し、知りません。ほ、本当に、知らないんです」
そう言って泣き続ける秋子に聖は舌打ちをする。手首を掴んだまま、聖は秋子を床に押さえつけた。
「いやっ、嫌です。やめて! 誰か助けて! 司さんっ」
我を忘れて叫んだ自分の言葉に、秋子が呆然としたのと、聖が不敵な笑みを浮かべたのはほぼ同時だった。
「ほぉ、これは面白い。妻が助けを呼ぶのに夫ではなく、その子である義理の息子の名を呼ぶとは思わなかった。儂はてっきりおまえが、無理やり引き裂かれた元婚約者の名を呼ぶだろうと思っていたのだがな」
そう言って聖はくつくつと楽しげに笑ってから、呆然としている秋子の瞳を覗きこんだ。
「あれは儂の自慢の息子でな。ほんの小さい頃から、過酷な修行にも涙一つ零さずに堪えてきた。利発で親思いの良い息子なのだ。嫁の性質が悪くて今は別居状態にあるが、そのうち、しかるべき家から嫁をとり直すつもりだ。志木家には跡継ぎが必要だからな。だが、それはおまえでは駄目だ。論外だ。たぶらかすなら他の者にするが良い」
秋子はあまりの侮辱に唇を震わせる。
「わ、私はたぶらかしてなど……」
「それさえ分かっているならば、おまえが何をしようと儂はいっこうに構わんよ。司とは、良い母として仲良くする分には何も言わぬ。しかし、あれに良からぬことをするようならば儂は容赦しない。恐ろしい目に遭いたくなければ、司には手を出さぬことだ」
「私は司さんをたぶらかしてなどいませんっ」
聖を睨みつけたままそう言い放つと、秋子は号泣した。子供じみていると思いながらも止められなかったのだ。それは義理の母である自分が、義理の息子をたぶらかしていると言う汚名を着せられたからであり、この期に及んで、憎んでいるとさえ思っていた司に助けを求めてしまった自己嫌悪からであり、後の残りは、自分でも理解不能な悲しみと衝動に突き動かされたからであった。
不思議なことに秋子が泣き始めると、それまで幽かに響いていたピィンという音が激しくなった。スパークしているかのように激しく響く。秋子の体に侵入し硬く強ばらせていた何かが、体から弾かれて霧散していくのを感じる。
一方、聖は、まるでその音を聞き分けているかのように眉間にしわを寄せると、苦々しげに秋子の手首を放り出した。
「本来ならば、今この時点で始末してやりたいところなのだが……。忌々しい名和が……よりによってヒルコを絡め取るとはな。しばらく様子を見るしかなかろう」
床に倒れたままの秋子を憎々しげに一瞥すると、聖はそう言い捨てて荒々しく部屋を後にした。
◆◇◆◇
雨はやむ気配がなく、じわじわと室内の湿気を濃くしていった。同時に闇の濃度も濃くなって行くような気がして、司は秋子を抱きしめる腕に力を入れる。
泣きじゃくる秋子は熱く、でも震えていて、司には小さな灯そのものを抱きしめている気がする。この体の中に宿っている、もう一つの小さな生命について思いを巡らせる。
――この子は、どんな宿命を背負って生まれてくるのか……辛くない人生だと良いが……。
心からそう願う。
「シュウ、食事がまだだろう?」
落ち着いてきた秋子にそう言うと、室内ホンの受話器を持ち上げた。
「野上、ここに食事を運んでくれ。いや、二人分だ。簡単なものだけで構わない……それは分かっている。今日だけ特別だ。あぁ、それでよい。では、頼む」
志木家の食事はダイニングで摂る。それが亡き父聖が決めた家族のルールだった。病気で動けない時を除き、部屋で食事を摂ることを決して許さなかった。
「あの、司さん、私ならもう大丈夫です。ダイニングに行けます」
立ち上がった秋子を司が制止する。
「いいんだ、俺がそうしたいから……」
優しげな表情でほほ笑む司を、秋子は涙の引いた瞳で見上げほほ笑み返した。