第七話
水色、青鈍、浅葱色
蘇芳、紅、鴇羽色
牡丹、鉄線、菊、紅葉
秋子は着物の海の中でため息をついた。
先ほど、大旦那様の聖から広間に呼び出されたのだ。正式な場に出ても恥ずかしくない着物を数枚仕立てておくようにと言い渡された。
『野上、この者を志木家の嫁として見栄えがするように、おまえが見立ててやってくれ。この女は外見が幼すぎる。もう少しましに見えるようにな』
聖は、着物にも秋子にもなんの興味もないと言わんばかりに、顔を顰めてそう言い捨てると部屋を後にした。入れ換わるようにやってきた業者の女は、ここぞとばかりに、あれやこれやと騒々しく着物を取り出しては、次々と秋子に羽織らせていく。
「まぁぁ、なんて可愛らしいお嬢様なんでしょう。え? 奥様なんですの? あらぁ、なんて可愛らしい奥様。旦那様は可愛くて仕方が無いのでしょうねぇ。こんなに大事にされて、奥様は本当に幸せですわねぇ」
女は真っ赤な口紅が乗った厚ぼったい唇をほころばせた。
物を買い与えられることが幸せの基準なのならば、確かに秋子は幸せと言わねばならないのだろう。ここに居れば、何に不自由することもない。
秋子は一人小さくため息をつく。
女が最初に勧めたのは京友禅だった。ミントグリーンとミントブルーが混ざり合った爽やかな地に雪輪文が重なり合い、四季の花々が両袖と裾、そして襟から裾までの背中にふわりと描かれている。全体的に華やかで爽やかな雰囲気の訪問着だ。勧められるままに、秋子は着物を纏ってみる。
「まぁぁ、なんて良くお似合いなんでしょう」
女将はほめそやしたが、野上は幽かに目を眇めた。秋子も鏡に映る自分の姿にこっそりため息をつく。
普通の女性は、着物を着ると大抵の場合大人びて見える。しかし、自分に限って言えば、着物はそのような効果をもたらさない、そう思う。二年前に写した成人式の着物姿の写真を、圭吾は一目見るなり小さく吹きだした。
『秋子……千歳飴持つの忘れてる』
――圭吾……。
瞳子とランチを一緒した後、圭吾からメールが届いていた。元気か、程度の短いメールだったのだけれど、秋子はひどく動揺して返信できないままになっていた。なんと返事をすればよいのか分からなかったし、司からは元婚約者とは連絡をとらないことが礼儀だろうと釘をさされている。しかし、司がそんなことを言うのもおかしな話だと思う。だからと言って、元婚約者と友人としてメール交換をしても構わないかと聖に訊くのも間違っているような気がする。
――どうしたらいいんだろう……。
途方に暮れる。秋子の頭上で、野上と着物業者の会話がすべっていく。
「もう少し、大人びて見える着物はありませんか?」
「そうですわね、少し若々しすぎましたかしら? でしたら、こんなのはいかがでしょう」
ぼんやりしている秋子はそっちのけで、野上は真剣な面持ちで業者に質問したり、着物の生地に目を凝らしたりしている。
結局、ごく僅かに緑を帯びたアイボリーの地に、左肩から胸袖、また上前を通って裾までふんわりとしたグレーのぼかし染めが入り、唐草に鳳凰の意匠が描かれたものと、品の良いペールグリーンの地に、桜が舞い、末広がりの吉兆の意味をもつ扇面模様が入ったものと、ややオレンジがかった上品なクリーム色の地に、菊や橘をふんだんにこめた竹格子、ふんわり浮かぶ捻梅が描かれた三着に決まった。どれもこれも、秋子が成人式に着た物よりもずっと高価で、手で触れた感触も、同じ絹かと疑うくらいに滑らかだ。ただ、それらは、どれも秋子を飾る為のものではなく、生育の悪い植物を支える為の添え木であり、あるいは足らぬ身の丈を補う為の分厚い靴底であるのが見え見えだった。秋子はいたたまれない心持で衣桁に掛けられた着物を眺めると、小さくため息をついて広間を後にした。
広間のいつもと異なった様子に、たまたま通りがかった司は何事かと覗きこむ。
「司様、戻っていらしたのですか?」
中から野上の声がした。
広間には床一面に着物が広げられており、衣紋掛けに掛けられた三着以外を業者の女性が片づけているところだった。
「またすぐに出かける。これは何事だ?」
「奥様のお召し物を揃えるようにとの大旦那様のご指示で……」
「ふぅん」
司は、掛けられている着物につられたように歩み寄る。
「これは、野上が選んだのか?」
司は三着の着物を顎で指す。野上は即座に肯定した。
「どれも奥様を美しく引き立たせるものばかりでございますよ」
業者の女がにこやかな顔で会話に割り込んできた。司は女の言葉に軽く肩を竦めてから立ち去りかけて、ふと足を止めた。三着の着物とは別の場所に、掛けられている着物を見つめる。
「あれは?」
「まぁぁ、旦那様はお目が高い。あれは加賀友禅でございますよ。奥様を一目見た時に、あれが良いだろうと思って一番にあそこに掛けておいたものなのですが、今回は特に大人っぽいものをとのご要望でしたので……でも、奥様の様な方にこそ着ていただきたい一品物なんですの。本当によくお似合いで……ねぇ?」
業者の女は同意を求めるように野上を見たが、野上は否定も肯定もせず、僅かに片眉を上げただけだった。にこやかな顔に少しばかり困惑の色を浮かべて視線をさまよわせる業者の女を無視して、司はその加賀友禅の着物に歩み寄った。
その着物は、穏やかな桜色をしており、ふんわりとした薄水の裾ぼかしが入っていた。柄は吉兆の松竹梅に清雅な菊の花が広がる大和の花意匠。
「これももらおう」
途端に、業者の女は満面の笑みになり、逆に野上は眉間にしわを寄せた。
「司様、大旦那様はそのようなデザインの物は、お気に召さないと存じますが……」
「ならば、この一着は俺が買う。請求書をここに」
そう言いながら、司は業者の女に自分の名刺を手渡した。
「司様っ」
「着物など買ったことが無いのだ。たまには買ってみるのも一興だろう」
司は小さく笑うと広間を後にした。
素肌に桜色の着物を羽織って、裾を引きずりながら部屋を散々舞い歩いていたヒルコは、ノックの音に気付いて内側から鍵を開けた。
「ヒルコ……何をしている?」
呆れた様子で立ち尽くす司に、ヒルコは小さく笑む。
「キレイなきもの……」
いつになく華やいだ顔のヒルコに、司も小さく笑む。
「気に入ったのなら良かった。どうやってここまで持って来た?」
普段着物がどこに仕舞われているのかなど、司には皆目分からない。
「今日は、アスカが泊りなのダ。あれに憑いてモッテこさせた。後で、アレに片づけサセル」
明日香は年若のメイドだ。彼女は憑かれやすい体質をしているらしい。
「しかし……着物はそんな着かたをしないだろう?」
司は苦笑する。
帯も腰紐もなく、襦袢さえ着ずに素肌に羽織っただけなので中の白い体が、桜色の着物の隙間から時折垣間見える。それはそれで艶めかしく美しく、どう見ても挑発しているようにしか見えないのだが、しかしそれでいて、触れることを許さぬ何か神々しいものを感じて、司の目は釘づけになる。ヒルコはそんな司の視線には頓着しない様子で、司の手元を見つめて首を傾げた。
「良いニオイがする」
「……あぁ、約束したからな」
司は我に返ったように、手に持っていた小さな箱を持ち上げて見せた。
ヒルコが秋子の体に憑くようになってから、司は毎晩のようにヒルコを甘やかしていた。自分でもどうかしていると思うほど、言われるままに、甘い菓子や珍かな果物や良い香りの花々を買ってくる。遅い時間なのだし、少し自粛した方が良いのだろうと思わないこともないのだが、桜色の着物を羽織ってぺたりと床に座り込み、司が買ってきたケーキを嬉しそうに頬張っているヒルコを見ていると、そのうちでいいかと思ってしまう。嬉しそうなヒルコの姿は、九条家の式場で見た秋子の姿そのものだ。
――秋子は食が細いから、その分ヒルコが食べればちょうど良いだろう。
などと都合良く考えながら、司は飽きずに着物姿の秋子を眺めた。
* * *
その日の夕方、司は珍しく父親の書斎に呼ばれていた。
「司、最近あれとはどうなっている?」
父親は司が書斎に入ってくるなり、デスクに向かって背を向けたまま声を掛けた。何かしきりにペンを走らせているようだ。
「あれとは……どれのことです?」
父親の背後に立って、司は肩を竦める。
「実家に戻ったきりのおまえの嫁の事だ。連絡くらいはとっているのか?」
司の嫁は、銀行家の娘だ。先方は、実家に戻ってきた娘を返す訳でもなく、離縁を言い出す訳でもない、同様に司の方もほったらかしたまま、戻ってこいとも、離縁したいとも言わないで、ずるずるとそのままになっていた。
「連絡をとっても変わらないでしょう。あれは霊の気配に敏感ですからね。この家に居ること自体が無理なんですよ」
「いっそ離縁するか? いつまでも一人では寂しいだろう? 銀行家の娘など、世の中には五万といるのに、よりによってあんなのを選ぶとはな。ちゃんと本人を見てから選ぶべきだった」
この結婚を決めたのは聖だ。結婚も離婚もどうでも良いと司は思っていた。しかし、今では少し違う。離婚した挙句、再婚などさせられては計画が狂ってしまう。
「俺は再婚などする気はありませんよ。面倒なだけです」
「そうか……」
聖はようやくクルリと椅子を回して司に向き合った。
「時に、あれはどうしている? 儂が構わぬ分、おまえが何くれとなく面倒を見てくれているようだが……」
「……あれとは?」
それが誰の事を言っているのか分からないことは無かったが、何故か嫌な予感がして司は慎重に問い返した。
「儂の嫁のことだ。あれは……秋子は、確か儂の嫁であったと思うのだが違ったかな?」
「……違いませんよ。だけど、特に俺が面倒を見ている訳ではありませんが……」
「そうか? なかなか華やかで美しい着物を選んで買ってくれたと聞いたが……あれは儂から礼を言うべきであろうな?」
「……いえ、礼には及びません。少し遅い母の日のプレゼントとでも思っていただければ良いかと」
司の返答に、聖は豪快に笑った。
「あれはなかなか母として良くやってくれているらしい」
そう笑って言ってから、聖は目を細めて司の瞳を覗きこんだ。
「では、妻としても良くやってくれるかどうか、今夜部屋を訪れてみよう」
司は無言のまま拳にぐっと力を込めたが、無表情のまま父の視線を受け止めた。
「だから、今夜は秋子の部屋に行くのは控えてくれ。分かるな?」
「……分かりました」
夕焼けが東の空までをも紫色に染め上げていた。強大になった闇が光を呑み込んで夜は来るのだろうか、あるいは、力を失った光が呑み込んでいた闇を吐き出して夜になるのだろうか。埒の無いことを考えながら、司は外の気配に耳をそばだてた。




