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第六話

 秋子はぼんやりと通りを眺める。

 街路樹が日差しを遮ってはいるものの、オープンテラスのカフェはかなり暑い。黒っぽい鉄製のテーブルに置かれたアイスティーの氷が、カラリと音をたてる。駅の方から、白いショート丈のワンピースにサングラスをかけて、颯爽と歩いて来る人影に気づくと、秋子は嬉しそうに手を振った。

「瞳子!」

 秋子は堪らずに、立ち上がると、瞳子にひしっと抱きついた。

「秋子! 久しぶり。どう? 元気だった? こらこら、どうしたの?」

 黙って抱きついたまま、離そうとしない秋子に瞳子は、苦笑する。

「会いたかったわ。瞳子にとても会いたかった」

「ごめんよ、ハニー、寂しかったかい?」

 瞳子がふざけると、秋子は盛大に吹きだした。

 瞳子に会うのは、彼女の結婚式以来だ。あれからたった一年で、秋子を取り巻く環境はがらりと変わってしまった。その半年後には、自分が婚約者とは別な人と結婚しているなんて、誰が想像できただろう。

「どうなの? 新婚生活は……」

 瞳子は気遣わしげに問う。

「ごめんね、結婚式にも呼べなくて……」

「そんなのちっとも気にしていないわ。私は秋子の事を心配しているのよ」

 瞳子は少し怒ったように語気を強めた。


――同じ政略結婚でも、瞳子と自分とでは、まるで別物だ。

 瞳子には、志木家に嫁入りするとしか伝えていなかった。否、瞳子ばかりではない、秋子を知る大方の人間は、彼女が五十も年上の男性と結婚したということを知らない。知らせないことが、志木家からの融資の条件の一つだったからだ。

 理由は世間体。

 だから結婚式も披露宴もなく、紙一枚の、法律上の婚姻だ。

――そんな婚姻に何の意味があるのか……。

 秋子は未だに分からない。小さくため息をつく。

 五十以上も歳が離れた夫に、十近く年上の義理の息子、しかも、一月ほど経つのに、夫になる人とはほとんど口も聞いたことが無かった。なのに、逆にその息子とは……

――こんなこと、誰にも言えない。

「ありがとう。でも、特に何もないのよ。旦那様は忙しいみたいで、あまり顔を合わせないし……」

 秋子は小さく笑んだ。

 秋子の言葉に瞳子は顔を曇らせたが、すぐに気を取り直したように、

「今日は、美味しいものでも食べよっ」と笑った。


 大通りから少し奥まった細い路地にあるイタリアンの店に入る。こじんまりしているが、風通しの良い気持ちのいい店内で、にんにくをオリーブオイルで炒めている良い匂いが漂っていた。

「ここね、先月オープンしたばかりなのよ」

 本場イタリアから帰って来たばかりのシェフが開いたお店で、かなり評判になっているらしい。なかなか予約が取れないのだと言う。瞳子は、そういうお店を探し出すのが上手だ。大皿に少しずつ彩りよく乗せられた前菜を口に運びながら、秋子はピリッとした喉越しのサンペレグリノを口にする。

「本当にケーキバイキングじゃなくて良かったの?」

 瞳子が悪戯っぽく笑む。秋子が甘いもの好きなのを熟知しているからなのだが、いつもは『甘いものはほどほどにしなさい』と注意するのが瞳子の使命だと思い込んでいたりする。だけど、秋子が落ち込んでいると、励ますように甘やかすように、ケーキバイキングに誘うのもまた瞳子だった。

「うん、最近ね、あまり食べたいと思わないの」

 魚介と野菜のマリネをフォークでつつきながら、秋子は少し首を傾げる。

 嫌いになった訳ではない、食べたくない訳でもないのだが、あえて言うならば――満たされている――この言葉が一番しっくりくる。最近、ケーキなんて食べていないのに。

「ひょっとして、おめでただったりしてー。妊娠すると食べ物の好みが変わるって言うよ?」

「まさか!」

 秋子はぎょっとする。

「そう言えば、まだ結婚して一カ月だったか。考え過ぎだわね」

 そう言って瞳子は笑ったが、秋子は内心気が気でない。

 瞳子が魚介のトマトソースを、秋子がポルチーニ茸のクリームソースを注文した。食後のコーヒーを飲みながら、デザートに付いていたケーキを口にして、秋子は首を傾げた。

「どうしたの?」

「え? あ、なんだかこのケーキ食べたことがあるような気がして……でも、どこでだったかしら……」

 ずっと昔の記憶ではない、つい最近食べた気がするのに、それを思い出せない。

「このケーキはここのオリジナルよ? ここには来たことないんでしょ?」

「……うん、そのはずなんだけど……」

「もう、秋子ったら、しっかりしてよ」

 それでも、しきりに首をひねっている秋子を呆れたように見つめると、瞳子はふと思いついたように、秋子を睨みつけた。

「そうそう、秋子携帯変えた? 新しくしたんなら教えてよね。ずっと連絡が取れなくて心配していたのよ?」

「あ、うん……ごめん」

 軽く睨む瞳子に、秋子は弱く笑む。忘れていた訳でも、教えたくない訳でもなかった。携帯を見る度に、秋子は憂鬱な気分になるのだ。

「どうかした?」

「ううん」

 秋子はバッグから携帯を取り出す。ごく淡い桜色の携帯は、志木家に入ってから持たされたGPS付きのものだ。つまり監視されているということ。秋子は信用されていないのだ。

――外出する時は、必ず持っていってくださいね。お義母さん。あなたは人質なんだから。

 そう言って司は目を弧にして笑ってから、鋭い視線で秋子を見つめて付けたした。

――それから、元婚約者の……蔵谷圭吾君でしたっけ? 彼の情報は削除してください。それが礼義というものでしょう?

 司の言葉の裏には、必ず佐藤家への援助がチラついている。言われなくても分かっていると怒鳴り散らしたくなるのを我慢して、悔しさに秋子は唇をかむ。

 圭吾のことは、もう諦めたことだ。なのに、そんな風にあからさまに厭味ったらしく言われれば、無理やりかさぶたを剥がすようなもので、再びじくじくと血が滲む。


 メアドを教えろと言うので携帯を瞳子に渡す。しかし、瞳子は自身の携帯に入力した後、秋子の携帯にも何かを書きこんだ。素早く動く指先。帰ってきた携帯を確認して、秋子は瞠目する。

「瞳子、何これ、誰なのこの人……」

「間違いじゃないわよ」

 瞳子は秋子を遮った。名前の欄には瞳子ではなく『圭子』という知らない女性の名前が入っている。

「……まさか……」

「私、圭吾君に頼まれたの。何をしたい訳でも、何をして欲しい訳でもないけど、もし辛いことがあった時や、助けが欲しい時には連絡して欲しいって……そう伝えてくれって」

「瞳子……」

 圭吾も携帯を変えたのだろうか、今まで使っていたものとは全然違う番号だった。『圭子』と書かれた携帯番号を、秋子は縋りつきたい気持ちで、同時に途方に暮れた心持で見つめた。


* * *


 司にとって淡いピンク色は、もっとも嫌いな色だった。

 姉の昌代は、どう贔屓目に見てもピンク色の似合わない女だ。ごつい骨格に、青白い肌。顔の造りも大づくりなので、ピンク色のワンピースなどを着れば性別を間違われかねないのでは、と司はいつも危惧している。にもかかわらず、年の離れた姉は、ピンク色をこよなく愛していた。

 司は父、聖から奇妙な教育を受けて育った。欲しがるものは、何一つ買い与えられないというものだ。それは依り代として、魂魄と不必要な契約を結ばない為の、魂魄の誘惑に軽々しく乗らない為の重要な資質を育てる教育だった訳なのだが、当時、その意図を知らなかった司は、父親に散々反抗した挙句、ついには表立って欲しがらずに欲しいものを手に入れるという技術を習得した。

 その際、大いに利用したのが姉の存在だった。

 姉弟でありながら、昌代は、司と違って欲しいものは何でも買い与えられていた。実の母であった正子が特に昌代に甘かったこともあるのだが、姉に関しては、父親は何も口を挟まなかった。だから、欲しいものがある場合は、まず姉をそそのかすのだ。

 いかに、そのゲーム機が面白いのか、人気があるのか、姉の好みそうなソフトを羅列し、たまに自分の欲しいものを織り交ぜながら誘惑する。なにせ家自体は裕福なのだ。ソフトなど欲しがるままに幾つでも、姉には買い与えられる。

 姉は飽きっぽく、同時に気前が良いという、司にとっては実に都合の良い性格を持っていた。飽きれば、恩着せがましく司にプレゼントしてくれることを、司は知っていたし、飽きるまで待てない場合でも、ちゃんと秘策があった。

 虫の死がいが乗っていたと騒ぎ立てる姉に、司はほくそ笑む。

 ところが、問題になるのはいつも色なのだ。たくさんある色の中から、昌代は決まってピンク色を選んだ。

――やっぱりピンクか……カバーを自力で買うしかないか……。

 ようやく手に入れたゲーム機を見て司は軽くため息をつく。


 秋子の為に携帯を選びながら、司は今まで憎悪すらしていた薄い桜色の携帯を手にとった。姉と違って線が細く、少し力を入れれば折れてしまいそうな指の秋子には、その儚げな薄いピンク色が良く似合いそうだった。


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