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第五話

 真っ暗な夜道を追いかけてくる大勢の足音、あるいは昏い水底から伸びる白い手、あるいは大地からにょきりと生え出して足首を掴む赤銅色に焼けた太い腕……。

 司が悪夢しか見ないようになったのは、いつの頃からだったか。

 真夜中に突然目を覚まし、息を弾ませ、汗だくになった体を震わせながら泣いていると、野上はよく温かい飲み物を持って来てくれた。それは、柚子の香りのする甘いお茶だったり、ココアだったり、生姜の効いたくず湯だったりした。

『司様、また悪い夢をごらんになりましたか?』

 司の目を覗きこむ野上の目は慈愛に溢れている。若い頃の野上はもっと柔らかい印象の女性だった。

 しかし野上にも、その他大勢の使用人にも、そればかりか、継母の正子にも姉の昌代にも、志木家にわだかまる闇の存在に気付けない。司の悪夢の原因はそれであるのに、誰にも分かってもらえない。父親はその存在を知っていながら、素知らぬふりをした。何故かと問う幼い司に、

「人は目に見えぬものを信じぬものなのだ。気のせいだ、臆病者だと笑われたくなければ、何も言わぬことだ」と父は言った。

 悪夢は、繰り返すうちに、慣れ、馴染み、当たり前にすらなっていった。


 そして、今、司は浅い眠りから目覚めて、自分が悪夢を見ていなかったことに気がついた。初めて秋子を抱いた夜のことだ。

 隣で気を失うように眠りこんでいる秋子の顔を覗き込む。先ほど、それほど強く叩いたつもりはなかったが、頬にうっすらと紅が刷いているのをみれば、可哀そうなことをしてしまったと、小さくため息をつく。

――誰かに監視させた方が良いかもしれない。あれだけ佐藤家への支援打切りをちらつかせたのだから、そう簡単に早まったことはしないと思うが……。

 髪を優しく梳くように撫でる。

 その時、突然秋子が身を起こした。隣にいた司もつられて起きあがる。

「ツカサ……」

 怪訝そうに見つめる司を見つめ返して、秋子が妖艶にほほ笑む。司は目を見開いた。

「まさか……ヒルコか?」

 秋子は、嬉しそうに頷く。しかし次の瞬間、顔を顰めた。

「……イタイ……」

 ヒルコは顔を歪ませた。シーツには紅の染み。

「……イタイ……苦しい……イヤダ……イラナイ……」

「……まさか……」

――初めてだったのか?

 司は戸惑ったように口ごもる。

「こんなカラダ……イラナイ……クルシイ……」

 ヒルコは苦しげに体を丸めると、そのまま気を失うように倒れた。

「うう……」

 ヒルコが気を失うのと同時に表情が変わる。秋子が意識を戻せば、ヒルコは簡単に落ちてしまうらしかった。


 それ以降、ヒルコは眠って意識が無くなった秋子の体をたびたび乗っ取るようになった。

「コノ神器は、フカンゼンなのだ。この女のイシキがなければ、この体ハわたしのモノにデキル」

 ヒルコは声をあげて笑った。


 普通ヒルコは人の心に憑いて操る。心を操ることはできるが、人の体を直接動かすことはできない。秋子の場合は、それが逆になっているようだった。心には憑けない。その代わりに、意識が無い時には、体に憑いて自在に動かすことができた。


 代々シャーマン体質を受け継ぐ血筋の志木家なのだが、誰でもその性質を受け継ぐとは限らない。その証拠に、司の姉、正妻の子である昌代はその性質をほとんど持っていなかった。

 そもそも志木家におけるシャーマン体質とは、闇に潜む魂魄の依り代となることであり、依り代として魂魄を制御することであり、あるいは、可能な限り魂魄を鎮め、浄化することであった。その昔、志木家が国造として国を治めていた頃、その作法は構築されていた。しかし、時代の流れの中で、それらは儀式化し、形骸化し、やがて忘れ去られた。そして、その力のみが継承され、今に至っている。


 ヒルコは、司が高校生になった時に初めて父から下された魂魄だった。ヒルコは孤独と絶望を抱き、成仏できない魂魄の一つであったが、力を持ち、魂魄にしては道理をわきまえた存在だった。魂魄の中には、当然、その怨念や欲望のままに暴走するものもいるのだ。ヒルコが司を依り代として存在する限り、司は、他の魂魄の暴走を制御できるし使役もできる。一方、ヒルコは司の魂を喰らうことによって、力を得ることができる。言わば、共存共栄の関係にあった。

 だから、ヒルコが秋子の体に度々取りつくことによって、秋子が消耗するのではないかと危惧しながらも、司は、それをあからさまに止められないでいた。


 深夜、秋子の部屋で、ヒルコは嬉々として指を伸ばしたり曲げたり髪を手で梳いたり、顔に触れたりする。部屋の隅に置いてあった姿見へ歩み寄り、乱れた夜着を脱ぎ去ると、鏡に向き合って自分の体を確認する。白い素肌に赤い痣があちらこちらに散っている。これは先ほど、司が付けたものだ。司が抱いても、もうさほどの苦痛は感じない。

――ツカサはこのウツワをとてもキに入ってイル……だからワタシもこの器がスキだ。

 鏡に映っている秋子は昏い笑みを浮かべる。


 ヒルコは、この器に宿って初めて肉体の痛みを感じた。ヒルコは生まれてすぐに、親に見捨てられて死んだので、五感の記憶がほぼ無かった。

――イタイのはイヤだけれど、ダキシめられるのはスキだ。肌にフレルあたたかさがスキだ。ツカサにやさしく髪をナデラレルのは、たまらなくスキだ。良いニオイがする花や果物がスキだ。静かにフル雨のオトが好きだ。

 秋子の体を通して感じる五感に、ヒルコは夢中になった。



 司に、ほぼ無理やりのように抱かれた翌日、秋子が真っ先にしたことは、自室に内側からかけられる鍵を取りつけたことだった。不審気に理由を問う家人に、どうしても、と言い張って付けてもらった。しかし、そんな鍵など何の役にも立たないことを、秋子はその日の内に思い知らされた。


 夜半、ふと気付くと部屋の中に司がいる。それよりもなお一層、信じられないのは、自分がソファに座っている司の膝に跨って、口づけを落としているこの状況だ。

「……っ」

 目を見開いて凍りつく。

「どうしました? もう終わりですか?」

 灯りを絞ったほの暗い部屋で、司が楽しそうに笑む。

「私……どうして、こんなこと……。あなたはどうやって部屋に入ったんですか? 鍵をかけてあったはずなのに……」

「あなたが開けてくれたじゃないですか」

 司は肩を竦める。

 秋子は慌ててドアの鍵を見る。予想に反して壊れている様子は無い。だけど、自分で開けた記憶も無い。

「……私……どうして……」

「あなたのせいで、こうなったんだから……最後まで責任をとってくれますよね? お義母さん」

 司は艶然とほほ笑んで、秋子と上下を入れ換わると、そのまま深く口づけた。



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