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第四話 *

R15描写があります

 秋子は泣き腫らした顔で、ベッドに腰かけていた。濡れた睫毛や赤みを帯びた瞼や、涙を吸って顔に張り付いたおくれ毛が、痛々しい。秋子の様子を見て、司は途方に暮れる。

 遠くで幽かに雷の音がした。


 秋子が聖の後添えとして志木家にやって来た時も、同じように司は途方に暮れた。その時のことを思い出す。


 秋子を手に入れると言ったヒルコは、あっという間に、佐藤家の経済状態をどん底に陥れた。養父母の心に巣食って、ギャンブルだの不慣れな先物取引だのに手を出させたのだ。

 結果として、それまで零細ながらも堅実な経営を営んでいた鉄工所は、あっという間に窮地に陥った。まさに、不渡りを出して倒産か、と思われたところに志木家が資金援助を申し入れ、佐藤家の窮地を救ったと言う形だ。

 秋子の志木家への嫁入りは、その時の救済の条件だった。

 司ではなく、聖の嫁という形で志木家に引きこんだのは、当時、司には形ばかりの配偶者がいたからだ。秋子には、その時既に婚約者がいたので、結婚する前に手に入れる必要があった。

 時間が無かったとは言え、婚約済みの幸せ絶頂な時期に金の力で無理やり引き離し、父親ほどの年齢の男の後添えにしたことになる。

 秋子が名和家の人間であるということを知らせ、監視すべきだと父親を焚きつけ、世間体があるからと、結婚式もお披露目もなしに秋子を志木家に迎え入れた。すべてが、司の目論見を完遂する為だ。

 花嫁衣装さえ着ることもなく、珊瑚色の振り袖を纏って志木家にやってきた秋子は、一年前、九条家の式場で見た秋子とは別人のように表情を失っていた。


 秋子が志木家にやって来た夜、花嫁を放ったらかしたまま聖が自室に引っこんでしまうと、司は秋子の部屋を訪れた。

 それは、ただ単に話をしたいと思ったからであり、不慣れな志木家で困っていることが無いか訊く為であり、このような迎え方をした非礼を詫びるつもりだったからであり……かつて、九条家の式場で会ったことを覚えているか探る為でもあった。

 決して最初から、秋子を無理やり自分のものにしようなどと思っての事ではなかった。

「秋子さん、少しお話をしたいのですが、構いませんか?」

 ノックをして声を掛けると、少し間があった後、「どうぞ」と中から硬い声が聞こえた。既に夜着に着替えていたらしい秋子は、淡いサーモンピンクの薄いガウンを羽織っていた。

「遅くにすみません」

「いえ、何か」

 硬い声、薄い表情、希望を失った虚ろな瞳……ある程度予想していたことだとは言え、まのあたりにしてしまえば、どうしても罪悪感を強く感じてしまう。

「……少しお邪魔しても?」

「……どうぞ」

 少し躊躇した後、秋子は司を中に入れた。


 秋子の為に用意された部屋は、聖の部屋のすぐ傍だ。だからさほど司には警戒しなかったのかもしれない。

 結婚しても別部屋だと言い出したのは聖だった。秋子もそれで構わないと言ったのだが、その実、一番ほっとしていたのは司だった。策を弄して秋子を志木家に迎えたが、まかり間違って、自分の父親と相愛の状態になってはシャレにならない。五十以上歳が離れていても、所詮、男と女だ。


 秋子は自室のソファを司に勧め、自身は少し離れた小デスクの椅子を引っ張ってそこへ座る。司は部屋の中をぐるりと見渡した。ほぼ何もかも志木家で用意した家具なのだが、秋子が一日過ごしただけで、何か雰囲気が違う。厳めしい雰囲気が軽やかに、健やかになっている気がした。

「……何か必要なものがあったり、困ったことがあったりした時は、遠慮なくメイドに言いつけてください」

「お気づかいありがとうございます」

 口調は柔らかいが、秋子の表情は虚ろだ。司はため息をつく。

「あなたは……俺を覚えていますか?」

「……」

 司の言葉に表情を変えないことから、秋子は覚えているようだ。

「九条家の結婚式であなたを初めて見た時、あなたはもっと……」

 あの柔らかな陽だまりの様だった笑顔を壊した張本人が、もっと笑えなどと言えるはずも無く、司は言葉を途切れさせた。

「……もっと、馬鹿みたいに笑っていましたよね。何の心配も、不安もなくて、貴方から見れば、無知で無防備な馬鹿な小娘に見えたことでしょう」

 秋子は、司の顔の十センチほど手前の空中を見ているような虚ろな瞳で嗤う。

「志木家が……憎いですか? あなたは、あなたを金で買うような条件を付けた志木家が嫌いでしょうね」

 秋子の瞳が、ようやく司の顔で焦点を結ぶ。しかし、その瞳には何の色も見つけられなかった。憎しみも、嫌悪も、悲しみもなく、ただ、ただ、空虚な瞳で小さく笑む。

「……ええ、嫌いです。でも、感謝はしています。とりわけ佐藤の父や母や従業員は、志木家にとても感謝しています。ですから、私も誠心誠意、志木家に御恩を返させていただくつもりです。こんな小娘が義理の母になるなど、お気に召さないかもしれませんが、私でできることがあれば、なんなりとお言いつけください」

 司はソファから立ち上がると、秋子に歩み寄った。反射的に立ち上がった秋子の手首を捕まえる。

「っ……なんですか?」

 軽い動揺を刷いた顔で、秋子は司を見つめる。

 司は、秋子の言葉が聞こえているのかいないのか分からない表情で、秋子の頬に指を這わす。

 その途端、秋子のもう一方の手が、小テーブルに飾られた果物の籠に添えられていた果物ナイフに伸びた。

「離してください。何かしたら、私、死にますから。そもそも、九条家の式場で、隙だらけだと私に注意したのはあなたでしたよ?」

 果物ナイフの切っ先を自分の喉元に当てて、司を睨みつける秋子の瞳には、驚愕と焦りと憎悪が滲んでいた。

 どんな感情であろうとも、それは紛れもなく躍動する生の感情で……一瞬、その瞳の力の強さに高揚しつつ、しかし、次の瞬間、考える間もなく司の体は秋子の行動に勝手に反応していた。

 握りしめた手からナイフをもぎ取り、部屋の隅に投げ捨てると、手首を引き寄せて秋子の頬を何度も平手でぶつ。

「今度こんなことをしたら、佐藤家への支援は即打ち切ります。あなたは人質なんですよ。どうやら、あなたは口先だけで、自分の立場がよく分かっていないようだから、この際、はっきりさせておきましょう」

 司は、昏い瞳で秋子の瞳を覗きこむと口づけた。もがく秋子を押さえつけて、更に深く口づける。

「いや! やめて……」

「佐藤家が抱えている借金がいくらかご存知ですか? 今回の件で、どれだけ信用を失って、どれだけ志木家に頼らなければならないか、あなたは御存じなんですか?」

「……」

 秋子の顔が嫌悪と憎しみに歪む。

「あなたは金で買われたんですよ。何をされても文句なんて言えないんです。それに、誰も助けてなんてくれませんよ。よく覚えておくとよいですよ。お義母さん」

 司は、秋子をベッドに押しつけると、襟元を力まかせに肌蹴させる。夜着のボタンがいくつか千切れて飛んだ。

「いやぁ」

 手で口を押えると、首筋に唇を這わせる。

「今あなたにできることは、俺に大人しく抱かれること、それくらいですよ」


 願うことはただ一つ。

――俺を憎めばいい。俺を憎んで生きてくれればいい。抜け殻のように死に寄り添って生きるより、その方がずっと良い。ずっと良い……。


* * *


 雨が降り始めた。夜陰に木々の葉を叩く雨音が静かに響く。

「シュウ……」

 ベッドに座ったまま、頑なな表情で床を睨みつけている秋子の頬に、司は手を伸ばす。

「泣かないでくれ。君に泣かれると、俺はどうしたらいいか分からなくなる……」

 司の言葉に、秋子も当惑した表情で見上げる。

「……どうしたらいいのか分からないのは、私の方です」

 そう言って司を見上げた瞳から涙が一筋零れ落ちる。

「あなたに見捨てられてしまえば、私も、そしてお腹の子も、どうやって生きて行けば良いのか分かりません。この子はあなたの子どもなのに、ここを出されては、どこも行く所が……」

 秋子の顔が歪む。涙が、ボタボタと落ちた。

「ごめん、シュウ。分かっている。その子が俺の子だって、本当は分かっているんだ。君にも、その子にも、ここに居て欲しいと思っている。心からそう、思っている」

 司は秋子を抱きしめた。秋子の涙に胸を痛める一方で、逆に、その泣き顔に安堵もする。

――あの頃のような、無表情な顔よりはずっとましだ。



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