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第三話

 秋子の部屋へ続く廊下を歩きながら、野上は思案する。

 ここのところ、随分良い状態が続いていると思っていたお二人なのだが、何かあったらしい。

 野上は司が少年だった頃から志木家に仕えている古株のメイドだ。だから、その気性も性格も、どのような教育を受けて育ってきたのかも承知していた。

 厳しく理不尽な大旦那様の躾、一介の使用人が口を出して良いことではないのだろうが、大旦那様の司様への接し方はひどく歪んでいたと思う。正妻の子ではなかったことを考慮しても、正妻の子、昌代様との待遇には格差があり過ぎた。

――昌代様は甘やかされ過ぎ、逆に司様は厳しくされ過ぎだった。だけど……、

 結果として、司は、野上が誇らしいと胸を張れるほど立派な青年になったとも思う。


 野上にとって司は、どんなに厳しくされても、逆にそれを逆手にとって利用するほどの利発さと、子どもながら、涙さえ浮かべずに反論できる精神的な強さと、野上の様な使用人にさえ気遣いのできる優しさとを持ち合わせた、パーフェクトな若当主だった。

 メイドの中には、所詮妾腹の子どもだなどと、軽んじた発言をする者もいたが、野上は常に司の味方だった。自分が使用人として出世すれば、より良く司を盛りたてて行ける。そう信じて志木家に仕えて来た。その結果、メイド長にまで上り詰めた訳なのだが……、

――司様は、その複雑な生い立ちのせいか、人を愛すること愛されることに不慣れでいらっしゃる。

 野上でさえ、そう認めざるを得ないほど、司の秋子に対する態度は目に余るものがあった。欲望のまま無理やり抱いたり、意地悪な言葉を投げつけたり、意味もなく行動を制限したりしているように、野上には見えるのだ。


――それに……、

 野上は眉間にしわを寄せる。

――秋子様は悪い方ではないのだけれど、少し幼さが残り過ぎている気がする。

 頼りなげで儚げで、だからこそ保護欲をかきたてられた司様の心を射止めたのかもしれないが、いつまでもこのように頼りない様子では先が思いやられる。しかし、それでも、結婚した次の日に、この屋敷にはお化けが居るなどと難癖を付けて、実家に帰ったきり戻って来なかった前妻に比べれば格段にましなのだ。


 野上は、秋子の部屋の前で一旦立ち止まって軽く深呼吸をすると、ドアをノックした。返事は無かったが、構わずドアを開ける。

 秋子はベッドで寝具を被ったまま、丸くなっていた。時折、しゃくりあげる声が聞こえるので、泣いているのだとすぐに分かる。その様子を一目見て、野上は小さくため息をついた。

――これでは、叱られて泣いている子どもと同じではないか。

「奥様、ご気分がすぐれられないとか……具合はいかがですか? 何か召しあがらなければ、お腹のお子様にも障ります。何でしたら召しあがられますか?」

 野上の声に、びくりと身じろぎをした様子だが、無言のままで、寝具から出てくる気は無いらしい。野上は「失礼致します」と言って寝具をそっと持ち上げると、中を覗きこんだ。

「奥様、お昼間、庭で何があったのか野上に話す気にはなれませんか? 何かあったのでしょう? わたくしでお力になれることがあるかもしれませんよ? 力になれずとも、胸の内のわだかまりは、話すだけで気持ちが軽くなることもございますし……」

 野上は目一杯親身に聞こえるように声色を調節する。メイド長である実力を余すことなく活用した交渉術だ。

 甲斐あって秋子は、庭師が、とか、司さんが、とか、涙ながらに、とぎれとぎれに、それでも懸命に話し始めた。野上は、相槌は打つが口は一切挟まず、辛抱強く聞く。しかし、お腹の子が自分の子ではないのではないかと疑われたことを話した途端、秋子は号泣した。


 野上は大きなため息をつく。恋愛に不慣れでいらっしゃるのは奥様も同様らしい。「それは、やきもちを焼かれたんですよ」という言葉を、野上は、ぐっと呑みこんだ。いくらなんでも、それは、あからさまに過ぎるだろうと思った訳なのだが……。

「奥様、恐らく司様は、お子様の事を本気でお疑いになってはいらっしゃらないと思いますよ」

 それは勢いで言ってしまった言葉なのだろうと、野上は推測した。もっとも、ここ数カ月の二人を見ていた志木家の使用人であれば、誰もがすぐにそう思い当たったことだろう。

 なぜならば、大旦那様はかなり以前から死の床についていたのだし、諸事情で、秋子はほぼ毎日自室で過ごしていたのだし、たまに出かけていた佐川家にも、必ず同伴者を付けていた。更に言うならば、ここ数カ月、ほぼ毎晩のように司は秋子の部屋を訪れていた。それを知らぬ志木家の使用人はいないほどで、司に疑う余地など無かったはずなのだ。それでも司から疑う言葉が出たのだとしたら、嫉妬から出た言葉であることは容易に察しがつく。なのに、それを真に受けて、ここまで身も世もない様子で泣きじゃくっているのだから、秋子の司に対する気持ちもまた、同様なのだろう。


「私……もうここには……居られないん……でしょうか?」

 泣きながら問う秋子に、野上は苦笑しながら首を横に振った。

――お二人には、時間が必要なのだ……真の絆を結ぶ為の……

 今は、その涙に任せた方が良さそうだと野上は判断した。

「奥様、司様とお話しなさいませ。司様もそれをお望みのはずです」

 絶望的な顔で泣きながら首をふる秋子を宥めすかし、今度は司様を説得か、と野上が部屋を出たところに、司が立っていた。

「野上、シュウは……」

 少し思い詰めたように、かなり困惑したように立ちつくしている現当主に、野上は苦笑する。

――このお二人は、良く似ていらっしゃる……

「……ひどく、お泣きになっておいでです。奥様は……その、かなり思い詰めていらっしゃるご様子で、司様に嫌われてしまえば、もうここには居られないとおっしゃるのです。司様は、奥様に何かそのようなことをおっしゃいましたか?」

 野上の言葉に、司は更に困惑した様子で首を横に振った。

「そうですか、奥様の勘違いでしたか。ほっと致しました。私もそうではないかと、奥様を宥めていたのですが、誤解があるならば、やはり、司様が直接奥様にそうおっしゃるのが一番だと、今、ご相談に伺おうと思っていたところでございますよ」

 少しお待ちください、と言いながら野上は再び部屋の中へ戻り、すぐに出て来た。

「司様、奥様がお待ちです。差し出がましいことを申しますが、今の奥様は心がとても不安定な時期なのです。できるだけ優しく接して差し上げてくださいませ」

 野上の言葉に素直に頷いて、司は部屋へと入っていった。


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