第二十話
リビングに戻ると司は仏頂面のまま相変わらず新聞を読んでいる。メイドがお茶を片づけてしまったところで、秋子も自室へ戻ろうといとまを告げると、思いがけず呼びとめられた。
「シュウ、ここへ来なさい」
司が指し示す場所を見た瞬間、秋子はポカンとして激しく瞬いた。
――ここ? ここって……そこですか?
そこはどう見ても司の膝の上だ。
「あ、あの……そこ? ですか? え? えと……」
「そう。ここ」
司は至って真顔で、再び自分の膝の上を指さす。どうやら間違いではないらしい。
おずおずと歩み寄りとりあえず隣に座る……つもりだった秋子は腕を掴まれてバランスを崩し、結果として司の膝に勢いよく着地した。
「きゃあ……あ、あの、ごめんなさい。痛くなかったですか?」
慌てて謝る秋子に司は仏頂面のまま返答する。
「痛かった」
「そ、そうですよね~。あ、でも今のは司さんが引っ張るから……」
「胸が痛かった……」
秋子の謝罪の言葉は司の言葉で遮られた。
「え? あの……司さん?」
――痛かったのは胸ですか? 膝でなく? 私ってば座った拍子に胸まで押してしまってた?
「シュウが崇ばかり見ているから……」
――え? え……と……。
「やっぱり茶丸はここで飼おう。そうすれば君が佐川に行かなくて済む」
「司さん……。誤解ですよ? 私は崇さんを見ていた訳では……」
島の話に心を惹かれただけだ。そう続けようとした言葉は唇をふさがれて途切れた。後頭部を押えられ顎を持ちあげられてしまえば、秋子は身動きが取れない。
「……ん、っんふ。司……さん……」
深く合わせられていた唇がふいに離されて、潤んだ瞳で見上げると、冷ややかな瞳が覗きこんでいる。
「面白くないな。君は、崇の言葉には始終楽しそうに笑う癖に、俺といる時は、いつも困った顔をしている」
「そんな訳では……」
口ごもる秋子を軽く押しやって膝から下ろすと、司は出かけると言い残して部屋を出て行った。
一人取り残された秋子は、軽く途方に暮れたまま小さくため息をつく。
――私ってば、また言い出すきっかけを逃してしまったみたい。久しぶりに一緒の週末だったのに……。
きっかけを、いつでも逃してからそうだったのだと気づく自分が歯がゆい。
先月、野上から桜色の着物が司から秋子への贈り物だったのだと言うことを知らされて以来、ずっとお礼を言いたいと思っていたのだが、秋子はなかなか言い出せないでいた。今更だったし、司がどんなつもりであの着物を秋子に買ってくれたのか……それを知ることになるかもしれないと思うと少し怖かったからだ。もし、単に必要だから買ったそれだけの理由だとしたら、自分がかなりがっかりすることを否めなかった。
――私ってば、なんて自己中なんだろ……。
自分ががっかりすることを恐れてお礼を言い出せないのなんて最低だ。理由はどうあれ、秋子の為に着物を買ってくれたわけなのだから。
茶丸のことにしても、着物の事にしても、司のやり方はとても分かりにくい。
秋子はこの家に来てから、自分の身の不運に嘆いてばかりいて気持ちに余裕が無かった。だからそのせいで周りが見えていなかったことは確かだ。司のことはひどいことをする人としか認識していなかった。だけど今ならば、司が常に秋子の気持ちに可能な限り沿うように配慮してくれていたのだということが分かる。
欲しいものを素直に欲しいと言えなくする教育。そんな歪んだ教育を司が受けていたのだと言うことを秋子が聞いたのはつい最近だ。それを野上から聞いた時、それが霊魂と契約を結ぶ者として必要な教育だったのだろうということは、すぐに見当がついた。
ヒルコを筆頭とした、司を依り代として憑いていた霊魂を浄化してから後、司は圧倒的に気配が明るくなった。性格という意味ではない。あくまでも気配だ。ヒルコやその他の霊魂の存在を全く知らなかった野上でさえ、それに気づいている。その司の変化を、野上は秋子のお陰だと思っているようだが、実際は霊魂による浸食が無くなったからだと秋子は考えている。
あのまま霊魂に浸食されていけば、司はどうなっていたのだろう。大旦那様のように昏倒したまま逝ってしまう可能性もあったのだろう。司と同様にシャーマン体質だった大旦那様の聖は、司よりも更に長い間霊魂に浸食され続けていたと考えられるからだ。司がそうなったらと考えると、秋子は怖くなる。
秋子はこれまで、幽霊だの超常現象だのと無縁の暮らしをしてきたと自分では思っていたし、そんなものを見たことも感じたこともなかったのだが、あの霊魂封じの土偶を作っていた時のあの不思議な感覚を覚えてからは、少しそのような気配を感知できている気がしていた。集中して土偶を作っていた手を休め、気をふわっと解いた時に感じた、憎悪に近いような焦りの感情。あれがヒルコのものだったのだとしたら……。
ヒルコはきちんと成仏できたんだろうか。その伝説の島に行けば、それを知る手掛かりとなるものが、あるんじゃないだろうか。
――司さんも、本当はそれを気にしているんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、メイドの一人が来客を知らせにきた。