第二話
まだ安定期に入っていないと言うのに、秋子は目を離すとすぐにふらふらと屋敷中を歩き回る。外見からはまだそうとは分からないが、秋子のお腹の中には司の子どもがいるのだ。いくら手入れが行き届いた庭だと言っても、段差はあるのだし、木の根に足をとられないとも限らない。しかし何よりも司の気に入らないのは、庭師などとにこやかに話をしていることだ。二階の窓から秋子の姿を見つけた司は、顔を顰めると、足早に階段を駆け降りた。
* * *
九条家の結婚式には、本来ならば父親が出席するはずだった。
司はうんざりした顔で、ガゼボ内にあったベンチに寝転ぶ。
『司、新郎はおまえの大学時代の同窓だそうじゃないか。ちょうど良い。おまえ、代わりに出席して来い。儂は大事な用事ができた』
前の日の晩、父親である志木聖はそう言った。
――冗談じゃない。
司は、ここ数カ月ほど休みをとっていなかった。休みなし、残業は当たり前、それもこれもすべて父親の目論見のせいだ。
乗っ取り屋……それが世間での志木家の評判だ。あからさまにそう言って来るものはなかったが、陰でそう噂されていることなど百も承知だ。いくら大学時代の同窓だと言っても、九条家のものが志木家を良く思っているはずがなかった。
――面倒だ。
しかし、司に拒否権は無い。父親がそうしろと言えばそうするしかないのだし、やめておけと言えば、それは叶わぬこととなる。当時の志木家は聖の独裁政権下にあった。
式場の奥庭には、よく手入れされたイングリッシュガーデンが広がっていて、その最奥にガゼボがあった。西洋の童話に出てくるような白亜の壁に消炭色の瓦屋根。
やれ写真だ、フラワーシャワーだとはしゃいでいる主役と出席者達が退いてしまうまで、そこに避難していようと歩み寄っていたところに、唐突にブーケが飛んできた。
薔薇、トルコキキョウ、スイートピー……ブーケは白とごく淡いピンクを基調にしたオーバル型で、甘ったるい雰囲気で造られていた。
――先ほど九条家の花嫁が持っていたブーケは、どちらかと言うとスッキリとした大人っぽい白いブーケだったようだが……
司はブーケを拾い上げると、辺りを見渡した。
「瞳子ぉ、飛ばし過ぎよぉ」
かなり離れた場所で、一人の女が声を張り上げる。高すぎず低すぎず透明感のある声は涼やかに甘い。艶やかに結い上げられた栗色の髪の両脇から垂らされたおくれ毛が、いかにも柔らかそうに揺れる。その女が振り向いた途端、司の目は釘づけになった。
――もっと近くで見てみたい、話をしてみたい……触れてみたい……
恋はおろか、一目惚れさえしたことがなく、聖に言われるまま結婚をした司だった。だから、その女を見た瞬間に芽生えたその気持ちを、一旦育ててしまえばどのような事態になるのかなど、その時の司は、まだ理解していなかった。
* * *
庭師とにこやかに話しこんでいる秋子の腕を掴んで、屋敷へ引き上げる。司に挨拶をしている庭師にも、驚いたように手を引かれてついてくる秋子にも目を向けず、司は秋子を自室まで引っ張ってきた。簡素で、飾り気のない司の自室のデスクに秋子を抱き上げて座らせる。
「司さん? どうしたんですか?」
驚いて見上げる秋子に口づける。軽く何度も、やがて深く咬みつくように。
「んっ……やっ、司さん、やめてくださいっ」
歯止めが効かないようにエスカレートする愛撫に、秋子が司の胸を押すと、司の凍りついたような視線が秋子に注がれた。秋子は竦み上がって震える声で名を呼ぶ。
「司さん?」
「君は……庭師とは楽しげに話す癖に、俺と話す時はいつも怯えるんだな」
「違いますっ。そうではなくて、お腹の子どもが心配だったから。だから……」
「その子は本当に俺の子なのか? 君は父と結婚していると思っていたし、あの庭師とも随分親しいようだったし……」
「……ひどい……」
秋子の結婚に関しては、様々な細工をして誤解させていたのは司自身だ。それを秋子の落ち度のように言われるのでは、あまりにも不合理だ。司の言葉に秋子は涙ぐむ。
「大旦那様は……私の事を嫌っておいででした。それは司さんが一番良く御存じだったではないですか?」
司は秋子の問いに返答するつもりがないようで、視線をそらしたまま背を向けた。秋子は唇を噛みしめたまま、司の部屋を後にする。ドアをあけて、部屋を出ようとしている秋子に、司は後ろから声を掛けた。
「シュウ、君は外出禁止だ。自分の部屋で大人しくしていなさい」
秋子は無言のまま、振り返りもせずに部屋を出て行った。
「くっそ!」
司は、壁を拳骨で叩く。
――話をすれば、触れたくなり、触れてしまえば、自分のものにしたくなる。自分のものにしても尚、自分だけを見ていて欲しい、自分だけを愛して欲しい、もっともっとと駄々を捏ねる、この厄介で分からず屋な得体の知れない感情は、一体何なんだ。
九条家の結婚式場の庭で初めて秋子に口づけた時以来、司自身でさえ驚くほど、秋子への執着が日に日に手が負えなくなっていた。
当時、司を依り代としていた霊のヒルコに命じて後を尾行させ、鉄工所を営んでいた養父母のことを探り出し、既に婚約者が居ることを知った時の苦しさときたら……。
『ツカサ……あのオンナがほしいんダロう?いいことヲ、オシエテヤロウか?』
秋子に関する報告を終えたヒルコは、いつになく楽しげに司に話しかけた。
「いいこと? 何だ?」
『アノ女がホシイといえバ、おしえてヤル』
ヒルコはシャーマン体質を引き継ぐ志木家に住みついている魂魄だ。当時は司の憑依霊として司の支配下にあった。だからその声は、司にしか聞こえない。司が命令すれば、魂魄はそれを叶えるが、その見返りとして司は自身の魂を喰らわれる。それが、代々、志木家のシャーマンが魂魄と交わす契約の作法だ。
魂を喰らわれれば、その分、闇に支配される。魂魄の誘惑に易々と乗らぬよう、司は父から厳しい教育を受けていた。
「……」
『あのオンナがほしいのダロウ? あの女ヲ、テニイレられル重要な情報ダ。知りたくはナイか?』
いつになくしつこく、いつになく熱心に勧めるヒルコに、司は首を傾げた。
「何故それほどまでに、あの女を手に入れることを勧める?」
『もう、コトは動き始メタのだ。おまえが、あのオンナをつけさせたトキ、既にあのオンナのメイウンは尽きた。ワタシがテをくださズとも、イズれダレかが、あの女にテヲくだすダロウ』
「……まさか……まさか……あの女は……」
あの女は、この世を彷徨う霊魂に、その存在を知られてはならない類の人間だったのかと、司は愕然とする。
『ホシイと言え、ツカサ。ワタシがなんとしてもテニいれてヤろう。そしてホカノものには、テをださせナイ』
ヒルコは力を持った魂魄だ。彼女ができると言えば、できるのだ。秋子を手に入れることも、他の魂魄に手を出させないことも可能なのだろう。ヒルコの言葉が真実ならば、司のせいで佐藤秋子は窮地に陥ったことになる。
「……欲しい。彼女が……佐藤秋子が欲しい」
第一義は、彼女の救命の為、次が所有欲からだったと司は思っていた。当時は確かにそうだったはずなのだ。
『ワカッタ。あのフカンゼンな神器を手にイレてミセよう』
昏い笑みを残して、ヒルコはいずれかへと消えた。
司はひとり呆然と佇む。
佐藤秋子は、父が忌み嫌い、迫害を加えて来た三種の神器、「鈴」、「縄」、「石」のうちのどれかだったのに違いない。そうとは知らず、司はあの女の素性を知りたかったが為に、魂魄に命令して尾行させた。
志木家には代々伝えられてきた史書があった。それによると、志木家はその昔、シャーマンとして地方にある土地を治めていた国造だったらしい。そして、その力を駆使する為には、三種の神器「鈴」「縄」「石」の三つが必要だった。当初、三種の神器とは何を指すのか、具体的なことは分かっていなかった。それを解明する為に、史学者だった聖の弟、仁が調査していたのだが、調査半ばで原因不明の病に倒れ他界した。
仁の調査によると、三種の神器とは、それぞれその血筋を守ってきた家系であること。その血筋が、とある島で今も尚、脈々と受け継がれ守り続けられていること。そして、その島には不思議な伝承が伝えられていることだった。
仁の死以降、聖は三種の神器を恐れ、忌み嫌うようになった。志木家にとって神器は、とても危険な存在なのだと。
これら一連の事件は、すべて司が生まれる前に起こった出来事だったが、司はこれらのことを聖から何度も聞かされて育った。
佐藤秋子は名和家の出身、「縄」の力を持つ神器の血筋だと、ヒルコはそう言った。三種の神器のうち、聖が一番恐れていたのは「石」の力を持つ石守家だったが、魂魄からの迫害が一番激しかったのが「縄」の力を持つ名和家だった。霊は縄の縛める力を嫌っていた。
名和家である彼女を恐れるよりも、自分がとった行動が彼女の人生を狂わすことになった、否、なるだろうことを司は恐れ、同時にひどく困惑した。自分が彼女の素性を霊に調べさせなければ、彼女の力は見つかることなく普通に暮らせていたのかもしれない。その程度の力だったのかもしれない。自分は取り返しがつかないことをしてしまったのかもしれない。じわりと湧き上がる罪悪感。
自分がしでかした失態を、償いたいと思ったことは確かだ。しかし、今にして思えば救命とは名ばかりの、秋子を手に入れる為の大義名分だったに過ぎないのだと分かる。
――自分は、ただ、ただ、秋子が欲しかったのだ。
庭師にまで嫉妬した挙句、つい投げつけてしまった司の言葉に傷ついた様子の秋子が出て行って、自室に一人取り残された司はイライラと髪を掻きむしった。
志木家に巣食っていたヒルコを含む魂魄達が、三種の神器の力で祓われて後から今に至るまで、魂魄が志木家に巣食っている気配は無い。恐らく、秋子には魂魄を寄せ付けない何か別の力があるのだ。
秋子は元々、名和家の出身、つまり三種の神器のうちの「縄」の力を持っている。縄の力は、「繋ぐ」「縛める」の二種類。だが、縄という言葉の意味をそのままにとれば、「寄せ付けない」という力が存在したとしても不思議ではない。注連縄が良い例だ。注連縄は、神前または神事の場に不浄なものの侵入を禁ずる印として張る縄だ。つまりKeep Outと言う訳だ。
――寄せ付けない力が、人間の男に対してもあれば良いのに……
司はため息をつく。
秋子の「縄」の力は、魂魄のみにしか働かない。人間の男に関しては、むしろ引き寄せているのではないかと疑うほど、どこに居ても秋子は目を惹いた。もともと、儚げで、童顔で、だけど端正な顔立ちをしている秋子は、誰かが守ってやらなければと思わせてしまうオーラを放っている、と司は思う。
「司様、奥様が夕食を欲しくないとおっしゃって、自室から出ていらっしゃらないのですが……」
夕食時、メイドが困惑した様子でダイニングにやってきた。
「……」
司は眉間にしわを寄せて、ダイニングの椅子から立ち上がる。ところが、それを制するように、野上が口を挟んだ。
「司様、私が参りましょう。司様は先に召しあがっていてくださいませ。奥様は今体調がすぐれないせいで、気持ちが不安定なのでしょう」
何か言いかける司に、ほほ笑みかけると一礼して、野上はダイニングを後にした。