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第十八話


 六月の終わり、夏越(なごし)しの大祓おおはらえの日、志木家は決まって屋敷中の大掃除を行う。まだ梅雨はあけていないが、今年は晴天に恵まれた。


 タンス部屋もドアが開いていて、たとう紙に入ったままの夏物の単衣ひとえの着物が数本取り出されている。冬物と入れ替えるらしい。冬物として取り出されたあわせの着物の中に、あの桜色の着物があった。

「あら、これ……」

 たとう紙の窓からチラリと見える柄に、秋子は目を止めた。あの桜色の着物はまだ志木家にあったのか、と秋子は首を傾げる。


 ――司さんの前の奥様の物は、つい先日整理して全部送ったと彼は言っていたはずだ。野上も頷いていた。なのに、なぜこの着物はまだここにあるの?


「奥様、もうしばらくお部屋にいらしてくださいませ。まだ埃が舞っております。御気分でも悪くされたらお腹のお子様に触ります」

 野上が声を掛ける。


「ねぇ、野上。この着物は前の奥様のものではなくて? お送りするのを忘れたの?」

 野上は秋子が指しているたとう紙を凝視するが、間もなくホッとしたようにため息をついた。


「何をおっしゃいますか。これは司様が奥様に買って差し上げたお召し物ではございませんか。大人っぽいものを選ぶようにと大旦那さまに頼まれておりましたのに、勝手にこれを買われてしまって……。あの時はどうしたものかと思いましたが……結局、この袷が奥様には一番よく似合ってらっしゃいますね」

 そう言ったところで、野上は突然声をはり上げた。

「あー、ダメダメ、それはそこではありませんよ」


 そう言いながら新入りのメイドを指導に行ってしまう。一人残された秋子は呆然と佇んだ。

 え? えっ? ええーっ?


 ――司さんが私に買ってくれたもの?



 夏越しの大祓の日には、三時のお茶の時間、使用人全員に水無月みなづきという和菓子がふるまわれるのが志木家の伝統になっている。水無月とは、三角形のういろう地の上部に小豆がたくさん乗っている伝統菓子の名称だ。


 三角形のういろうは氷を意味し暑気払いを、小豆は魔よけ厄除けを意味している。


 お茶の時間には帰って来るようにと野上から厳命されていた司が、浮かない顔で戻ってきた。滅多に使わない西側にある茶室には、既にお茶の準備がされていた。他の使用人たちはダイニングでお茶とお菓子を振舞われることになっているが、志木家のものは揃って茶室でいただくことになっている。


 ――本来ならば、奥様がお茶をてることになっているのですが……。

 と野上にじろりと睨まれて、すみませんと秋子が首を竦めたのはもう二年前のことだ。今では秋子もお茶を点てることはできるが、妊婦だからと今年は野上が点ててくれることになっている。


 上座に仏頂面の司が座ると、野上がお茶を点て始める。釜から立ちのぼる湯気、四畳半の狭い茶室、妊婦なのでさすがに着物を着るようにとは言われなかったが、去年は着物を着せられてクラクラしたものだ。


 菓子を勧められて口にするが、これで本当に暑気払いができるのかしらと首を傾げる。もう少し冷やしておいてくれたら良いのに。

 甘さは控えめに作られているのだが、モチモチしているのですぐにでもお茶が欲しいところだ。ふと、隣を見ると司が顔を顰めたまま、やはりもそもそと水無月を食べている。

 その様子をチラリと見て、野上が鋭い視線を送る。


「司様、邪気払いの為の菓子です。残さずお召し上がりくださいませ」

 野上の言葉に司が軽く肩を竦めた。


 やがて茶筅ちゃせんでしゃかしゃかとかき回す音がし始める。なのに、司の菓子は半分ほど食べたところで無くなる気配が無い。げんなりした顔をしているところを見ると、あまり好きではないのらしい。既に自分の分を食べ終えていた秋子は見かねて、司の菓子が包まれた懐紙と自分の空になった懐紙をすばやく取り換えた。


 驚いた様子で見つめる司に、これはお腹の子の分として私がいただきますね、と小声で伝えて食べ残しを口にした。


 ところが、水無月を呑み込んだ途端、秋子は司の指先で顎を軽く持ち上げられると、唇をふさがれた。

 ――えーっ?


 噛みつくように荒く、深く……。まだ水無月の甘さが残ってる口の中を差し込まれた舌が蹂躙する。

「んっ、んんっ」

 苦しくなって、つい吐息がもれる。


 ゴホン。その時大きな咳払いの音がして、秋子の唇はようやく解放された。

「お茶が入っております。茶室でそのようなみだらな真似はお控えくださいませ」

 怒気をはらんだ野上の頭にうっすらと角が見えた気がして、秋子は竦み上がったが、司は薄く笑いながら茶碗に手を伸ばした。


「なに、菓子をシュウに取られてしまったんだよ。野上は菓子を残さず食べろと言うし……。だったらシュウを食べておけば問題なしだろ?」

 などとしゃあしゃあと言って、すました顔でお茶を飲むとさっさと立ち上がった。


 会社に戻ると司が茶室を立ち去ってしまった後には、呆然とした秋子と怒マークを額に貼りつけたままの野上が残された。


 先ほどよりも格段に乱暴な手つきでお茶が点てられると、竦み上がっている秋子の前に茶碗がコトリと置かれた。

「あ、あの……い、いただきます」


 作法に従って、よくよく茶碗を眺めている振りをしながら動揺を誤魔化していると、再び野上が口を開いた。

「本日の茶碗は落焼の玉水焼を使っております。花は二人静ふたりしずかを活けました。……秋子様、二人静の花言葉をご存知ですか?」

 お茶を口にしていた秋子は、茶碗を下げて僅かに首を傾げる。


「いいえ、知りません。何と言うのですか?」

「いつまでも一緒に……と言います」

「……はぁ」

「仲が良いのは結構なことです。ですが、場所や状況をわきまえていただかなければ、使用人にも示しがつきません」

 秋子は首を竦めるが、少し納得がいかない。


 ――だって仕掛けてきたのは司さんなんだし……。あ、でもその前に私が司さんのお菓子を食べちゃったんだっけ。だけど、あれだって親切のつもりだったのだけどなぁ。

 心の中でブツブツ文句を言っていると、野上が続けた。


「……と秋子様からも、司様にそうお伝えください。最近の旦那様は私の言うことなどちっとも聞いていらっしゃらない……」

 そう言うと、野上は小さくため息をついた。

 そんな野上の様子に、秋子はふと緊張を緩める。


 野上は、主人に忠実で色々厳しい人だけど、決して偏った考え方をしない人だ。礼を失しない程度に、主人であってもきちんといさめるし、公正を保とうとする。そこが彼女のすごいところなんだと思う。そんな彼女だからこそ、秋子には聞いてみたいことがあった。


「ねぇ、野上。野上は……司さんの企みを知っていたの? 私と司さんの結婚のことを……」

 躊躇いがちに問いかけた秋子の問いは、茶室の静けさの中に吸い込まれてしまったかのようだった。しばし沈黙が支配する。


 婚約者のいた秋子を無理やり借金の形のように当主聖の嫁として志木家に引き込んで、しかし実際には籍を入れず、自分の離婚が成立するや否や、当の秋子の了解も得ないまま司は婚姻届を出していた。いくら結果オーライと言っても、司のしたことは犯罪と言っても言い過ぎではない程のことだ。そのことを野上はいつから知っていたのだろうか。


 かなりな沈黙の後、野上は茶道具を作法通り仕舞い始めながら、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。

「司様から秋子様をお迎えすることを聞いたのは、恐らく私が初めてだったのではないでしょうか」


 ――もう事は動き始めたのだ。

 司は野上にそう言った。何が動いているのかと問い詰める彼女に、それは野上の知るところではないと言い張るばかりで、司の説明はちっとも要領を得なかった。


「聞いた当初はとても驚きましたし、何度もやめるようにと申し上げました。司様の計画は大旦那様をも欺く恐ろしい計画でしたから……」

 野上は最初から知っていたのかと、秋子は軽く驚く。


「秋子様はご存知ないかもしれませんが、司様は幼いころより、大旦那様から不可思議で、理不尽な教育を受けて来られたのです。欲しいと口にしたものを一切与えられないという不可解な教育です。私は未だにその教育の理由が分からないのですが、司様はその理由をわきまえていらっしゃるご様子で……中学を卒業したあたりから司様が何かを欲しがったという記憶が一切ございません。その司様がどうしてもあなた様を迎え入れなければならないのだと何度もおっしゃるものですから強くお止めすることもできず、結局は私も司様の企みの片棒を担ぐことになってしまったのです」

 そこまで話すと野上は居住まいを正して、秋子に向かい合った。


「私は秋子様にお詫びしなければなりませんね。主人の企みを止められなかったこと、また、その企みの手助けまでしたこと、深くお詫び致します」

 そう言って、野上は深く頭を下げた。


「の、野上、やめてください。私はそんなことをして欲しくて聞いたのではないんです」

 秋子は慌てて駆けよって手をとった。

「野上はいつでも私を助けてくれました。とても感謝しています。それに、私は今、司さんの傍に居られて本当に幸せなんですから、野上に謝ってもらうことなど何もないんですよ?」


 そう言って微笑んだ秋子に野上は更に深く頭を下げた。


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