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第十七話

 

 ししおどしの音が幽かに聞こえる和室の席で、秋子は桜色の着物を着て座っていた。隣にはスーツ姿の司、その対面には司の言っていたクライアントの夫妻、そしてその両対面にくだんの御令嬢と……蔵谷圭吾が座っていた。


 この桜色の着物を着るようにと指示したのは司だった。秋子は見たことがないものだ。

 ――実家に戻っているという司さんの奥様のものかしら。


 大旦那様が用意してくれた三枚の着物は、背伸びをしてとりすました表情をしていなくてはと気が張るが、この着物なら普通にしていられる気がして秋子は少し胸をなでおろす。しかし同時に湧きあがる薄暗い感情。

 ――司さんの奥様は随分若い方なのかもしれない。私と同じくらいか、あるいはもっと年下なのかも……。


 その桜色の着物は、爽やかに甘く愛らしい雰囲気で、夫に愛されている若妻こそが着るのに相応ふさわしいものだった。そういう意味では、自分ほどこの着物に相応しくない者はいない。司の妻が羨ましい訳では決してない。ただ自分がひどく惨めなだけだ。


 御令嬢は深い紅色の振り袖が良く似合う綺麗な人だった。黒髪にほの赤い唇が可憐で、清楚というよりは華やかな雰囲気。一方、スーツ姿の圭吾は……少し戸惑っているような、怒っているような、困っているような表情でかしこまって座っていた。


 ひと通り自己紹介が済み、料理が運ばれてしまうと、クライアントの夫妻が御令嬢との関係や人となりを説明する。御令嬢は琴音ことねさんと言って、クライアント夫妻の姪に当たるらしい。女子大を出た後、親の会社で手伝いをしているとのこと。


 どのような伝手なのかは知らないが、圭吾の紹介は司が行う。いかに彼ができる社員なのか、いかに頼りがいがあるかなどを司はもっともらしく滔々と説明した。


「実は、うちの嫁の秋子と蔵谷君は大学時代のサークルが同じだったんです」

 司はにこやかに秋子を見つめる。

「大学時代にはとてもお世話になったらしくて、彼の話をよく聞かされますよ」

 そう言いながら、司は鋭い視線を圭吾に送る。圭吾は腑に落ちない顔をして睨み返した。


 その後の会話は、料理を楽しみながら滞りなく進んでいった。

 食事がひと通り終わり、座が解けてきたところで、クライアント夫妻が後は若い人たちに任せようと退出した。それを機に、秋子は化粧直しをしてまいりますと言って席を立ったのだが、それに続くように、私も、と琴音も席を立った。


 二人残された部屋に、気まずい沈黙が流れる。


「……これはどういうことなんですかね」

 最初に口を開いたのは圭吾だった。

「良いご縁を結ぶお手伝いができたら……と思っただけですが。何か?」

 司は薄く笑いながら冷酒を口に運ぶ。

「秋子はあなたの嫁ではない。そうなんでしょう? それをこんな席に、まるで自分の嫁であるかのように引っ張り出して、政略結婚だったけど今はとても幸せだなんて嘘っぱちを言わせて、あなた恥ずかしくないんですか?」


 薄く笑ったまま冷酒のグラスを静かに置くと、司は鋭い視線で圭吾を睨みつけた。

「幸せじゃないなんて、シュウがあなたに言いましたか?」

「こんな場で言えるわけがないでしょう?」

 圭吾は顔を歪めて笑う。

「……では、この前あなたが彼女をおびき出した時に、そう言いましたか?」

「おびき出したんじゃないですよ。彼女が辛い目にあっていると聞いたので、友人として話を聞いてあげただけです。秋子は律儀な人だから、そんなことは一言だって言いませんよ。あなたにとっては、あり余る金を少しばかり恵んだだけなのかもしれませんが、彼女はそれにとても感謝していますからね」


 司は笑いを堪えているような表情で首を傾げる。

「本当にそれだけが理由だと思っているんですか?」

「だってそうでしょう? あんな親ほども年の違う夫に嫁ぐなんて……」

 圭吾の吐き捨てるような言葉に、司はくっくっと笑いだした。

「何がおかしいんですかっ」

「さっさと自分のものにしておけば良かったと、悔しいんだろうと思いましてね……」

 きっと睨みつける圭吾を司は真っ直ぐ睨みつけた。


「俺は志木家の一人息子でしてね、志木家のものはいずれすべて俺のものになるんですよ。今でさえほとんどのものは既に俺のですしね。だからあなたが勘違いしていることが仮に事実だとして、お下がりを期待していくら待っていても、シュウはあなたのものにはならないんですよ」

「な、何を言ってるんですか、あなたは!」

「分かりませんか?」

「……」

「あなた、シュウを抱かなくて正解でしたよ。もし抱いていたら俺はあなたを抹殺していたかもしれない。彼女を知っているのは自分だけでいたいですからね」

「……なんてことを……」

 圭吾は絶句した。


 時折送られる圭吾からの視線にいたたまれなくなって化粧直しに立った秋子だったが、思いがけず琴音まで付いてきたので困惑する。


「あの、秋子さん?」

 化粧室の鏡の前で髪のほつれを整えていると琴音が話しかけてきた。

「はい?」

「秋子さんはご結婚される前、付き合っている方はいらっしゃらなかったの?」

 琴音の真っ直ぐな瞳に、秋子はたじろぐ。

「……お付き合いしている方は……おりましたわ」

「その方とは?」

 更にたじろいだ秋子は言葉を失う。


「あぁ、ごめんなさい。突然不躾な質問でしたわね。私ね、今までに男性を好きになったことがないんですの。お友達と話したり旅行に行ったりしている方がよほど楽しいし気楽ですもの。でも、一緒に遊んでいたお友達も相次いでご結婚なさって、両親もどんどんうるさくなるし……。今日のお見合いだって、両親と伯父が勝手に決めたんですのよ?」

 不満げな口ぶりに、秋子は小さく吹きだした。


「お付き合いしていた方とは二年ほど交際していたのですが、二人で色んな所に行きましたよ? 都内だけでも楽しめる所はたくさんありますしね。お友達がご結婚なさって一緒に遊ぶ方が減ったのなら、その遊び友達の一人にボーイフレンドを加えても良いのではないですか?」

 秋子は少し躊躇ってから、続けた。


「……蔵谷先輩は楽しいことを色々知ってる方だし、話題も豊富な方だし、一緒に居て楽しいことが多いと思いますよ? 私の友人の中にも、お付き合いしてみたら案外楽しかったという話をされる方はよくいますしね。お見合いだからと堅苦しく考えずに、初めはお友達からというのもアリではないですか?」


 琴音は秋子の言葉に真剣に耳を傾けている様子で、何度か小さく肯いた。

「元カレさんとは、今は?」

「……結婚する時に、友達に戻ったんです。二人でそう決めましたから。今は……そうですね、出会えてよかったと思っています。そして彼には幸せになって欲しいと願っています」


 圭吾には幸せになって欲しい。心からそう思う。


「やっぱり秋子さんは大人だなぁ。でももし私が秋子さんの元カレの彼女になったら、きっとヤキモチ焼いちゃうんだろうなぁ。だってこんな素敵な人が元カノって知ったら、叶わないって思っちゃいそうだし」

「そんなことちっとも……」

 ないわ、とうろたえて答える秋子を遮って琴音が続ける。

「だけど秋子さんも、政略結婚とはいえ、あんなカッコいい方がお相手でラッキーでしたねっ。私も前向きに考えてみますっ」

 琴音はにぃーっと笑うと、お先にと言って出て行った。


 部屋に戻った秋子は圭吾の様子が変化していることに気づいた。動揺しているような、怒っているような、何か問い詰めたげな視線。


 そんな緊張感あふれる視線を逸らせたのは司の言葉だった。

「ここの料亭は自由に歩ける日本庭園が売りなんですよ。いかがですか? 琴音さん。少し歩いてみますか? 蔵谷君は秋子と積もる話があるようだし、もし直接蔵谷君に聞きにくいことがあれば承りますよ? 俺が仲介して差し上げましょう」

 司がさりげなく琴音を誘う。

「え?」

 少し驚いた様子の琴音に、

「あぁ、やはり蔵谷君のエスコートの方が良いですか?」と司が悪戯っぽく笑うと、琴音は首を振って元気よく立ちあがった。

「じゃ、お言葉に甘えて。秋子さん、イケメンの旦那様を少しお借りしますねっ」

 琴音はにっこり笑うと、司に連れられて部屋を出て行った。


 二人が出て行った後の部屋の静けさを、ししおどしの音が際立たせる。


「秋子……おまえ、どうなってるんだよ。何をやってるんだよ。俺の知ってる秋子は……そんな……」

 テーブルに置かれた圭吾の拳が小刻みに震える。

 秋子は、圭吾の言葉に一瞬瞠目して固まった後、緩やかに弛緩した。


 ――圭吾は聞いたんだ。だって司さんは言ったではないか。私を逃がさない為に何でもする……と。


「圭吾……私の心配なら無用よ? 私は今のままで結構幸せだから。この着物ね、司さんが買ってくれたの。綺麗でしょ? 彼ね、私が欲しがるものなら何でも買ってくれるの」

 秋子は一瞬唇を噛んで、一旦言葉を切ってから続けた。

「……圭吾が思ってるほど私は不幸ではないのよ。だからね、圭吾も、いつまでも私のことなんか心配してないで幸せになればいいのよ。そうすれば私も気が楽になるし……」


「秋子っ!」

 圭吾はいきなり席を立つと、秋子の隣につかつかと歩み寄って手首を掴む。

「秋子、俺に嘘をつくなよ。あんな……人の人生を金で左右して平気な、あんな傲慢な男と一緒に居て、おまえが幸せだと思う訳がないんだっ」

 秋子は一瞬怯んでから、目をそらして再度唇を噛む。

「痛いわ。離して圭吾。私嘘なんてついていないもの……」

「本当のことを言えよ。おまえが嘘をつく時の仕草なんて、俺は百も知ってる。俺に嘘なんて通用しないんだ」

 決めつけるように言い放った後、圭吾は秋子の瞳を覗きこんで懇願するような口調で続けた。


「秋子……助けてほしいとおまえが言えば、俺は今この場からでもおまえを連れて逃げるよ。何もかも捨てる。仕事だって、全部おまえの為に頑張っていたことなんだから。おまえさえいれば、俺は何度でも一からやり直すよ。だから本当のことを言ってくれよ」

 秋子は圭吾の真剣な目を見てたじろぐ。


 もしここで私が圭吾と逃げれば、圭吾は社会的な地位一切を失うことになる。いくら圭吾が一からやり直しても、何らかの形で志木家が立ちはだかることは目に見えていた。佐藤の家は霧消し、瞳子にも迷惑がかかる。茶丸は保健所に送られるどころかその場で瞬殺かもしれない。


 元より身動きが取れない状態にあるのは分かっていたが、こうして列挙してみると、その重さに潰されそうになる。


 だけど、それらよりも尚、更なる重圧で秋子にのしかかっているのが、何故か司の手であることにふと気づいて秋子は戸惑う。


 ――助けを求めるように、縋るように私を掴んでいたあの手は、私が居なくなったらどこに縋るのだろう……。


「……圭吾、本当なの。私幸せなのよ。私たぶん……あの人のことが好きなんだわ……傍に居てあげたいの」

 少し思い詰めたような……そして諦めたような、でも圧倒的に慈愛のこもった瞳で言葉を紡ぐ秋子に、圭吾は沈黙した。


その後、圭吾は琴音さんと結婚した。

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