第十五話
涼やかな風が秋の気配を運んでくる。まだ日中は暑いものの、夕方、陽が落ちてしまうとぐっと気温が下がる。季節は確実に過ごし良くなっているはずなのに、秋子は憂鬱な気持ちで陽が落ち始めた庭を一人歩く。
司から外出禁止を言い渡されてから既に一月以上が経っていた。処分についてはしばらく考えると言っていたが、その後何をしろともするなとも司は言ってこない。そればかりか、最近司は秋子を避けているようにさえ感じられる。それまでのようにいつの間にか秋子の部屋に居ることもないし、食卓で嫌味な言葉を投げつけてくることもない。
大旦那様は元より秋子など居ないかのようにふるまっていたので、秋子はこの一月の間、ほとんど誰とも会話らしい会話をしていなかった。もちろん、メイドや家令に用事を頼めば大抵のことはしてもらえたし、そこそこの会話にも付き合ってくれる。しかし彼らには彼らの仕事があって暇ではないのだ。だから用事以外のことでは秋子から話しかけるのを躊躇してしまう。そうして自分の部屋でぼんやり過ごしていると、自分だけが世界から忘れ去られた気分になって、段々憂鬱になってくるのだ。
もしかしたら、これが私に対する処分なのかしら……。
そんなことさえ考えてしまう。
自室でぼんやりしていると、自分でも気づかないうちに涙が零れていて、それに見かねたメイド長の野上が秋子に庭を散歩することを勧めてきたのだった。
志木家の庭は、東西南北四方にそれぞれ趣の異なった庭が広がっている。南には庭師が丹精込めて刈込んだトピアリーの洋風の庭が広がっており、北には庭石と砂利を使って作り上げた枯山水の和庭が広がる。東側が玄関になっていて、西側にはシェフ自ら育てている野菜園がある。北側の庭のみ、特に敷地の仕切りがなくそのまま竹林になっているのだが、その先が小高い丘陵に繋がっていて、その丘もまた志木家のものなのだとか。
物思いに沈みながら北側の石庭を歩いていると、大きな黒い犬が二匹、屋敷のどこかから駆けてきた。騒々しく吠えたてながら、秋子が歩いている脇をすり抜ける。何か小さな茶色いモノが転がるように屋敷の方へ走ってきたかと思うと、床下の狭い隙間から中に入り込んだ。それを追いかけてきた黒い犬たちが床下に向かって騒がしく吠えたてる。つられて秋子が床下を覗きこむと、中には茶色い子犬が震えながら蹲っていた。
「しーっ、静かにっ。駄目よ、こんなに小さいのに……怖がっているじゃないの。おすわりっ」
志木家の犬たちはよく躾けられていて、家のものには絶対に逆らわない。秋子の制止にも犬たちは、ちょこんと座る姿勢をとった。
「おいで。もう大丈夫よ。おいで。ほら、もう怖くないよ」
ふるふる震える丸っこい背中をなでると、子犬は怖がって更に奥に入って行く。
あら、困ったわ。
秋子は腹ばいになって床下に潜りこみ、僅かに触れた子犬の頭と胸元を撫でながら根気よく話しかける。しばらくそうやっていると、ようやく子犬は警戒を解いたらしく、秋子の指先をぺろぺろと舐めた。
ようやく警戒を解いた子犬を抱えたまま床下からズリズリ這いだすと、背後に人の気配を感じて振り向いた途端秋子は瞠目した。
「君は……一体何をしているんだ?」
司だった。
「……あの、子犬が迷い込んでいて……」
秋子が腕の中の子犬を庇うように抱き抱え直すと、司はつかつかと歩み寄って、秋子の髪や肩をはたはた叩く。
「あ……」
秋子が慌てて見回すと体中埃だらけだ。
「で? それをどうするつもりだ?」
髪についた蜘蛛の巣を剥がしながら司が問う。
「あの……飼主を探した方がいいですよね。……誰かに頼んで探させても?」
秋子の腕の中で子犬が心細そうにクンクン鳴いた。
「見つからなかったら?」
司は眉間にしわを寄せる。
「あの……えと、ここで飼うわけには……」
「無理だな」
にべもない。
「とにかく、犬は誰かに預けて君はシャワーを使いなさい。そんななりをしていたら野上が卒倒するぞ」
◆◇◆
子犬の飼主は一週間経っても見つからなかった。
「あの犬は処分するしかなかろう」
朝食の席で大旦那様の聖が宣言する。
「でもっ、あの……可哀そうです。あんなに小さいのに……」
秋子の言葉は聖に睨みつけられてだんだん小さくなっていく。
「世の中では、あれよりももっと小さな犬が何万頭も処分されておるのが現実だ。あれだけ助けたからとて大した意味はない」
「……でも……」
自分が助けた子犬なのだ。あれから秋子自ら洗ってやって、ミルクを飲ませて、呼んだら駆けよってくるまでに懐いていたのだ。他の見知らぬ小犬とは違う。項垂れる秋子を満足げに見やりながら、聖は家令に子犬を保健所に連れて行くように命じた。
それを聞いた途端、秋子は席を立って退出した。しきりに目を拭っているところを見ると泣いているのだろう。
ほとんど手を付けられていないシリアルをメイドが無表情に下げていった。
「馬鹿な女だ。犬ごときで……」
司は我関せずの様子で、さっさと朝食を済ませると静かに席を立った。
「今日は佐川に行く用事があるのですが、叔母さんに何か伝えることはありますか?」
佐川と聞いて、聖は僅かに眉間にしわを寄せた。
「佐川の本家に行くのか? 何の用事だ?」
「来年から本格化する事業への助力をお願いするつもりです。あちらにとっても良い話なので、第一秘書の真嶋からは既に良い返事はもらってあるのですが、やはりここは徳子叔母様にも直接会ってお願いするべきかと……」
「ふん、あの偏屈女に頭を下げるのは気に入らんが……まぁ、必要なら仕方あるまい」
強大な権力をもつ志木家の当主である聖が、唯一頭が上がらないのが、弟志木仁の嫁であった佐川の大奥様である徳子なのだ。司はそれを知っていた。
ベッドに突っ伏して秋子が啜り泣いていると、ドアがノックされた。
大方、朝食をほとんど摂らなかった秋子をたしなめにメイド長の野上でも来たのだろうと放っておくと、ドアは再度ノックされた。野上なら、返事があろうとなかろうと失礼しますと言いながら入ってきて、本当に失礼な態度で説教するのが常だった。渋々返事をしてドアを開けると、司が立っていた。
「少しお邪魔しますよ?」
司は秋子の返事を待たずに中に入ると、ソファに腰掛けた。
「何か……」
「保留してあったあなたの処分を決めました。俺は今あることをクライアントから相談されていましてね、聞いた時には俺にそんなことを相談するのは畑違いでしょうと答えておいたんですが、適任な人を思いつきました。それをあなたに手伝ってもらいたいのですよ」
「なんですか? お手伝いすることって……」
司の話を聞いて秋子は絶句した。司の配偶者の代わりにお見合いの席に出る、それが秋子の仕事だったのだが……。それだけ聞けば特に支障のある話ではなかった。しかし、問題だったのはその見合いの当事者だ。
「……そんな席に私が居ては、逆に纏まる話も纏まらないのではないですか?」
「そんなこともないでしょう。同じように政略結婚をしたあなたが、いかに幸せに暮らせているかということを話せば御令嬢も安心するでしょうし、あなたが幸せに暮らしているのだということが分かれば、蔵谷圭吾君も安心するでしょうしね」
何食わぬ顔で説明する司を絶望的な目で見つめる。
だからと言って元婚約者の見合いの席に同席するなんてありえないでしょう?
動揺して俯く秋子を司が覗きこんだ。
「あの子犬、何とかしてあげても良いですよ? 返事は夜まで待ちます」
そう言い置いて司は部屋を出て行ったが、その後間もなくして子犬がケージと一緒に秋子の部屋に運び込まれた。
「茶丸!」
秋子が茶丸と名付けたその子犬は心細そうな顔をしていたが、秋子が呼ぶと嬉しそうに小さく吠えた。小さな巻き尾を千切れんばかり振って体中で喜びを表現する。
家令は犬を運び終わると、あまり犬を騒がせないように注意してくださいと秋子をたしなめた。訊けば、もらい手が見つかるかもしれないから、しばらく保健所に連れて行くのは保留しなさいと司が言ったのだと言う。
――保留……つまり茶丸の命運は秋子の返事次第ということだ。
ケージから出してやると茶丸は嬉しそうに秋子にじゃれついた。やがて、もうこれで安心だと言わんばかりに膝の上で眠りこんだ茶丸の頭をパフパフ撫でてやりながら、秋子は小さくため息をついた。