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第十二話


 司によって連れ戻された秋子が志木家の門をくぐるなり、聖の厳しい叱責が飛んできた。

「遅いっ。九条から戻るのにどれだけ時間をかけているのだっ」

「も、申し訳ありません」

 怯えて項垂れる秋子を、後から入ってきた司がフォローする。

「秋子さんは九条家に居たのではありませんよ。瞳子さんとショッピングに出られていたので、俺が見つけ出すのに手間取ってしまったんですよ」

 項垂れて頭を下げたまま、秋子は司の嘘に目を見開く。

「ふん、そんな格好では通夜に行くのは無理だろう。もう時間が無い。司、今夜は二人で行くぞ。おまえは野上から、明日の段取りや関係者の顔と名前をしっかり頭に入れておけ。いいな」


 そう言い残すと、聖は戻って来たばかりの社用車に乗りこんだ。司もそれに続こうとして、ふと踵を返すと、秋子に近づき耳元に口を寄せた。

「秋子さん、今夜は俺の帰りを眠らないで待っていてください。そして俺がドアをノックしたら、あなたが入れてください」

 驚いて顔を上げる秋子に司が更に囁く。

「なんでも言う事を……聞くんですよね?」

 秋子は軽く呆然とした様子で司を見上げると「はい」と呟くように返事をした。


 ◆◇◆◇


 野上に指導されて、喪服の準備や関係者の確認をしていた秋子はふと時計を見て驚いた。もう十一時を過ぎている。通いの使用人たちがいなくなり、聖も司も戻って来ないので屋敷中が静まり返っている。


 ここ最近、住みこみの使用人たちの間で密かに、しかし頻繁に噂される話があった。

 この屋敷には幽霊が住みついている……と。そして更に声を潜めて語られる噂。その怪奇現象は大旦那様の部屋で起こる事が多い……と。


 住みこみの使用人たちの部屋は一階にあるので、この時間、二人が帰って来なければ二階に居るのは秋子だけだ。大旦那様の部屋はすぐ近くなのだが、秋子がそのような怪奇現象に遭った事は一度もなかった。


 ドアをノックされた気がして、秋子はそっと自室のドアに近づく。

「どなたですか?」

 返答がない。秋子はドアに耳を近づけて、更に声を潜めて密やかに問う。

「……司さんですか?」

「……奥様……」

 蚊の鳴くようなか細い震え声。声の主は泊りのメイドのようだ。鍵を解いてドアを開ける。


「どうかした?」

 真っ青な顔のメイドが真新しいテーブルクロスを手にして佇んでいる。

「あの……私、客間のテーブルのクロスを換えるように言われていたのを忘れていて、今交換しようと部屋に入ったのです。そうしたら……」

 客間は大旦那様の部屋のちょうど真下に当たる。

「天井から……血が……」

 秋子はぎょっとしてメイドを見つめる。


「大旦那様はまだお帰りになっていませんよね? 私、怖くって……。誰か大旦那様の部屋に入り込んでいるのではないかと……。こんなこと奥様に相談するのはいけないと思ったのですが、今日は人が出払っていて、それに……」

 メイドは更に言いにくそうに言葉を途切れさせる。

「もし、それが……最近起こっている幽霊絡みなのならば、奥様が一緒だと怖い事が起こらないって噂を聞いたので……あの、もしできますれば……」

 自分はそんな噂をされていたのかと少しばかり戸惑いながら、秋子は軽く肯いた。

「分かったわ。ちょっと待ってね」


 秋子は一旦部屋に引っこんで、クローゼットの中からテニスラケットを持ちだすと、さぁ行きましょうとメイドを促した。

「お、奥様、それは……」

「泥棒だったら私が殴りつけるから、あなたはすぐに誰か呼ぶのよ? いい?」

「いえっ、そんなこと奥様にさせられません。それは私が致しますので、泥棒だった場合奥様は逃げてくださいませ」

「あら、私の方がこのラケットの扱いには慣れているから大丈夫よ」

「いえっ、いけませんっ。これは私がっ」

 メイドの必死の申し出に、秋子はラケットを手放した。


 小さくノックをした後、そろそろとドアを開けるメイドの後ろから秋子もついて中に入る。途端に感じた何かしら濃い密度の空気に、秋子は目を見開いた。それは一瞬、秋子の背後から右肩を掠めるように通り抜けたかに思えた。が、次の瞬間、ラケットを持って前を歩いていたメイドが振り向く。いつもの少しおどおどした表情が消失して、虚ろな、まるで木の洞のような瞳に変わっている。秋子は目を見開いた。メイドが無表情なまま突然ラケットを振りかざし、秋子めがけて振りおろしてきたからだ。とっさに避けた秋子の肩先を掠って、ラケットはドアにぶつかりバンッと景気の良い音をたてた。


「明日香?」

 驚いてメイドの名前を呼ぶ。呼びかけに動じることも応じることもせず、明日香はラケットを再び振り上げた。部屋の奥に逃げ込んでいた秋子はソファの足に躓いて絨毯の上に転がる。振り下ろされたラケットが脛に命中した。

「あうぅぅっ」

 秋子の叫び声に一瞬明日香の動作が止まる。しかし次の瞬間、再びラケットは秋子の頭をめがけて振りおろされた。両腕で頭を抱え込み身を守る体勢をとって目をつぶったが、その一打は秋子に振り下ろされることなく制止した。


 帰宅した司は志木家の門をくぐるなり、異常な殺気に目を見開いた。

「ヒルコ、何が起こってる?」

『襲ゲキだ。ナワを狩ろうとしてイルのだ』

 こんな時でさえ、ヒルコの口調は淡々としている。司は戦慄した。

「ヒルコ、俺が行くまで止めておけるか?」

『他の霊魂をトメルのには、かなりな代償がヒツヨウだ』

「構わない。俺が行くまででいい」


 駆けつけた司が見た光景は、メイドが握りしめたラケットで、まさに秋子の頭を殴りつけようとしている寸前だった。司はメイドを後ろから羽交い絞めにしてラケットを取りあげると、素早く口の中で何かを唱え指先でメイドの額に触れた。途端に額から黒い霧のようなものがスルリと抜け出す。それは次の瞬間、司の体内に浸みこむように入り込んだ。司は、一瞬衝撃に耐えるような表情を浮かべ、同時にメイドの体は崩折れた。


「ふん、そんな女放っておけば良かったものを……」

 背後からのんびりした声がして、司は振り向く。


 そう呟いた聖は、まるで何事も起こっていないかのような普通の足取りで、自室の部屋に入りソファに腰を下ろす。

「武田、あの者を外に出せ。目障りだ」

 聖は床に倒れている秋子を顎で指しながら、部屋までついて来ていた秘書に指示を出す。困惑するように入口で立ちすくんでいた歳若の秘書は慌てて中に入ってきた。


「君、秋子のことはいい。彼女を頼む」

 司は気を失っているメイドを秘書に押し付けると、秋子に歩み寄った。

「立てますか?」

 声を掛けると、秋子は怯えきった表情で司を見上げる。

「……はい」

 ヨロヨロと立ち上がった秋子は、少し顔を顰めて脚を押えると足を引きずりながら歩き出す。

 そんな秋子を憎々しげに睨みつけて、聖は声を掛けた。


「秋子、以後、この部屋に勝手に入らないでもらえるか? 泥棒と間違えられて殴られるなど、もう二度と嫌だろう?」

 聖の言葉に秋子は瞠目して振り返る。

「私は泥棒と間違われた訳でも、勝手に部屋に入っていた訳でもありませんっ」

「ならば、何故メイドがおまえを殴らねばならぬのだ?」

「そんなことっ、その子に訊けば良いでしょう?」

 悔しさのあまり、秋子は泣きながら聖を睨みつける。

「このメイドはクビだ。いくら主人に落ち度があったからと言っても、主人に怪我をさせるようなメイドはうちには置いておけぬ。だから話を聞く事はせぬ。おまえも他言するな」

 これで終わり、とぴしゃりと決めつける聖の言い方に、更に反論しようとした秋子を司が遮った。


「秋子さん、手当をします。こちらへ」

 有無を言わさぬ強い口調で言い放つと、司は秋子を抱きかかえるようにして部屋を出た。


 湿布を貼ってもらったものの、殴られた脚の脛がズキズキする。秋子の脛は内出血で赤黒くはれ上がっていた。

「私は決してコソコソと旦那様の部屋に入った訳ではありません。あのメイドに訊いてくれればすぐにわかる事です。彼女が……」


 メイドを呼びつけるまでもないと、司が湿布を貼ってくれたのだが、秋子が不服を言い募ると、司はそれを遮った。

「秋子さん、色々思う所はあるでしょうが、この件に関して騒ぎたてるのはやめてもらえますか? 他言も無用です」

「でもっ」

 泣きそうな顔で見上げると、厳しい顔をした司の視線とぶつかる。


「この家で無事に過ごしたいと思うのならば、そうした方がいい。それに……」

 司は言葉を止めて、にやりと笑う。

「俺の言う事は何でも聞くんでしたよねぇ?」

 秋子は泣きそうな顔で顔を歪めると、分かりましたと小さく呟いた。


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