第十一話
「亡くなったのは、田所元常務です。志木家が事業を立ち上げた時から縁の下の力持ちとして尽くしてくれた人で、もう随分長い間癌を患っていたのですが、今日の午後亡くなられました。社葬にするのが適切だと父も俺も考えています。秋子さん、あなたも志木家の嫁として葬儀に出席していただきます。しばらく忙しくなると思いますが、よろしくお願いしますよ」
スリー・ポインティド・スターの付いた志木家の社用車の後部座席に乗り込んですぐに、秋子は司からそのような説明を受けた。しおれて項垂れたまま、小さく何度も頷く。隣に座っている司の冷ややかな視線をまともに受け止められない。
「秋子さん、携帯の電源を入れてもらえますか?」
司の言葉に、秋子は慌ててショルダーバッグをまさぐる。先ほど瞳子に連絡した後、GPS機能がついた携帯の電源を秋子は確かに切っていた。
切っていたのに居場所が分かってしまうの?
ふと気づいて、電源を押す手が止まる。
「どうしました? 早く電源を入れた方がいいですよ? あなたに連絡をとりたくて焦っている人を、俺は一人知ってるんですがね」
司の言葉に首を傾げて電源を入れると、すぐに呼び出し音が響いた。
瞳子……?
呆然とする秋子に、
「鳴ってますよ? 出ないんですか?」と司が冷ややかに問いかける。
「も、もしもし……」
震える声で呼びかけると、焦った様子の瞳子の声が響いて、受話器から零れる。
『秋子? 良かったー。繋がらないから、どうしようってハラハラしちゃった。今どこ? 圭吾君は一緒なの?』
「ううん、一緒じゃないわ。今、家に向かってるところ……」
『それなら良かった。さっきねー、志木司って人から連絡があったのよ。なんでも家で不幸があったからすぐに秋子に戻ってきて欲しいんだって言うの。九条の家の方に連絡があってね。秋子とは今別れたばかりですって言っといたから、すぐに帰った方がいいわ』
「……うん。分かった」
『圭吾君とたくさん話せた? 彼、心配していたでしょう?』
「瞳子……その話はまた今度するから」
『分かったわ。秋子、私はいつでも秋子の味方だからねっ』
「ありがとう、瞳子。またね」
話しおえると、車内の沈黙が痛いほど重苦しい。
「あの……司さん、ごめんなさい、私……」
「なるほど、良いお友達をお持ちですね。彼女ですか? 元婚約者との密通の手引をしたのは……」
「密通だなんて……」
秋子は驚いて目を見張る。
「十人が見たら、十人が密通だと言うと思いますよ? 一緒に逃げようとか言われていたみたいですしね」
「……」
「困りましたね。取引先の嫁がうちの嫁の密通を手引きするなど、迷惑もいいところなんですが……。確かに九条は優れた技術を持った優良企業ですが、まぁ、代わりが無い訳じゃない。問題が起こらないうちに取引をやめるかどうか考える必要がありそうですね」
「っ、瞳子は関係ないんです。私がっ、私が勝手に圭吾と会ったんです。瞳子は何も関係ないんですっ」
慌ててとりすがる手は、司に冷たく払い落された。
「他の男と握り合っていた手で、俺に触れないでもらえますか?」
払われた手が空中でさまよって、やがて膝の上で固く結ばれると、その上にぽたぽたと涙が落ちる。
「どうか、どうか……瞳子を悪く思わないでください。私の大事な友達なんです。至らない私をいつも助けてくれた人なんです。彼女に何かあったら、私……私……」
秋子の涙ながらの願いは司に届いているのかいないのか、車内には相変わらず重い沈黙が続く。
「……お願いです。私、何でもします。どんなことでも言うことをききますから、どうか瞳子を巻きこむのだけは……許してください」
「……本当に何でも言うことをききますか?」
冷たく見下ろす司の視線に、秋子は泣きながら頷いた。
「では、まず、蔵谷圭吾さんにメールを打ってください。もう二度と会いたくないから連絡しないでほしいと。それが済んだらアドレスを変更してください。あ、いや、携帯を貸してもらえますか? 全部俺がやります」
しゃくりあげながら秋子が携帯を渡すと、司は素早い手つきで『圭子』のアドレスを見つけ出すと、これが蔵谷圭吾かと確認した。小さく頷く秋子に、随分適当で姑息な名前を当てたものですねと冷たく言い放ってから、メールを打ちアドレスを変更した。
「彼からの着信はブロックしておきました。仮に彼が別の番号で連絡して来て、またこのような事にあなたが応じれば、その時点で九条家とは取引をやめます。当然佐藤への支援も打ち切ります。いいですね?」
「……はい」
◆◇◆◇
茜色に染まった空の下、秋子はゆっくりとプロムナードの石畳を歩きながら隣の司を見上げる。
珍しく早く帰って来た司が、どこか行きたいところは無いかと言うので、お台場のプロムナードで一緒に夕日を見たいとリクエストしたのは秋子だ。司は少し怪訝な様子で首を傾げたが、何も聞かずにつれて来てくれた。
「……白状すると、私あの時ね、気がついたらあなたのことばかり考えていました。圭吾には悪いと思うんですが、何を見ていても何を話していても、いつの間にかあなたのことばかり考えてて……」
「どんなにひどい目に遭っているか、元カレに説明したくてうずうずしていたんだろうね」
司はしかめっ面で答える。
「違いますよ。あなたは……こんな綺麗な夕日を一緒に見たいと思う人はいないんだろうかとか、あなたはケーキバイキングなんて行ったことあるのかしらとか、あなたにとっての幸せって何なのかしらとか……そんなことばかり考えていました」
秋子の言葉に司は少し考え込んでから、小さく笑う。
「何を考えているんですか?」
怪訝そうに秋子は首を傾げる。
「シュウはMなんだろうと……」
「っ……違いますよ。そんなのではないですっ」
「じゃあ、どうして?」
クスクス笑う司の手を、秋子は両手で包み込んで持ちあげた。
「手です」
「手?」
秋子はほほ笑んで頷いた。
夜中にふと目覚めて隣を見ると、司が眠り込んでいる。先ほどまで秋子にひどい言葉を浴びせていた意地悪な表情は影を潜めて、あどけないと言っていいほどの、穏やかで健やかな寝顔。そしていつでも司の手は、秋子の体のどこかをしっかりと掴んでいた。その手がまるで、助けて欲しいと叫んでいるようで……。秋子はその度に、司の手をこんな風にそっと包み込んでいた。
「この手は私を必要としているんじゃないかしらって……私、心のどこかで、そう期待していたんだと思います。司さんは私を必要としてくれているんじゃないかしらって。本当は私のことを……好きなんじゃないかしらって……」
「……期待通りでさぞ満足だろうね?」
少し拗ねたような口ぶりの司に、秋子は小さく笑んだ。
「もちろん満足です。こんなに綺麗な夕日を一緒に見られたんですから」
はんなりとほほ笑む秋子を司はそっと抱き寄せた。
「もちろん、君が望むなら可能な限り何でも叶えるよ。俺は君に嫌われたって憎まれたって、君を諦めるつもりはなかったんだから、逆に評価が上がることなら喜んでするよ」
「評価だなんて……。そんなことを司さんは気にする必要ないですよ。私の気持ちを知ったら、司さんはきっと王様みたいにふんぞり返ることができますよ? それに、私がここに連れて来て欲しいと言ったのは、あんな状況の時でさえ一番辛かったのは、司さんに手を払いのけられて拒絶された時だったんだと、それを伝えたかったからなんですから……」
「……君には敵わないな」
司は抱き寄せていた腕に力を入れた。
「金だの権力だの脅迫だの、それこそ使えるものすべてを使って君を縛りつけても足らずに、どうか俺から離れないでくれと祈っていた自分があまりにも無力で惨めだよ。君ときたら、こんな言葉一つで俺をがんじがらめに縛りつけてしまうことができるんだからね」
茜色の光の中で何度も口づけを交わし、時間が止まってしまったかのように、二人はいつまでも抱き合った。