第十話
ひと通りの指示を出し、誰もいなくなったオフィスの自分用の個室に、ヒルコの声がどこからともなく響く。
『どうしてシュウコを行かセタ? あれはクジョウなどと会うのデハナイ。そう言ったダロウ?』
ヒルコの声に、司は小さくため息をつく。
父親の聖が秋子の部屋を訪れたあの夜、司はひどく動揺していた。ヒルコや他の霊にも中の様子を窺うように指示を出してはみたが、強い結界が張られていて入れないと言う。ただひどく取り乱した様子の秋子の声と泣き声が、隣の部屋で様子を窺っていた司の耳に届いていた。
こうなることを予想しなかった訳じゃない。だけどそれを知りながら、こんな形で秋子を巻きこんだのは自分だ。なのに何もしてやれず、それどころか次の日、嫉妬した挙句秋子に八つ当たりしてしまった自分の稚拙な行動に頭を抱え込む。
「旦那様は、私を嫌っておいでです。昨夜は私に、見当外れの忠告をする為にいらしたのです」
次の日、司に力ずくで無理やり抱かれた後、秋子はか細い涙声でそう言った。
「見当外れの忠告?」
「私があなたをたぶらかしていると勘違いされているのです。だから、もう部屋には来ないでいただきたいのです」
司はその時になって初めて、父、聖の狙いを知った。父はあの夜、自分には再婚を勧めたではないか。父は何かしらの理由をつけて秋子を排除するつもりなのだ。秋子は忌み嫌う三種の神器のうちの一つの名和だ。父を依り代としている霊魂が忌み嫌って、父に行動を起こさせてもおかしくない。ヒルコにその可能性を問うと、否定しないという答えが返ってきた。
この家で依り代なのは自分だけではないのだ。父や華陽を依り代にしている霊魂に、ヒルコの力は及ばない。そんな分かりきった事さえ、秋子欲しさに失念していた自分に驚く。
それ以降は、必要以上に秋子に辛くあたっていた自覚はある。司が秋子に辛くあたれば当たるほど、父も父を依り代にしている霊魂達も満足そうにしているのを知っていたからだ。失うよりはましだ。そう何度も自分に言いきかせる。
結果として、傷ついた秋子が元婚約者の優しげな誘いに乗ったとしても、それはある意味、司の自業自得なのだ。
しかし……。
司は、スプリングが程良く効いた椅子から立ち上がる。
『連れモドシに行くノカ?』
「当然だ」
シュウが誰と会おうが、誰を愛していようが関係ない。俺はシュウを失わない。
司は自分に言い聞かせると、口を引き結んでオフィスのドアを開けた。
先ほど、OBの訃報が入った。社葬を行う準備をするので、至急九条に連絡して秋子を呼び戻せという指示が聖からあったらしい。素早くその情報をキャッチした司は、自分が連れに行くと言った。九条ではなく元婚約者と密会していることなどが発覚すれば、聖は秋子を排除する格好の理由だと思うだろう。どんなやり方で排除しようとするのか考えただけでも気分が悪い。
それに、秋子がどんな顔で元婚約者と会っているのか、気になるのもまた、司の本音だった。
◆◇◆◇
通りには強い日差しが溢れているが、店内までは届かない。
今すぐこの場から逃げ出してしまいたい衝動を押えながら、秋子は蚊の鳴くような声で問い返す。
「……その話、誰から聞いたの?」
力なく俯いたまま問う秋子の手に、圭吾の手が重なる。
「瞳子から。彼女は九条氏から聞いたらしい。九条氏は志木家の息子と大学の同窓らしいんだ。しかもその息子の奥方とも知り合いらしい。二人はもう長いこと別居状態にあるらしいんだけど、離婚したとは聞いていないと言うんだ。だとすると秋子の結婚相手は志木聖、現当主と言う事になるのではないかと九条氏は言うんだそうだ。瞳子はすごく驚いてて、しかも君が何も言わないもんだから、言えないほど辛い思いをしてるんじゃないかって心配してた」
さっき瞳子に連絡した時、彼女は秋子にそんなこと何も言わなかった。
『分かった。話は合わせておくから心配しないで。圭子にしっかり愚痴を聞いてもらいなよ』
と瞳子は電話口でそう言ったのだった。
「大丈夫よ。向うも娘くらいにしか思ってないみたいだし。私もお父さんみたいな感じで接しているから」
小さく笑って見せる秋子に、圭吾は顔を顰めた。
新橋からゆりかもめに乗ってお台場までいく。海沿いにある公園は以前二人で良く来た場所だ。夕日に染まるレインボーブリッジを眺めながら煉瓦敷きのプロムナードをゆっくり歩く。
あの人は……司さんは何が楽しくて生きているんだろう。
秋子はふと思う。残業は当たり前、週中だろうが週末だろうが呼び出されればすぐに会社に行く。その分、行動の自由はあるのか、時々突然家に戻ってきて、秋子に嫌味の一つ二つを言ってから、また会社に行くこともある。秋子に嫌がらせをすることが楽しみなのかもしれない……とさえ思ってしまう。
こんな風に景色の良い場所で夕焼けを見ながら、恋人もしくは妻と歩くことなど、つまらない事だと思っているんだろうか。
「秋子、聞いてる?」
圭吾が顔を覗きこむ。
「あ、ごめんなさい。夕日に見とれてて……なに?」
「相変わらず秋子はぼんやりしてるなぁ」
圭吾は苦笑する。
「私って、いつもそんなにぼんやりしてた?」
「まぁ、それほどじゃないけど……何か一つのことを考えだすと周りが見えなくなってただろ? いつも……」
私、周りが見えなくなるくらい考え込んでたの? あの人のことで?
「秋子、最近実家に帰ってないだろ? って聞いてるんだけど……」
圭吾が意味ありげに秋子の顔を覗きこむ。
確かに志木家に入ってから、一度も顔を出していない。たまに電話を掛けても、父も母もなんだか忙しそうで、すぐに電話を切りたがった。だからますます、連絡がおっくうになってしまっていたのだ。
「何かあったの?」
「小父さんも小母さんも、何だか雰囲気が変わっちゃったよな。たまたま通りかかったから挨拶をしたんだけど、すごく嫌な顔されちゃったよ。まぁ、娘の元婚約者なんて立ち寄られても迷惑なだけかもしれないけどさ。小父さんは競馬に夢中で話しかけられそうにないし、小母さんもなんか……妙に派手な格好してて忙しそうだったし……」
それは秋子も気になっていた事ではあった。養父母は、元々堅実な生活を好む人たちだった。腕の良い職人気質の父はギャンブルなど、むしろ嫌っているくらいの人だったし、母は良妻賢母とまではいかなくても、おっとりとして朗らかで、料理上手な人だったのだ。
「それに、噂で聞いただけなんだけど、鉄工所の方もあまりうまく行ってないらしいじゃないか?」
「え?」
秋子は瞠目する。
「そんなんじゃ、俺たちが別れた意味なんてなかったじゃんって……すっげぇ腹がたった」
そもそも秋子が圭吾と別れて志木家に入ったのは、潰れかけていた鉄工所をたてなおす為だったのだ。
「……秋子、俺と逃げないか?」
「え?」
突然圭吾に手をとられて、秋子は目を見開く。
「そんな年寄りの爺さんに抱かれるなんて、嫌だろう?」
「……っ、圭吾、何言って……娘くらいにしか扱われてないってさっき……」
「じゃあ、なんでそんなストール巻いてるんだよ」
フワリと巻いていたストールは、圭吾が手を掛けるとあっという間にほどけて、はらりと外れた。
赤い痣があらわになって、秋子は慌てて手で覆い隠す。
「ひどいわ、圭吾……」
「ひどいのは俺なのか?」
秋子は涙ぐんでストールを取り返した。
「俺の大事な秋子がそんな目に遭ってるのに、黙ってられるかよ。な、もう鉄工所のことも小父さん小母さんのこともほっとけよ。おまえが一人で背負いこむことじゃないだろ? 俺と、逃げよう?」
「……無理よ」
養父母がそんな風になっているのなら、鉄工所が危ういのなら尚更のこと、秋子がここで志木家から逃げてしまえば、佐藤が潰れるのは時間の問題だ。元々は良い人たちなのだ。彼らがいなければ、秋子はここまで生きてこられなかった。見捨てることはできない。
「なぜ?」
「……無理だから……」
圭吾に手を掴まれたまま力なく首を横に振る。
その時、突然背後から声がした。
「秋子さん、探しましたよ」
驚いて振り向くと、そこには礼服に身を包んだ司が立っている。
「司さんっ」
「急用ができました。すぐに戻ってください」
司は、呆然と立ちすくんでいる二人につかつかと歩み寄ると、揉み合っているうちに落ちてしまったストールを拾い上げ、フワリと秋子の肩に掛けた。
「あ、あの、司さん、これは……」
「こちらは蔵谷圭吾さんですね?」
司の問いに驚愕して硬直する秋子をちらりと見てから、司はにこやかに圭吾に話しかけた。
「初めまして、私は志木司と言います。お取り込み中のようで申し訳ないのですが、秋子さんを返していただきますよ。社内で不幸がありましてね、志木家の嫁として秋子さんにも出席願わねばならないのですよ。なんなら、あなたもご自宅までお送りしましょうか? 近くに車を待たせてあります」
「い、いえ、結構です」
未だに呆然とした様子の圭吾がそう言うと、司は軽く会釈をしてから、秋子の肩を抱きかかえるようにして歩き出した。
「司さん……あの……」
「急いでいただけますか? 父もあなたを探しています。元婚約者と会っていたことが知れれば、どのような態度に出るか分かりませんよ?」
目さえ合わせず厳しい調子で言う司の言葉に、秋子は圭吾に別れの言葉を掛けることも、振り返ることさえできないまま歩き続けた。