第一話
前作「野いちご」の秋子、志木家サイドのお話です。
落花流水→落ちる花と流れる水→落花に情があれば、流水にもまた情があって、これを載せ去るの意
(むぅ、これじゃあさっぱりわからない…と言う方は広辞苑へ~^^;)
湿度の高い空気が淀んでいた。瑞々しい樹木の匂いがたちこめて、雨が近づいていることが分かる。
秋子は一人、目的もなく庭をゆっくりと歩いていた。
志木家の当主だった聖の葬儀も先週済んで、屋敷はようやく日常を取り戻していた。数人の庭師が木の手入れをしている。秋子の姿をみとめると、庭師たちは会釈をする。秋子も会釈を返しながら、一人の庭師に声を掛けた。
「あの、その木……なんとかなりそうですか?」
その庭師はイチイの木の手入れをしていた。秋子が二階から落ちた時にクッションになってくれたトピアリーのイチイの木だ。
「大丈夫ですよ。二本ほど根元から折れていたので切り取ってしまいましたが、ほらごらんなさい。根っこさえ無事ならば、木は何度でも蘇えります」
彼が指した方を見ると、切り取られて痛々しい様子の幹から既に新しい芽が芽吹いている。
「あら」
秋子は目を見開く。新しい木に植え替えるのではなく、折れた木が復活するのを待つことにしてくれたらしい。秋子は、そのことに感謝の言葉を告げた。
「いえ、旦那様の御意向なのです。奥様の命を守った木なのだから、粗末にしないで欲しいとおっしゃいまして」
「……司さんが?」
秋子の言葉に庭師はにっこりとほほ笑んで頷いた。
「御無事で本当にようございました。奥様を守って、この木も誇らしげですよ。私には分かります」
木が、というよりもむしろ庭師本人が誇らしげな様子なのに、秋子はクスリと笑んだ。
中心になっていた枝が無残に折れて、しかしその脇から新芽を出しているイチイの木を見つめて、秋子は思う。
人生も同じだ。真っ直ぐに続いていると思っていた未来が、突然折れ曲がる。それがいつ起こるかなんで、誰も分かりはしない。過ぎ去ってしまってから、ああ、あれが曲がり角だったのだと気づくのだ。それは、挫折することなのかもしれないし、誰か人に出会うことなのかもしれないし、もしかしたら、道端で石に躓くことなのかもしれない。
秋子の場合、それは花束だった。
* * *
「いーい? 秋子、今度はちゃんと受け取るのよ?」
純白のウエディングドレスに身を包んだ瞳子がブーケを背中越しに放り投げる。ブーケは、投げた本人が思っていたよりもかなり高く飛び、鮮やかな放物線を描いて茂みの中へ吸い込まれるように消えた。
「瞳子ぉ、飛ばし過ぎよぉ」
手を高く伸ばしたまま文句を言う秋子に、瞳子が振り向いて小さく舌を出す。
「ごめーん、飛ばし過ぎちゃった」
瞳子は秋子の高校からの友人だ。お互い、家が製造業を営んでいたせいか、二人は入学してすぐに親しくなった。
『私、政略結婚させられるの……』
瞳子が暗い表情で、そう言ったのは一年前の事だ。だけど、デートを重ねる毎に、瞳子の表情はすぐに明るくなっていった。相手がとても良い人だったのだ。真っ白なドレスに包まれた瞳子は幸せで輝いている。秋子も幸せで胸がいっぱいになって、ほほ笑んだ。
「瞳子! 写真を撮るよ。早くおいで」
後ろから、旦那さまになる九条氏が声を掛ける。瞳子が慌てて「はーい」と返事をし、秋子は軽く会釈をした。
「ごめん、秋子……」
「いいから、早く行って。ブーケはちゃんと見つけるから大丈夫よ」
笑って手を振る秋子に、瞳子は軽く抱擁をしてから立ち去った。
秋子は、小道を辿ってブーケが飛んで行った辺りの茂みを探す。式場の庭は、草花がさりげなく植えこまれたイングリッシュガーデンになっていて、ハーブの良い匂いがした。
『やっぱりね。秋子はトロいから、絶対に取れないって思ってたのよ。でも安心して、秋子用のブーケを用意しておいたから』
ブーケトスが終わった後、悪戯っぽい瞳で、瞳子は秋子の耳元でそう囁いた。
――私用のブーケだなんて……瞳子ったら……
実際取れなかったのだから反論はできないのだけれど、秋子は苦笑する。例え瞳子のブーケをキャッチできなくても心配はいらないのだ。なぜなら、既に秋子には付き合って二年になる彼がいる。大学を卒業したら結婚しようと約束しているし、お互いの親にも紹介済みだ。
『次は秋子の番よ。秋子にはね、絶対に幸せになって欲しいの。圭吾君は優しい人だから安心しているんだけど……だから、これは一足早いお祝いよ。圭吾君に、絶対に幸せにしてもらうのよ?』
そう言って、瞳子は秋子を抱きしめた。
秋子の家庭の事情は少々複雑だ。今は鉄工所を営んでいる佐藤の家の養女として何不自由なく暮らしているが、養父母に引き取られるまで、秋子の家は何かから逃げるように各地を転々としていた。瞳子は秋子が初めて友達と呼べた大事な人なのだ。
「……たしかこっちに飛んだわよね……」
秋子は植え込みの中を探す。薔薇、トルコキキョウ、スイートピー……ブーケは白とごく淡いピンクを基調にしたオーバル型で、甘やかなそのイメージは、花嫁である瞳子よりも秋子に合わせて作ってくれたようだった。
ふと視線を上げると、少し離れた場所にガゼボ(西洋あずまや)があるのが見えた。ガゼボは、白い柱と濃いグレーの瓦で、まるでおとぎ話に出てきそうな可愛らしい佇まいだ。
――まぁ……なんて素敵なガゼボ。まさか、あんな所まで飛んでないわよね?
秋子はブーケを探す為にというよりも、ガゼボに惹かれて歩みを進めた。
ガゼボの中には、壁に沿うように木製のベンチが設置されていた。誰も居ないと思い込んで、気軽に足を踏み入れて秋子ははっとして歩を止めた。人がベンチに横たわっていたからだ。白いネクタイにダークスーツ、結婚式の招待客の一人なのだろう。その人の頭上にブーケが置いてあった。薔薇、トルコキキョウ、スイートピー……オーバル型のそのブーケは、まぎれもなく、さっき瞳子が投げたものだ。
秋子は躊躇いがちにブーケに歩み寄った。ブーケとその横たわっている人を見比べる。その人は、スーツの良く似合うスラリとした人だった。すーっと通った鼻筋に、きりと引き締まった口元、少し硬そうな髪質の前髪から覗く眉は整っていて秀麗だ。
「あの……」
秋子は躊躇いがちに声を掛ける。その人は、少し眉間にしわを寄せてから目を開けた。少し怒ったような不機嫌そうな瞳に見つめられて、秋子は怖気づく。
「何か?」
「あ、あの……そのブーケ……」
私のですと言いかけて、言葉に詰まった。ブーケトスをしたのだ。ブーケは一番にキャッチした人のものだ。
「ああ、これですか。先ほど庭を歩いていたら飛んできたんですよ。あなたが投げたんですか?」
男は物憂げに起きあがった。
「……いえ、違います……」
「そうでしょうね、ブーケを投げるのは花嫁だ。でも……あなたは花嫁ではない」
男はそういうと、秋子の頭の先からつま先まで不躾なほどの強い視線で見つめた。秋子は紺色のフォーマルドレスを着ていた。軽やかなアンシンメトリーなドレスの裾から繊細なチュールレースがさりげなくのぞくところが気に入って選んだものだ。
「ブーケトスをしたブーケは最初に手に入れた人のものですよね?」
男は面白そうに秋子に問いかけた。
「……そうですね」
秋子は力なく肯定する。がっかりして俯く秋子の頭上から声がした。
「差し上げましょうか?」
声の近さに驚いて秋子は顔を上げる。男は秋子のすぐ傍に来て顔を覗きこんでいた。
「いいのですか?」
「いいですよ。その代わりに……」
男はベンチの上のブーケをちらりと見つめてから、秋子の耳元に口を寄せた。
「俺にキスをしてもらえませんか?」
男の申し出に、思わず秋子は後ずさる。
「えっ? それって……」
秋子の困惑顔に男はクスリと笑う。
「あぁ、そんなに怯えないでください。もちろん、頬でいいんですよ。幸せになると言われているブーケをお譲りするわけですから、ここで小さな幸せを分けてもらっておこうかなと思ったんです。こんな可愛らしい人にキスされれば、さぞかし幸せでしょうからね」
はにかんだように小さく笑う男の表情に、秋子もつられてほほ笑む。
「分かりました。それでは、少し屈んでもらえますか?」
男はかなり背が高いので、小柄な秋子が背伸びするだけでは、彼の頬にキスをするのは無理そうだ。男は、小さく笑んで少し屈んだ。秋子は少し背伸びをして、軽く頬に口づける。その瞬間、男はぐいっと秋子の腕を掴んで引き寄せると、秋子の唇に口づけた。
「やっ、なにを……」
もがく秋子を更に強く抱きしめて、男は深く口づける。強引に開かされた秋子の唇は容易く相手の侵入を許してしまう。
「んっ……」
強く抱きしめられて身動きが取れないまま、初めて会ったばかりの男の舌が秋子の舌と絡み合う。
涙ぐんで、ガゼボのベンチに座り込む秋子に、男はブーケを渡した。
「あなたは隙だらけですよ。これに懲りたら、こんな所を一人でふらつかないことです。そして今後は、見ず知らずの男に、どんな理由があろうとキスなどしないことです。仮に襲われたとしても、こんな所では、誰も助けに来ませんよ?」
男はそう言い残すと、秋子を一人残して立ち去った。
* * *
秋子の人生が手に負えなくなって行ったのは、あの時からだったのだと、今思い返してみれば分かる。
男の名前は、志木司。今では彼は秋子の夫だ。
秋子が庭師と談笑しているところに、司は早足でやってきた。
「シュウ、部屋に居ないと思ったら、こんな所で何をしているんだ?」
眉間にしわが寄っているところを見ると、司の機嫌はあまり良くないようだ。それなのに、秋子は、それにはさっぱり気付かぬ様子で、満面の笑みを浮かべる。
「司さんっ、この木を切らないでいてくれてありがとうございました」
司は秋子の腕を掴むと、ぐっと引き寄せた。
「一人でふらふら歩きまわるんじゃない。転びでもしたらどうするつもりだ」
「大丈夫ですよ。子どもではないですから……」
司の剣呑な様子にようやく気が付いた秋子は目を丸くする。
「君は……相変わらず痛い目を見ないと分からない人だな」
司は、きょとんとした様子の秋子に舌打ちをした。
元々、秋子に関しては異常なほど心配症だった司は、秋子の妊娠以来、輪を掛けて心配症になっていた。
心理描写を多く、会話文を少なく、恋愛描写を多く…を目指してみた習作です。更新は不定期になります。