会社の健康診断で「魔力値だけ異常」と言われました
人間にも微量の魔力がある――そんなニュースが流れたのは、たしか二年ほど前だった。
だからといって、俺の生活は何一つ変わらなかった。
魔法使いが街を飛び回るわけでもない。俺は相変わらず会社に行き、パソコンに向かい、昼休みにコンビニ弁当を食べている。
そんな俺が今年の健康診断で、魔力値だけ引っかかった。
「基準を大幅に超えています。念のため、精密検査を受けてください」
「……魔力値?」
血圧でも血糖でもない。
存在を知ってから二年間、一度も気にしたことのないものだけが異常値だった。
後日届いた結果を見る。
『魔力値 E 要精密検査』
基準値。
その横に、自分の数値。
「……桁、間違ってない?」
数十倍あった。
◇
指定された専門外来へ行くと、医師は俺の検査結果をしばらく眺めた。
「かなり高いですね」
「やっぱりですか」
「これだけの魔力量があるなら、何か自覚はありませんか?」
「ありません」
「意図的に魔力を使った経験は?」
「ありません」
「物を動かしたり」
「できません」
「火を出したり」
「できません」
「傷の治りが早いとか」
「普通だと思います」
「身体能力が高い?」
「三階まで階段で上がると息切れします」
医師が黙った。
俺も黙った。
せっかく人の数十倍の魔力があるのに、何一つ使えないらしい。
「不思議ですね」
「俺も今、不思議になったところです」
追加検査を受けた。
そして、不思議は増えた。
「あなたは毎日、かなりの量の魔力を生成しています」
「はい」
「ですが、ほとんど残っていません」
「はい?」
「毎日、ほぼ使い切っています」
意味が分からない。
「俺、魔法使えないんですよね?」
「そのはずなんですが」
「じゃあ何に使ってるんです?」
「それを調べたいんです」
医者に聞いたら医者も分からなかった。
結局、一週間ほど携帯型の測定器をつけて生活することになった。
◇
翌朝。
いつも通り会社へ向かう。
家を出てすぐ、腰につけた測定器が鳴った。
ピッ。
見る。
魔力が少し減っている。
「……何した、俺?」
何もしていない。
歩いただけだ。
駅へ向かう。
交差点の角。
向こうから自転車が曲がってきた。
俺も同じタイミングで角を曲がる。
ぶつかる。
そう思った瞬間。
ピッ。
自転車の男が、ほんの少しだけ早く俺に気づいた。
ハンドルが数センチずれる。
「すみません!」
「いえ」
通り過ぎる。
俺は測定器を見る。
減っている。
「……まさか」
駅。
ポケットから定期券を出す。
一緒に百円玉が落ちた。
ピッ。
硬貨は床に落ちる直前、俺の靴の甲に当たった。
足元に転がる。
「……え?」
会社。
隣の席の佐藤がコーヒーを持って歩いてくる。
床に伸びた電源コードへ靴がかかりかける。
ピッ。
佐藤の足が、直前で半歩ずれた。
「あぶね」
コーヒーも無事。
俺は佐藤を見る。
測定器を見る。
また減っている。
昼前。
棚の端に置かれていたファイルが滑った。
落ちる。
ピッ。
ファイルの角が棚の金具に引っかかる。
止まった。
午後。
前を歩いていた社員の胸ポケットからスマホが滑る。
ピッ。
スマホは鞄の角に当たり、そのまま本人の靴の上へ。
「うお、助かった」
俺は測定器を見た。
確信した。
「……俺、こんなことに魔力使ってんの?」
◇
翌日。
病院で医師に記録を見せる。
「ほぼ間違いありません」
「何がです?」
「あなたの魔力は、周囲で起こりかけた小さな不運を回避するため、自動的に使われています」
「勝手に?」
「勝手にです」
「俺の意思は?」
「関係ありません」
ひどい。
俺の魔力なのに。
「どのくらいの範囲ですか?」
「記録を見る限り、数メートル程度ですね」
「遠くは無理?」
「無理でしょう」
「宝くじ」
「関係ありません」
「競馬」
「関係ありません」
「パチンコ」
「おすすめしません」
「使えねえ」
「かなり珍しい能力ですよ」
宝くじ一枚当てられないくせに。
医師は記録を指さした。
「幸運を生み出しているわけではありません。起こるはずだった小さな不運を、偶然で説明できる範囲だけ、少し良い方向へずらしているようです」
「少し?」
「最後の数センチ、とでも言えばいいでしょうか」
最後の数センチ。
言われてみれば、確かにそうだった。
スマホが壊れない。
コーヒーがこぼれない。
人とぶつからない。
何かが落ちても、ぎりぎり助かる。
全部その程度だ。
そして、それは俺自身にも効いているらしい。
思い返してみる。
三十二年間、大事故なし。
大怪我なし。
財布をなくしたことなし。
スマホを割ったことなし。
仕事でミスはする。
でも、致命的なところまで行ったことはない。
そして。
「先生」
「はい」
「俺、人生で一度もビニール傘盗まれたことないです」
「……それは」
医師が少し考えた。
「能力かもしれませんね」
そこまで守ってたのか、俺の魔力。
だが、医師はさらに気になることを言った。
「自動発動を抑えられれば、魔力を蓄積できる可能性があります」
「貯められる?」
「はい。あなたほどの生成量なら、訓練次第で別の魔法を使える可能性もあります」
初めて少しワクワクした。
魔法。
火とか。
物を浮かせたりとか。
三十二年間、特技らしい特技などなかった。
そんな俺が、実は人の数十倍の魔力を持っている。
「止められるんですか?」
「試験的になら」
その場で、自動発動を抑える装具を借りた。
まずは半日。
問題がなければ、訓練を考える。
俺は人生で初めて、自分に特別な才能があることを少し嬉しく思った。
◇
翌朝。
装具をつけて家を出た。
三十秒後。
玄関前で鍵を落とした。
カン。
鍵は側溝のふたの隙間へ。
「うわっ」
慌ててしゃがむ。
隙間の途中で引っかかっている。
指を伸ばす。
届かない。
五分かけて、傘の先で引き寄せた。
「……朝から何やってんだ俺」
駅へ向かう。
交差点の角。
昨日と同じように、自転車が曲がってきた。
今度は本当に肩がぶつかった。
「すみません!」
「いえ、大丈夫です」
痛くはない。
ただ、昨日なら数センチずれていた。
駅。
定期券を出す。
イヤホンが落ちた。
床に当たる。
ケースが開く。
左右のイヤホンが別々の方向へ転がった。
「嘘だろ」
拾う。
会社。
社員証を机に置こうとして、手が滑った。
カードは机と棚の隙間へ。
「……マジか」
しゃがむ。
見える。
届かない。
定規で引っかけて、やっと取る。
席へ戻る。
ペンを机の端に置く。
コロコロ。
落ちる。
「あ」
拾う。
五分後。
また落とす。
「……世の中って、本来こんなに物が落ちるのか?」
さすがに笑えてきた。
俺は三十二年間、ずいぶん甘やかされていたらしい。
だが、笑っていられたのはそこまでだった。
昼前。
佐藤が俺の横を通る。
俺の椅子の脚に靴を引っかけた。
「うわっ!」
手に持っていた書類が床へ散らばる。
「悪い!」
「いや、俺も椅子出てたし」
二人で拾う。
その十分後。
別の同僚が俺の机へ書類を持ってきた。
俺が受け取ろうと手を伸ばす。
指先がぶつかる。
書類が落ちる。
「あっ」
また二人で拾う。
昼休み。
俺がコーヒーを机に置く。
肘が当たった。
カップが倒れる。
「ああっ!」
書類の端までコーヒーが流れる。
昨日までなら。
カップが何かに引っかかったり。
書類の数センチ手前で止まったり。
最後の最後で助かっていた。
今日は助からない。
「……これ、地味にきついな」
午後。
佐藤のペンが落ちた。
拾おうとして、机の角に膝をぶつける。
「痛って!」
その向こうで、別の同僚が立ち上がった。
椅子が後ろの棚に当たる。
積んであったファイルが二冊落ちた。
「うわっ」
その一冊が俺の足元まで滑ってくる。
俺は黙って見る。
数メートル。
全部、俺の周りだ。
午前中は、自分がついていないだけだと思っていた。
違う。
**俺の周りだけ、最後の数センチで負け続けている。**
佐藤が膝をさすりながら言った。
「今日なんか、お前の周りだけ雑じゃない?」
「……たぶん俺が原因」
「何したんだよ」
「何もしないようにした」
「もっと意味分かんねえよ」
その瞬間。
俺の机の端に置いてあった消しゴムを、佐藤の袖が引っかけた。
落ちる。
佐藤が拾おうとして机の下へ潜り、
ゴン!
「痛ってえ!」
俺はスマホを取り出した。
◇
『はい、どうされました?』
「先生」
『はい』
「戻していいですか?」
『抑制装具ですか? 予定では夕方までデータを――』
「戻していいですか?」
『……何がありました?』
「俺の周りだけ、最後の数センチが全部負けてます」
数秒、沈黙。
『……外してください』
装具を外す。
何も起きない。
当然だ。
光もしない。
風も吹かない。
ただ、佐藤が机の上のマグカップへ手を伸ばした。
指先が少し当たる。
カップが傾く。
ピッ。
倒れる直前。
取っ手が書類トレーの端に引っかかった。
止まった。
「危な」
佐藤が息を吐く。
俺は測定器を見る。
魔力が減っている。
「……戻った」
「何が?」
「こっちの話」
その直後。
俺の机からペンが転がった。
ピッ。
床へ落ちる直前、椅子の脚に当たる。
俺の足元へ。
拾う。
なんてことはない。
本当になんてことはない。
なのに、妙に嬉しかった。
世界が元に戻った。
いや。
たぶんこれが、俺にとっての普通だった。
◇
数日後。
病院。
医師が聞く。
「抑制訓練、どうします?」
「しません」
即答した。
「魔力を貯めれば、ほかの魔法を習得できる可能性がありますよ」
「いりません」
「火を出せるかもしれません」
「コーヒーこぼさないほうがいいです」
「物を浮かせられるかもしれません」
「社員証が隙間に落ちないほうがいいです」
医師が笑った。
俺も笑った。
火を出せたら面白いとは思う。
物を浮かせられたら、もっと面白い。
せっかくの魔力を、毎日しょうもないことに使い切るのはもったいない。
少し前までは、そう思っていた。
でも。
「普通に一日終わるほうが大事ですよ」
俺は三十二年間、ずっと普通だった。
何の変哲もない人生だと思っていた。
どうやら違ったらしい。
何の変哲もない一日を送るために、毎日とんでもない量の魔力を使っていたのだ。
◇
翌朝。
いつもの会社。
いつもの席。
いつものパソコン。
「おはようございます」
「おはよう」
佐藤がコーヒーを持って横を通る。
何も起きない。
俺はパソコンの電源を入れた。
机の端に置いてあったペンが転がる。
落ちる。
その寸前。
クリップに引っかかって止まった。
ピッ。
測定器を見る。
魔力が、ほんの少し減っていた。
思わず笑う。
「お前、そんなことにまで魔力使うなよ」
まあ、いい。
今日もたぶん、帰るころには空っぽだ。




