【連載版あります】私を捨てたあなたに、幸せになる資格まで奪われたくないのです
連載版始めました!詳しくは後書きにて
ヴィオレッタ・グランシェルが婚約を破棄されたのは、春の終わりのことだった。
その日は朝から穏やかに晴れていて、庭園には淡い色の花が咲き、風が吹くたびに細い枝先が静かに揺れていた。五年も婚約している相手から大切な話があると呼び出されたのだから、ヴィオレッタも何かしら改まった話なのだろうとは思っていた。結婚まであと半年ほどに迫っていたため、式の日取りや今後の予定について相談でもあるのかもしれないと考えていたくらいで、まさかそのすべてを終わらせる話だとは思ってもいなかった。
「婚約を解消してほしい。急にこんなことを言われても困ると思うし、君を傷つけることも分かっている。それでも、曖昧なまま結婚する方がもっと不誠実だと思ったんだ」
向かいに立つオスカー・レーヴェンは、いつになく緊張した様子だった。ヴィオレッタはすぐには言葉を返せず、彼の顔をじっと見つめた。聞き間違いであってほしいと思ったわけではない。ただ、五年という時間があまりにも簡単な一言で終わったことを、頭がすぐには理解できなかったのである。
「理由を聞いてもいいかしら。五年間続けてきた婚約を終わらせるのだから、それくらいは知っておきたいわ」
「好きな人ができた。ネリーナ・クロフォード嬢だ。去年の冬頃から社交の場で話す機会が増えて、最初はただ気が合う相手だと思っていた。でも、気づけば彼女のことを考えるようになっていた。こんな気持ちのまま君と結婚するのは違うと思ったんだ」
ヴィオレッタは何も言わなかった。胸の奥に冷たいものが広がっていく感覚だけが妙にはっきりしていた。オスカーと激しく愛を語り合ったことがあるわけではない。それでも、婚約者として積み重ねてきた時間があり、当然のようにこの先も隣にいると思っていた。結婚した後の暮らしについて話したこともある。互いの家族とも長く付き合ってきた。それらすべてが嘘だったとは思わない。ただ、これから先へ続くと思っていたものが突然途切れたことだけは、どう受け止めればいいのか分からなかった。
「そう。だったら、仕方がないわね」
「責めないのか。もっと怒られると思っていたし、泣かれるかもしれないとも思っていた。それだけのことをした自覚はある」
「泣いて頼めば、私と結婚してくれるの?」
オスカーは答えなかった。その沈黙だけで十分だった。怒りがないわけではなかったし、悲しくないわけでもなかった。むしろ今すぐ一人になれたなら、みっともないほど泣いてしまうかもしれない。それでも、別の女性を好きになった男へ縋りついて婚約だけ続けても、そこに何の意味があるのか分からなかった。
「なら、婚約は解消しましょう。私はあなたと結婚するつもりでいたから、もちろん傷ついているわ。でも、あなたの気持ちが別の人へ向いているのに、形だけ婚約者でい続けても仕方がないもの」
「……すまない。本当に、君を傷つけたくてこうしたわけじゃないんだ」
その言葉に、ヴィオレッタはほんの少し眉を寄せた。傷つけるつもりがなければ傷つけても構わないわけではない。それでも今は言い争う気力もなく、ただ両家への説明だけは自分ではなくオスカーからしてほしいと伝えた。彼はすぐに頷き、すべて自分から話すと約束した。そのまま終われば、少なくとも最後まで嫌いにはならずに済んだかもしれない。
「ヴィオレッタなら大丈夫だと思う。俺なんかより、もっと君を大切にしてくれる男がきっといる。君には幸せになってほしいんだ」
「……そう願ってくれるのなら、ありがたく受け取っておくわ。では、これで失礼するわね」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィオレッタは初めて彼から目を逸らした。どうして自分を捨てる人間から、そんなことを言われなければならないのだろうと思った。幸せになってほしいと言いながら、その幸せだと思っていた未来を今まさに壊しているのはオスカー自身なのに、彼にはその矛盾が分かっていないらしい。
それ以上は何も言わず、ヴィオレッタは庭園を後にした。屋敷へ戻る馬車に乗り込み、扉が閉まり、見慣れた庭園が遠ざかっていくまで涙は出なかった。けれど一人きりになった途端、堪えていたものが崩れたように頬を涙が伝った。五年という時間が惜しかったのか、オスカーを失ったことが悲しかったのか、それとも自分だけが何も知らずに未来を信じていたことが悔しかったのか、自分でもよく分からなかった。
婚約解消の話は、その後驚くほど淡々と進んだ。レーヴェン侯爵家もオスカー本人から事情を聞いていたため強く反対することはなく、一方的な申し出である以上は相応の補償をすると申し出た。グランシェル伯爵家も娘の意思を確認した上でそれを受け入れ、家同士としては大きな争いになることもなかった。書類が整えられ、約束されていた結婚式は取り消され、ヴィオレッタとオスカーは正式に婚約者ではなくなった。
家同士の話が穏便に終わったからといって、社交界まで穏便にしてくれるわけではなかった。婚約を解消した事情は細かく公表されなかったが、侯爵家の嫡男から五年続いた婚約を解消されたという事実だけで、人々には十分な話題だった。夜会や茶会へ出れば、直接何かを言われなくても視線を感じるようになった。近くを通れば急に声を落とす者もいれば、逆に聞こえるように「何か問題があったのでは」と話す者もいた。しかも少ししてオスカーとネリーナが公に交際を始めると、噂は一層分かりやすい形へ変わった。ヴィオレッタは別の女性に婚約者を奪われた令嬢であり、五年も一緒にいながら最後には選ばれなかった女だと、勝手な物語を作られるようになったのである。
それでも、ヴィオレッタはネリーナを憎むことができなかった。一度、夜会で顔を合わせたことがある。ネリーナは勝ち誇った顔をするでもなく、むしろ申し訳なさそうに視線を伏せて、小さく会釈しただけだった。もちろん、婚約者のいる男へ気持ちを向けたことについて何も思わないわけではない。しかし最終的に婚約を終わらせることを選んだのはオスカーであり、ヴィオレッタにはそれ以上ネリーナを責める気にはなれなかった。
そのため、行き場のない感情だけが残った。オスカーを恨み続ければいいのか、自分を笑う者たちに怒ればいいのか、それとも選ばれなかった自分に何か足りなかったのだと納得すればいいのか分からない。気づけば以前より外出することが減り、社交の誘いも断ることが増えていた。
そんな生活が数か月続いた頃、母がヴィオレッタの部屋へ一通の招待状を持ってきた。母の姉、つまりヴィオレッタの伯母が開く小さな茶会への招待だった。大きな夜会ではなく、親戚や親しい知人だけを呼ぶ気楽な集まりらしい。それでもヴィオレッタは行く気になれず断ろうとしたが、母は珍しく譲らなかった。
「無理に元気になれとは言わないわ。でも、あの婚約が終わったからといって、あなたの人生まで終わったわけではないでしょう」
少し厳しい言い方だったが、ヴィオレッタには反論できなかった。結局その言葉に押される形で茶会へ出席し、そこでフェリクス・アルディーンと初めてまともに話すことになった。
フェリクスは公爵家の次男だった。顔と名前くらいは以前から知っていたものの、互いに挨拶以上の会話をしたことはほとんどない。そんな彼が、窓辺で一人本を読んでいたヴィオレッタへ声をかけてきた。
「その本、南方の紀行記ですよね。面白いですか?」
「ええ。行ったことのない土地だから、読んでいるだけでも楽しいわ」
「そこなら一度だけ行ったことがあります。この著者は少し大袈裟に書いていますけれど、夕暮れの景色だけは本当に綺麗でしたよ」
それをきっかけに、二人はしばらく南方の話をした。フェリクスは旅行中に道を間違えて知らない村へ辿り着いた話や、そこで食べた菓子が思いのほか美味しかった話をして、ヴィオレッタは久しぶりに自然な笑みを浮かべた。
その間、フェリクスは一度も婚約破棄について触れなかった。可哀想だとも、元気を出せとも、新しい相手を探せとも言わなかった。ただ一人の相手として普通に接してくれた。それが、ヴィオレッタには驚くほど心地よかった。
その後も二人は親戚同士の集まりや演奏会などで顔を合わせるようになった。すぐに恋愛めいた関係になったわけではない。ヴィオレッタはまだ結婚という言葉を聞くだけで身構えてしまうことがあったし、フェリクスも無理に距離を縮めるような真似はしなかった。けれど本の話をしたり、旅行の話を聞いたり、時には家族の愚痴を笑いながら話したりするうちに、ヴィオレッタは少しずつ以前の自分を取り戻していった。
婚約していた頃の自分は、いつも未来ばかり見ていたのだと、その頃になって初めて気づいた。侯爵家へ嫁いだらどうするか、結婚式には何を準備するか、どんな妻になるべきか。もちろんそれが嫌だったわけではない。ただ、あまりに先のことばかり考えていて、今の自分が何をしたいのかを深く考えたことがなかった。
婚約がなくなってから、時間は急に自分だけのものになった。母と街へ出かけ、欲しかった本を買う。兄と些細なことで言い争い、翌日には何事もなかったように菓子を分け合う。伯母の屋敷へ顔を出し、フェリクスとくだらない話で笑う。そんな日々を重ねるうちに、婚約破棄されたという出来事が人生のすべてではないと思えるようになっていった。
そんなヴィオレッタの変化を、本人より先に気にし始めたのがオスカーだった。
久しぶりに出席した王宮の夜会で、ヴィオレッタはフェリクスと話していた。南方へ行った時にフェリクスが現地の菓子を食べすぎて体調を崩したという話を聞き、思わず笑ってしまったところで、背後から名前を呼ばれた。
「久しぶりだな、ヴィオレッタ。元気そうで安心したよ。アルディーン卿とは、随分親しくなったんだな」
「久しぶりね。ええ、最近いくつかの集まりで顔を合わせることが多くて、よくお話しするようになったの」
オスカーの少し後ろにはネリーナも立っていた。ヴィオレッタは彼女にも簡単に挨拶をし、ネリーナも礼儀正しく応じた。それだけなら何も問題はなかったのだが、オスカーはその後も何度かヴィオレッタとフェリクスの間へ視線を向けていた。
数日後、別の集まりで再び顔を合わせた時、今度はオスカーの方から話があると呼び止められた。
「ただの友人なら余計なことを言うつもりはない。でも、もしアルディーン卿との婚約まで考えているなら、少し慎重になった方がいいと思う。公爵家の人間だから信用できるとは限らないし、君はまだ俺との婚約が終わってからそれほど時間も経っていない。焦って次を決める必要はないだろう」
「心配してくださるのはありがたいけれど、私が誰と親しくするかは、もうあなたに相談することではないと思うわ。私たちは婚約者ではないのだから」
「それは分かっている。ただ、五年も一緒にいたんだ。君がまた傷つくようなことになれば、何も思わないわけにはいかない」
その言葉に、ヴィオレッタは小さな違和感を覚えた。けれど、その時はそれ以上言い争うつもりもなく、気遣いだけ受け取っておくと答えて話を終わらせた。
問題は、オスカーがそれでやめなかったことだった。彼は共通の知人へフェリクスについて尋ねるようになり、どんな人物なのか、過去に女性関係の問題はなかったかと調べようとした。さらにはヴィオレッタの兄へまで、「妹君が焦って妙な男を選ばないよう、少し気にかけてやってほしい」と頼んだらしい。
「俺は、まず自分の婚約者を気にかけろと言って追い返したよ。あいつ、自分でお前との婚約を終わらせたことを忘れてるんじゃないか?」
兄からそう聞かされた時、ヴィオレッタは怒るより先に呆れてしまった。自分を捨てて別の女性を選んだ男が、どうして今さら自分の交友関係にまで口を出してくるのか。しかも本人には悪意がなく、むしろ善意でしているつもりらしいことが余計に厄介だった。
オスカーの変化には、当然ながらネリーナも気づいていた。
ヴィオレッタがそれを知ったのは、さらに少し後のことだった。フェリクスと親しくなっているという噂が広がり始めた頃、ネリーナが一人でグランシェル伯爵家を訪ねてきたのである。突然の訪問に驚いたものの、敵意があるようには見えなかったため、ヴィオレッタは応接室へ通した。
「今日はごめんなさい。こんな形で会ってしまえば、ヴィオレッタ様を困らせるだけだと思っています。ただ、一つだけお伝えしておきたくて。最近のオスカー様は、あまりにもヴィオレッタ様のことを気にしすぎています」
「……私のことを?」
「ええ。フェリクス様と会ったのか、どこへ出かけたのか、どれくらい親しいのか。本人は心配しているだけだと言います。でも私、一度聞いたんです。ヴィオレッタ様に幸せになってほしいのかって。オスカー様は当然だと答えました。だから、だったらどうしてヴィオレッタ様が幸せになろうとすると嫌そうな顔をするのですか、と聞きました。でも、答えてくださいませんでした」
ネリーナは少し俯き、困ったように笑った。
「私も馬鹿だったと思います。あの方が私を選んでくださったことが嬉しくて、それだけで十分だと思っていました。でも最近、少し分からなくなってしまって。オスカー様が本当に私を選んだのか、それとも手に入れたものより、持っていないものに執着する方だけなのか」
ヴィオレッタもネリーナもオスカーがどういう人間だったのかを今回の会話で大体の察しがついたようだった。
そして今回の会話でヴィオレッタの胸にあった違和感が、初めてはっきりした形になった。オスカーは、自分がヴィオレッタを捨てたことを理解している。けれど、捨てた後のヴィオレッタまで自分から離れていくとは思っていなかったのだ。婚約が終わっても、自分は特別な存在であり続ける。ヴィオレッタはしばらく傷つき、自分を忘れられず、たとえ新しい恋をするとしてもずっと先のことだと、どこかで勝手に決めつけていたのだろう。
その考えが確信へ変わったのは、フェリクスから正式に気持ちを伝えられた数日後だった。
「今すぐ婚約してほしいとは言わない。ただ、俺は君を好きになったし、もし君がいつか誰かと人生を共にしたいと思った時、その相手として俺を考えてもらえたら嬉しい」
フェリクスはそう告げても、返事を急かさなかった。ヴィオレッタは素直に嬉しかったが、同時にすぐ頷くことはできなかった。五年間、自分は誰かに選ばれた婚約者として生きてきた。その結果をすべて後悔しているわけではないが、次だけはもう少し時間をかけて、自分自身で選びたいと思っていた。
「少しだけ時間をもらってもいいかしら。あなたが嫌だからではないの。ただ、今度は誰かに選ばれたから結婚するのではなく、自分が本当にこの人と生きたいと思ってから決めたいの」
「もちろん。君が自分で答えを出せるまで待つよ」
その言葉に、ヴィオレッタは心から安堵した。
ところが、その話をどこから聞いたのか、オスカーが数日後にヴィオレッタを訪ねてきた。
「フェリクス・アルディーンから求婚されたというのは本当なのか。もしそうなら、すぐに返事をするのはやめた方がいい。婚約を失った不安から、たまたま優しくしてくれた男を選ぼうとしているだけかもしれないだろう」
「随分勝手なことを言うのね。あなたは私が誰かを好きになることまで、婚約破棄の反動だと思うの?」
「そう断定しているわけじゃない。でも、君は俺との婚約を五年も続けていたんだ。それがなくなって、まだ一年も経っていない。それなのに急に別の男と――」
「やめて」
ヴィオレッタは静かに遮った。怒鳴ったわけではなかったが、オスカーはそこで口を閉じた。今までなら、彼が心配しているだけなのだと思い、多少不快でも受け流していたかもしれない。しかし今はもう違った。ネリーナの言葉を聞いたことで、オスカーが何を求めているのか、ようやく分かってしまったからだ。
「あなたがネリーナ様を好きになったことを、私は今さら責めるつもりはないわ。人の気持ちが変わることはあるでしょうし、それを隠したまま結婚されるよりは、あの時婚約を終わらせてくれた方がよかったと今では思っている。でも、一つだけ勘違いしないで。あなたが選べたのは、自分が誰と生きるかだけよ。私がその後どう生きるのかまで、あなたが決める権利はないわ」
「俺は決めようとしているわけじゃない。ただ、君のことが心配で――」
「それが余計なのよ」
今まで胸の奥に溜まっていたものが、ようやく言葉になった。
「婚約を破棄した時、あなたは私に幸せになってほしいと言ったわね。私はあの時、その言葉が大嫌いだった。私の幸せを壊した本人が、まるで善人みたいな顔で幸せを願うなんて、随分勝手だと思った。でも、それでも私は前を向こうとしたの。あなたを恨み続けるのではなく、もう一度自分の人生を生きようとした。それなのに、今度はあなたがその邪魔をするの?」
「そんなつもりじゃない。俺はただ、君が後悔するような選択をしてほしくなくて――」
「私が、一生あなたを想って、不幸なままでいれば満足なの?私が別の人と笑っていたら嫌なの?それなら、あなたが言った『幸せになってほしい』は何だったのよ」
オスカーの顔から血の気が引いていった。何か言い返そうとしているようだったが、言葉は出てこない。
「あなたはネリーナ様を選んだ。それでいいのよ。私はその選択を受け入れたわ。だから今度は、あなたも私の選択を受け入れて。もう私に構わないでください。それが本当に私の幸せを願っているということだと思うから」
オスカーは長い間黙っていた。やがて何かを言おうと口を開いたものの、結局言葉にはならず、そのまま静かに帰っていった。それが、ヴィオレッタとオスカーがまともに話した最後だった。
数週間後、オスカーとネリーナが別れたという噂が社交界を巡った。事情を面白おかしく語る者もいたが、ヴィオレッタは自分から確かめようとはしなかった。後になって兄から聞いたところでは、別れを切り出したのはネリーナの方だったらしい。
「私は、私を選んでくださったあなたが好きでした。でも今のあなたは、選ばなかった人ばかり見ている。そんな人と一緒にいても、私は幸せになれません」
ネリーナはそう告げたという。
その話を聞いても、ヴィオレッタの胸が晴れることはなかった。オスカーが一人になったからといって、自分が勝ったわけではない。ネリーナに勝ったわけでもなければ、復讐が成功したわけでもない。ただ、オスカーは一度自分でネリーナを選びながら、失ったヴィオレッタへ執着し、結果としてそのネリーナからも見放された。それは誰かに陥れられた結果ではなく、彼自身が招いたことだった。
それから数か月が過ぎ、季節が変わる頃には、ヴィオレッタの生活もすっかり落ち着いていた。婚約破棄について囁く者が完全にいなくなったわけではないが、以前ほど気にはならなくなった。人は好き勝手なことを言う。けれど、その言葉によって自分の人生を決める必要はないと分かったからだ。
ある日の午後、ヴィオレッタはフェリクスと二人で街へ出かけていた。買い物を済ませた後、並んで石畳を歩きながら、彼が次に読みたいと言っていた本の話を聞く。以前なら婚約者と歩く時は、いつも無意識に半歩後ろへ下がっていた。相手に合わせることが当然になっていたからだ。
けれど今は、自然にフェリクスの隣を歩いていた。
ヴィオレッタはふと足を止めると、こちらを振り返った彼の手を自分から取った。
「ずっと待ってもらっていたでしょう。だから、そろそろ答えようと思って」
「……今ここで?」
「駄目だった?」
「いや。むしろ、心の準備ができていなくて驚いているだけだよ」
フェリクスが少し困ったように笑う。その表情を見て、ヴィオレッタも笑った。
「それで、答えは決まった?」
「ええ。婚約の件はお願いするわ。こんな私を愛してくれてありがとう」
フェリクスはしばらく何も言わなかった。やがて握られていた手をそっと握り返し、嬉しそうに笑った。
婚約を破棄されたあの日、ヴィオレッタは自分の人生がそこで終わってしまったように思っていた。五年も信じていた未来を失い、社交界では捨てられた令嬢と呼ばれ、自分にはもう誰かに愛される価値などないのではないかと考えた夜もあった。
けれど、そんなことはなかった。
誰かに捨てられたからといって、その人間まで不幸になる必要はない。傷ついたなら立ち止まってもいいし、泣いてもいい。すぐに次の幸せを見つけられなくても構わない。それでも、自分がもう一度歩き出したいと思った時、その道を選ぶ権利まで誰かに渡す必要はないのだ。
ヴィオレッタはフェリクスの隣を歩き始める。
今度は自分で選んだ人の隣を。
評価&ブクマありがとうございます!励みになります。
前書きの通り、長編化させました。 二人のその後について書く予定です。(分かりやすいように代表作にしました)
【連載版】私を捨てたあなたに、幸せになる資格まで奪われたくないのです
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