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1.ムゲン

 

 雨は嫌いだ。

 雨が降ったあとの湖はすこぶる水が濁るからだ。


 視界の悪い水中を泳ぎ進むと、湖の水底から生える巨大な植物の茎元が見えてきた。

 この植物が全ての栄養を独占しているのか、湖には他の植物は見当たらず、苔や藻すら生えていない水底は岩肌が剥き出しになっている。そのせいか魚はおろか、水生昆虫すらほとんど見かけないこの湖を『死の湖』と呼ぶ者もいるくらいだった。


 そんな物騒な湖の主たるは、茎一本が人の胴回りと同じ太さのある巨大蓮華だ。

 水底の厚く固い岩盤を砕いて根付くそれの茎元を見てみると、先日の嵐でどこからか転がり落ちてきたらしい大きな岩が大事な成長点である茎元の上に落ちてしまい生育を阻害しているらしかった。


(どうりで葉に元気がないわけだ)


 湖の水面からは大人が大の字で寝ても余裕がある程の巨大な葉がいくつも伸びている。

 その葉の上で昼寝をするのが自分の日課だったのだが、この日は飛び乗った瞬間に茎が折れて沈んでしまい、こうして水中に投げ出されて今に至るわけだ。


 茎を傷付けないように慎重に岩に手をかけ、両足で水底を目一杯踏ん張って持ち上げるが、自分と同じくらいある大きさの岩はかなりの重量でなかなか動かない。腕と足に力を込めれば込めるほど口端からごぼごぼと空気が漏れていったが、そんなことには構わず、帰路のことなど考えず、渾身の力を振り絞り続ける。すると岩は僅かに動き、自重で傾いてゴロゴロと転がり退いていった。


 ほっと一息つきたいところだったが、泳ぎや潜水はかなり得意な自分でもさすがに肺の中の酸素は限界だった。

 急いで水底を蹴り、幾重も伸びた蓮華の茎を避けながら浮上していく。

 光を反射してきらきらと輝く水面を目指して必死に足掻いていると、ふと()()()()が目の端をかすめた。




 ◇◇◇




「ぶはぁ!」


 激しい水飛沫を上げて水面から顔を出す。

 眩しい日差しが顔にあたり、目が眩むのと肺に酸素が入ってくる感覚が同時に襲ってきてどっと疲れを感じた。


「ムゲン様ー!ご無事ですかー!?」


 湖の岸辺から女性が大声を上げていた。

 歳は二十歳前後。華奢でしなやかな体つきに、肩までのふわふわした橙色の髪。小さな顔に気の強そうな大きな瞳を輝かせて、こちらに向けてぶんぶんと手を振っている。


「無事ー。それより、なんで俺がここにいるって分かったんだよ。」

「モコはムゲン様がご幼少の頃からお仕えしておりますゆえ!ムゲン様がお勉強をサボった時はここで昼寝してると相場は決まっているのです!」

「へいへいそいつはご苦労様。」


 へらへらとした表情で敬礼をする彼女、モコはムゲンと呼ばれた少年のお目付け役であり、世話係や護衛も兼ねている。物心着く頃から傍にいるので、ムゲンにとっては姉のような一番近しい存在だった。


 岸辺まで泳いでざばりと陸地に上がると、ムゲンの肩下まである長い黒髪を雑に結んだ後ろ髪から大粒の水滴が滴り落ちる。

 上着を脱いできつく絞っていると、モコはムゲンの後ろ髪を手に取って丁寧に自前の手拭いで拭き始めた。


「おい、子供扱いすんな。」

「はいはい。ムゲン様ももう十五ですが、モコにとっては幼子のようなものです。」


 全く手を止める様子のないモコに舌打ちするも、反抗したところで敵わないのはこの十五年間で身も持って知らされているので大人しく世話を焼かれることにした。

 しぶしぶ受け入れてじっと髪を拭かれているムゲンの様子に、モコは満足気に微笑む。


(本当に、大きくなられた。)


 二人が初めて出会った頃。

ムゲンはまだ赤ん坊で、当時子どもだったモコの両腕にもすっぽりおさまってしまうほど小さく、まだ目も開いていなかった。

 それが今や、細身だが筋肉質な体つきをした少年となり、太い眉に大きな琥珀色のツリ目は幼さを残しつつも凛々しさと意志の強さを感じさせる。


(黙っていれば可愛いんだけどなぁー。)


 モカがはぁーと溜息を吐くと「おい待て。なんでお前が溜息ついてんだ。」と振り向いて睨んできた。

 せっかく可愛らしい顔立ちをしているのに、凄むような目つきの悪さとムスッとした表情が全てを台無しにしていて、よく言われる第一印象は『仏頂面の悪ガキ』である。



「そういえばお前、何の用で来たんだよ。」

「その前に!何度も申し上げますがここは獅子王(ししおう)様の大切な湖!何人たりとも侵入禁止の《青蓮華の湖》!たとへご子息のムゲン様であろうとここへの出入りは固く禁じられております!万が一にも蓮華を傷付けてしまったら…」

「禁錮1000年だろ?分かってるって。大体1000年てなんだよ誰がそこまで生きるんだよ。絶対適当に決めたぜあのクソ親父。」

「さぁ…獅子王様の雲のような御心は誰にも読めず、掴めませぬゆえ。」


 ムゲンはぶつぶつと悪態をつきながら、まだ水が滴る上着をぎゅうぎゅうと絞った。

 2人が着ているのは動きやすさを重視した造りになっているこの国特有の衣装だ。

 モコが着ているのはワンピース型で、袖は広く裾は短く仕立ててあり、腰には太い革ベルトを締めたシンプルな出で立ちである。ムゲンは半袖型の上着に、腰にはやはり太い革ベルトを締めていて、ややぶかぶかしたズボンの裾に脚絆を当てて細めて動きやすくしてある。

 ムゲンの上着の袖には矢印のような不思議な形の刺繍がしてあり、それは彼がこの国で特別な存在であることの証でもあった。


「そうだモコ。さっき潜ってたらすごいもん見つけたんだ。なんだと思う?」

「すごいもの…えっと、もしやカエルですか?串焼きにしたらさぞ美味でしょうなぁ。」

「ばーか!カエルがこんなとこにいるかよ!」

「失礼な!すごくすごーく昔には川にも湖にもカエルはいたんですよ!ムゲン様がどれだけお勉強サボってるのがよく分かりました!!」


 はるか昔、この世界は文明を極めたが、戦争や科学汚染が進んで崩壊した。

 大地は痩せ、河川は干上がり、急激な温暖化で氷山が溶け果て海面上昇と天変地異が巻き起こり、陸の生き物のほとんどが死に絶えたという。

 残された生き物は、汚染の少ない空や、星の9割を占めるようになった海へと逃れたものもいれば、陸地に残り僅かな自然と共に長い長い時間をかけて今の状態まで再生してきたものもいた。


 ムゲン達は後者の末裔である。


 まだ上着は湿っていたが妥協して袖を通し、ふと隣を見るとモコは未だに考え込んでいる。

 ムゲンは愉快そうに湖の方を指さした。


「蕾だよ。」

「蕾?蓮華のですか?」

「ああ。まだ水中にあって水面に出てくるにはしばらくかかるだろうが、俺くらいあるでっかい蕾だった。どんな花が咲くのか楽しみだ。」


 何に対してもどこか無気力で投げやりなところがあるムゲンだが、この《青蓮華の湖》のことになると楽しそうな表情を覗かせる。

 そんな彼を見て、モコは何か言おうと開きかけた口を閉じた。



 (全くもって、忌々しい。)



「おいモコ、聞いてんのか?」

「…は、はい!あー!そそそそうだ!帰還命令が出ております!どやされる前に城に戻りましょう!さぁ!さぁ!」

「なんだその分かりやすい動揺は。いてててて!分かった!分かったから押すなって!」


 そうして二人は湖を取り囲む深い森へと姿を消した。





 湖の中では、蓮華の蕾がごぼりと揺れている。

 静かに、静かに

 その時が来るのを待っている。







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