事前調査
ベランダの霧に気づいてから自分の部屋に戻りPCを起動させる。うん。自分に言い訳するのはもう止めよう。
訳の分からん生物? が徘徊し、人が死んでいる。なのに何も考えず、何も知ろうとしない。俺はそんな人間じゃない。
これまでもある程度のアンテナは張っていた。
昨日をコピペしているだけの今日という日常からの脱却。ちょっとした冒険を求めてベランダから入れるダンジョンに行くことは決めているのだから、入口を発見したのに通報しなかったことを追求された時の為に言い訳から考えよう。
老いた母を癒すポーションが欲しかった。すばらしい! そう言っておけば声高に非難されることはないような気がする。俺の中の常識では、加齢による骨折や認知症が薬で治るはずがないのだが、そもそもダンジョンなんてものが現実にあることが俺の中の常識にはない。
それに、本当に高グレードポーションを見つけることができたなら売る前に使うつもりだ。試しに自分へ使うか母を優先するのかは、幾つ見つけられたのか次第だが。
報告が遅れても初犯なので情状酌量が狙えるんじゃないかな。
低脅威度ダンジョンなのだから、一週間? 二週間? ぐらいだったら、罰金刑で済むだろう。済んで欲しいなぁ。一ヶ月を超えると追及が厳しくなりそうな気がするから二、三週を目途に通報を保留して冒険を楽しもう。
ダンジョンから溢れ出た怪生物? が、近隣住民の身体に害を及ばさないことを願うばかりだ。
もちろん最初に襲われるのは俺だろう。
低脅威度ダンジョンと呼ばれていても死の危険はある。これまでは野次馬気分で気ままに接していたが、腰を据えてダンジョン情報の収集に取り掛かるためPCの画面に視線を向けた。
スレッド形式の掲示板。これは駄目だ。新しいスレを建てても、数十分以内に記号文字で埋め立てられる。
時々、関係ないスレにゲリラ的なダンジョン情報が書き込まれるが、これも速攻で埋め立てられるし、スレ住民への迷惑行為にしかならない。
運営側も海外からの書き込みを弾く工夫をあれこれ試みたらしいが結果は惨敗。
某検索エンジンはダンジョン事案以前からキャッシュを表示しないことが増えていたし、生き残ってる個人サイトやブログは、生きているその事が、内容を信じていいのか疑わしいというジレンマ。
スマホは持っているが、ほぼ使わない。国産の部品で国内製造していれば印象も変わるのだろうが、俺はスマホを全く信用していない。
結局、国の公開情報に縋るしかない。
先の戦争。大本営発表や独・英・米*。戦争に負けているときや劣勢だと、国や軍それにマスメディアは国民に嘘をつく。
戦争中に正確な報道がなされないのは仕方がないけれども、太平洋戦争が終わって80年近くになるというのに、未だ歴史とまともに向き合えない日本という国。
欧米が制作した映画『空軍大戦略**』では、劇中で描写された前線の状況とBBCの戦況放送が乖離していることで、戦争の一面を正確に描写している。
翻って邦画。何故か日本という国家だけは誠実でなければならないという大前提を開陳し、監督の頭の中にしか存在しない崇高な理念を実践する日本政府・軍ではなかったという理由で、国や民族を特定し「だから日本は駄目だ」「日本人だけは駄目だ」と否定し切り捨てる。
自身が制作している映画をぶち壊していることに気がついていないのか、作中でアジ演説を2度繰り返したアノ監督。自分がどれだけ危険な信条の持ち主なのか、生涯自覚することはないのだろうな。どうしてそこまでも、日本政府と日本軍だけは人類史上存在したことのない清廉潔白な存在でなければならなかったのだと思い込めるのだろう……
人類史に時折みられる独裁者や民族主義者特有の、自民族だけは他とは違う“特別”な存在でなければならないという非常に危険な思想は、映画を観ていて実に気持ち悪かった。
俺は怪獣特撮映画を見に来たはずなのに、一体何を観せられているのかと。
閑話休題。
ガタルカナルの惨状が伝えられた書籍*** が戦争中に出版されただけでも、英米より日本はましだともいえる。たとえそれが帝国陸海軍の足の引っ張り合いの産物だとしてもだ。
第一次世界大戦では、戦場に招聘されたイギリスの文人が提灯記事を書かずに戦場の現実を公表すれば、反戦機運が高まり戦争はもっと早くに集結したという話もあったし。
さて、お前が言うなと突っ込まれる前に話を戻そう。って俺は誰に弁解しているのか……
中・高脅威度ダンジョンでは定期的に民間人を締め出し、機動隊や自衛隊が何かをやっているが、頻度が低く、閉鎖される間隔が一定なのだから、我が国は対ダンジョン戦を優位に進めているのだろう。恐らくは。
公開情報によると、通称第1層にいるのが粘菌型生物で「スライム」と仮称されている。
ダンジョン外に持ち出すと数十分で米粒ぐらいの固体を残し消滅する。残された固体に金銭価値はないが、踏み潰すことが推奨されている。対処方法は凍結させてから踏み潰すか、ダンジョン公社が販売している簡易火炎放射器で粘菌を払った後に出現した固体を潰すのだが、そんな手間をかける者は殆どいない。主にダンジョン初心者がゲーム感覚で打撃武器を使用して「スライム」内部の固体を叩き潰している。
尚、ダンジョンマナーとして、中高年の男女が1人でスライム潰しに来ているときには話しかけたりせず、いないものとしてスルーするのが礼儀とされている。
火炎放射器か……誰も気にしていないけれど、所謂ダンジョン法は正確に言うと法ではなくて条例で、都道府県によって差異がある。護身の為の最終自衛手段としてのみ使用を許可している都道府県が多い。それと、ダンジョン公社で販売している物を改造して所有していたら、即ダンジョン入場許可証が取り消される。
まぁ今の俺には関係のないことだけれど。
通称第2層。犬に似た四足歩行生物で「狼」と仮称されている。
掲示板が荒らされていない頃には何故「狼」なのかで色々と言われていたが、動物愛護協会から「犬を殺すのか!」との苦情を避けた説。通常の犬と区別がつかなくなるから説。が最後まで残っていた。
ダンジョン外に出すと、数時間で成人男性の足の小指の爪ぐらいの固体を残して体は消滅する。飛び散った体液はダンジョン内でも1時間以内には消滅することが確認されている。
残った固体はダンジョン内に張り巡らされた有線コードの添加材として使われているというのが、現在公開されている使い道の1つだ。
常時買い取りがおこなわれているが、1個、数十円ぐらいなので、買取金額が上がる強化買取期間中に半日ダンジョンに籠って、集中的に狩った「狼」の体内から取り出した物を集めない限り、子供の小遣い程度の収入にしかならない。
対処方法について特記事項はなかったが、集団の「狼」であれば、リーダーと思しき最大の個体を先制・集中攻撃すれば、集団が逃げ去ることもある。とあるな。
あとは、「狼」を狩ることについて心身に負担を感じるようであれば、通称第2層以降に進まないように警告されている。
通称第3層。小学生ぐらいの背丈で「ゴブリン」と仮称されているものがでてくる事が多い。
全身がっしりした体躯、身長に比して異様に大きい手と太い指。
某寺の鬼の像と似ている・似ていないとの論争がネットでは喧しかったことは覚えている。
集団内で会話を交わせる知性があるとされているが、何を言っているのか解読できたという報告は今のところない。
この個体の集団も圧倒的劣位になると逃げだすことが知られている。どういう条件かは未解明。
「狼」よりはダンジョン外での生存期間は長いが、10時間以上、体を保った事例は確認されていない。消滅後の固体は「狼」より少し大きいが、買取金額は「狼」と変わらない。
「ゴブリン」を殺すことに痛痒を感じないことがダンジョン中級者の条件とされている。
一般的なダンジョン情報はこんなものか。偶に変則的なダンジョンもあるらしいが、低脅威度ダンジョンはほぼ似たような構成らしい。
そういえば、ダンジョン情報が公開されてすぐに、ダンジョン=神の造ったゲーム説があったな。確かにゲーム的な構成だと俺も思う。何の神かは知らないけれど。
久しぶりにみたダンジョン公式ホームページの表記に変わったところは無いようだ。
ダンジョンで時折見つかるオーブのグレード。外国はサッカーのリーグに例えているところが多いけれども、日本人には馴染み難いということで、日本は独自の公式設定を定めている。本当にガラパゴスが好きな国民だと思う。。
紫 世界大会の優勝候補。
藍 世界大会のベスト4・8止まり。
青 全国大会で優勝候補。
緑 全国大会のベスト4・8止まり。
黄 都道府県大会で優勝候補。
橙 都道府県大会のベスト4・8止まり
赤 都道府県大会に記念出場レベル。
素人が硬オーブ(青)で柔道のスキルを得た場合。日本代表にはなれても世界大会では初戦で敗退する程度の強さにしかなれない。
もちろん、この設定は目安であるから、競技人口の少ないスポーツであれば、硬オーブ(青)で世界大会優勝も可能であるかもしれない。
ダンジョン出現以降の数年間は不正が疑われていたオーブ使用問題。全てのプロスポーツと金銭の絡むチェスや将棋等の大会では、試合前と直後に鑑定能力持ちからのチェックが義務づけられるようになることで解消した。心ある関係者はこのチェックによってドーピング問題も解決されると期待したが、ドーピングの闇は鑑定スキルでどうにかなるほど単純なものではなかった。
紫と藍を区別しているのは日本人だけだとか、虹は7色ではないとか、男と女では色の種別が一致しないとか、ネット上では姦しかったが、そもそも江戸時代の日本人は虹を5色としていて、7色だと言ったのはニュートンだと、ダンジョン公社公式ホームページで書かれるようになってからは色についての異論談義は沈静化した。
外国では、青みどりや黄みどり等、お国事情で区別しているようだ。
カテゴライズが5分類の国もあれば、9分類の国もある。
つまるところ色は凡その指標であって、確定されたレベルが約束されているわけではないらしい。
ダンジョン公社は機動隊・自衛隊・民間人のチーム・個人を色分けしているという噂は根強いが、公社側が公式に認めたことはない。
ダンジョンで発見された硬いオーブ。公式に確認されたのは、青・緑・黄・橙・赤のみ。紫・藍は恐らくあるだろうという推測。
使用しているイメージを強く念じて握りしめれば、念じたスキルレベルが強化されるが、何が強化されたのかは[鑑定]で調べないとはっきりしない。使用者が明らかに上達したと感じることができれば成功したことになる。
イメージを念じている際に、何らかのアクシデントがあると失敗しオーブは失われる。又、余計な雑念が入ると、使用者も何のスキルが上達したのか[鑑定]で確認しないと判然としないことになる。
軟体オーブ。公式に確認されたのは、緑・黄・橙・赤のみ。緑のオーブの買取金額は何故か公表されていない。青のオーブを巡って中米ではファミリーが幾つか消えたという噂はあるが、消えた原因は麻薬絡みで米のDIA**** が主導した介入だというのが非公式アナウンスになっている。
衝撃に強く破裂しにくい。念じると損傷部位治癒薬・病気治癒薬・毒消しに変化する。
通常の骨折であれば、橙か黄のオーブだが……加齢による骨折って黄でなんとかなるのか? 緑なんて保有を公表することは危なすぎるから、見つけても人前にはだせないか。
認知症は初期ならともかく、緑のオーブでも駄目だろうなぁ……
そもそも認知症は、脳の損傷か? 病気なのか?
軟体オーブを病気治癒薬として使用する場合は、経口薬をイメージすれば良いらしい。天然痘や性病等皮膚に症例が顕著な場合は膿に触れさせてから経口薬をイメージした方が効果が高いのだが、それは望まれない事が多いらしい。多分俺もやらない。
軟体オーブを毒消しに使用する場合は、毒をオーブに付け、オーブが毒に反応してから毒消しをイメージするのが一番効果があるらしい。
毒は面倒だからなぁ。確か経口毒、皮膚に触れる接触毒、刺し傷や裂傷を介しての体内への注入毒、呼吸器系への毒があるんだったか、もっとあるか、まぁどうでもいい。
大体、呼吸器系への毒にはどう対応するんだ? 気体にオーブをさらすのか? その間に俺死んじゃわない?
接触毒や注入毒に対してはゼリー状の毒消しをイメージしろってのはわかるが、呼吸器系に作用する毒なら、袋の中でオーブを気体状の毒消しとしてイメージし、頭から被れと言われても、警察や自衛隊なら専門の医療担当を用意できるだろうが、俺には関係ない話だ。そんな冷静な対応を咄嗟にとれるはずがない。
わざわざ御丁寧に、多数の注入毒(蜂の大群?)や接触毒・呼吸器系毒に対して経口薬として毒消しを飲んだ場合は、薬の効果が発揮される前に死亡する可能性がありますとある。ご親切ですこと。
あぁ、毒を使うモンスターが報告されている階層へ行く前には、有料の講座を受講することが推奨されているな。
毒といえばピタゴラス教団が戒律で禁じたソラマメ。花粉は嚥下と呼吸と眼球と、どこから入ってきて中毒になるんだろう?
毒には関わりたくないなぁ。
* ハンソン・ボールドウィン『勝利と敗北 第二次大戦の記録』朝日新聞社 1967年
・英独航空戦ではどちらの国も損失を過小に戦果を過大に発表している。
・米は日本海軍巡洋艦への至近弾を戦艦撃沈と誤報。フィリピン攻略に苦戦している本間中将が自殺したと誤報。所謂バターン死の行進で知られるバターンにおいて前線の米兵が飢えに苦しんでいるのをよそに、後方にいた一部のフィリピン兵は米軍の糧食を自宅に持ち帰っていて前線に糧食を送らなかったことも指摘している。
** 『空軍大戦略』 英・西独・米合作映画 1969
*** 文化奉公会『大東亞戰爭陸軍報道班員手記―ガダルカナルの血戰』大日本雄辯會講談社 1943年
**** Defense Intelligence Agency 米国国防情報局




